吸血鬼のしもべ

時生

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第五話 主の帰宅(1)

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 雨が壁を叩きつづけている。 

 一人きりの食堂で魁英かいえいは肉炒めを口に押し込んだ。大きな牙が咀嚼の度に唇に当たるのが嫌だったが、口いっぱいに頬張ると、当たらなくなることを先ほど発見したのだ。

 箸を二度口に運んでからギュウギュウと噛んでいく。唇の端からタレが零れたのを拭った。
 肉は鶏なのか牛なのか豚なのか、または見たこともない未知の生き物の肉かも知れないが、味が分からない魁英には確かめようもなかった。

 こりこりした歯触りのものを噛み潰して、ゴクリと大きく喉仏を上下させる。

 子静しせい子躍しやくが煎じた解熱剤は一定の効果を現したようだった。「月鳴げつめい様の熱が下がった」と子どもたちは安堵していたが、劇的に下がったわけではなく、二人は寝室にこもったままつきっきりで主の看病をしている。合間に用意してくれた夕食を魁英が一人で食べているのだ。

 一日で二度食事を摂ることは今までの生活では有り得なかったが、規則正しく食事をして知ったのは、空腹も知らない代わりに、己には満腹というものもないということだった。

 箸を置き、ため息をつく。歯の裏にひっかかった葉を舌でこそいで飲み下す。

 完食しても魁英は立ち上がらなかった。月鳴の容態は気になったが、寝室に行けばまた月鳴の肌を吸ってしまいそうで、その上、病気も知らず、人の看病などしたことのない自分が、役に立つとは思えなかった。

 ゴオォ、と大風が屋敷を押した。一瞬遅れてバタタタタと雨が壁を打つ。

 食堂は大きな窓があり、朝見た時は森が美しく光っていたが、今は真っ暗なだけで、雨に濡れた窓の奥には揺れる木陰以外は何も見えない。再び大きな風の音が聞こえ、屋敷がギシリと大きく鳴った。

 こうした嵐の夜は洞窟の奥で、水がみている岩を背に夜を過ごしたことを思い、寒くもないのに己の肩を抱いた。二の腕をさすり、ため息をつく。

 広い空間で孤独に雨風の音を聞くのはあまり心地良いものではない。寝室に下がるか、または、役に立たずとも月鳴の傍にいようか。

 思案しながら再びため息をついた時、視界の端に光るものがあった。窓の方向だ。驚いて顔を上げると、確かにぼんやりとした灯篭ランプのような光が、明滅しながら窓の外を横切っていった。

 ――誰かいるのか?こんな雨の中を?

 椅子から立ち上がり中腰のまま、唖然として窓の外を見ていると、間もなく扉を叩く音がした。

 ――ドンドンドンドン、ドンドンドンドン

 矢継ぎ早な叩き方だった。
 食堂を出て廊下を通り、玄関へと走る。二階に続く階段を見たが誰も降りてこない。足音もしなかった。

 扉に近づくと雨風の音が激しくなる。見ると、ギイギイと鳴る両扉の間に隙間が空いており、先ほどの灯篭ランプの灯りが、隙間から玄関の床に切り込んでいる。高い風切音が空間を渦巻いて昇っていく。

 魁英は、外の人物が引いているものとは反対の扉をぐいと押した。

 ――開けていいのか?
 
 押した瞬間、そんな不安がちりっと走ったがすでに遅かった。

 向かい風に吹かれて重くなった扉を押し、人一人通れるほどの隙間を空けたその時、急に風向きが変わった。吹いてくる風の勢いで扉は魁英の手を振り切って蝶番の限界まで開いてしまった。大風が屋敷の中に入り込み、逃げ道を求めて壁を揺らしていく。

