吸血鬼のしもべ

時生

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第二話 吸血鬼の屋敷(2)

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 男は、杏子に似た小ぶりの果実を二つ掴むと、青年と目を合わせてひとつに齧りついた。丸い整った歯がジュプという音を立てる。唇の端に溢れた汁をくすんだ色の舌が舐め取った。咀嚼そしゃくしながら男が屈みこむ。銀の刺繍が入った黒の長袍ちょうほうに複雑な皺が寄った。もう一口、男は大きく口を開いて柔らかそうな実に歯を立てた。勢いのいい食べっぷりは見ていて気持ちがよかった。

 空腹は感じないが、喉の渇きを覚えてじっと男を見ていると、男はもう一つの実を持った腕を頭の上にまで上げて、青年に向かって投げてきた。普段であれば、何かを投げつけられれば身を固くして時間が過ぎるのを待つだけだが、男に悪意は無さそうで、思わず両手で受け止める。

「食えよ」

 熟れた実はだいだい色の薄皮の向こうにぷにぷにとした柔らかい果肉があるのが分かる。男にならって大きく口を開けて噛みついた。柔らかい食感に続いて汁が溢れ出る。味こそ分からないが、冷たいそれが喉を通り抜けると少し気分が落ち着いた。口を拭いながら残りを全て頬張る。皮を噛むとほんのわずか酸味があった。大きな種を出していると視線を感じる。顔を上げると、男は食べかけの実を持ったままこちらを見ていた。

 目が合った瞬間、切れ長の目尻がほんのわずか下がった。

 ――バク。

 体に振動を感じて胸を撫でる。男は目を伏せて種から果肉をこそぎ取ると