 慌てた魁英が扉の取っ手を掴み、力を込めて引くと、扉の閉まる音が屋敷中に響き渡った。

 屋敷が壊れるかと思った。魁英の心臓がバクバクと痛いほど高く鳴っている。
 強張る指を伸ばして輪状の取っ手を離し、自分を落ち着かせるように大きく呼吸をする。

 息を吐いた魁英のすぐ横で、カランと金属音がした。顔を向けるとほんのすぐ傍に、床に落ちた灯篭ランプに照らされた真っ黒な「ナニカ」が立っていた。
 
「ひっ……!」

 恐怖のあまり硬直した魁英の視線の先で、黒い影から白く細い手が現れる。細い割に形の大きなそれが上へとのぼっていき、黒い皮を人差し指と親指でつまんで剥がした。雨に隙間なく濡れた外套の頭巾を下ろして、現れた顔は美しい男のものだった。

 肌は暗闇でも分かるほどに白く、髪はぬばたまの黒。全体的に線が細い中で大きく骨張った手が濡れた髪をかき上げた。

 肩の近くで濡れてうねる毛先からボタボタ水が落ちる。  

 月鳴よりも十ほど下くらいに見える壮年の男だった。

 伏し目は睫毛が濃く、美麗だが、額へと伸びる眉は太く男らしかった。
 骨格といい、造作といい月鳴の方が整っているが、魁英の隣に立つ痩せ身の男は目を離させない妖しさがある。

 魁英と男の間には頭一つ近く背丈の違いがあり、魁英が見下ろす先で男が髪をかきあげつつ顎を上向け、魁英と目を合せた。

 大きな、まるで猫のような目だ。暗闇で瞳の色は分からないはずなのに、うっすらと赤く光っているように見える。その目に捕まった瞬間、ビリっと魁英の頭に走るものがあった。

 ――この顔、どこかで……

 頭が痺れ、ぶわりと現実感を失う。ぼんやりとした視界に蛍のような翠色の光の粒が散る中で、優しい声が聞こえた。青臭い森の匂いがする。

 唐突に現れた大きな手がおいで、とこちらに差し伸べられる。

 《おいで、英龍……》

 涼やかな声が呼びながら、白い手が伸びてきて、頬に触れた。
 紅い目が、奥で光っている。


「大きいな」

 頬に伝わる冷たさに、はっと魁英が目の前の男に焦点を合わせると、男は魁英の頬に添えていた手を翻して甲で頬を撫でた。視線が交わった瞬間、紅い目の中の瞳孔が広がる。それを見た魁英の背筋に震えが走った。

 魁英を見上げる男の眉間がわずかに寄った。

伯陽はくようよりも大きい」
「やめ、」

 低く染み入るような声だった。怖くなって頬に触れる手を振り払うと同時に、二人分の足音が階段を下りてきた。

 現れた子静と子躍は、肩で息をしながら階下で足を揃えて立ち、男に向かって深々とお辞儀した。

「お帰りなさいませ、大旦那様!」
「ただいま。伯陽はどうだ?」
「お熱が下がりきらなくて」

 外套を肩から落とす男に、子どもたちが駆け寄って脱ぐのを手伝う。大雨のために外套の下にも水が染みて、脱ぎ辛そうにしている袖を子躍が引っ張った。脱がせたものを畳もうとする端から、水が滴り落ちる様子に、子躍の表情が曇る。

「先にお風呂の方がよろしいですか?」
「いいや。伯陽を落ち着かせる方が先だ。白郎はくろう、着替えを寝室に用意してくれ」
「承知いたしました」

 男が足元に声を掛けると、どこからともなく低い声が応答する。
 子静と階段を上り始めた男の姿を魁英が目で追っていると、振り向いた紅い目と視線がぶつかった。
「ひぅ」と魁英の喉が鳴る。

「来なさい」

 短い命令だが、有無を言わせぬ雰囲気に魁英は体の緊張を感じた。足が嫌がるのを叱咤して、小柄な背中を追い掛ける。

 階段を上りきった先に見える扉の脇に立ち、足を止めた子静の横で、紅い目の男は何の躊躇もなく扉を開けて中に入り込んだ。


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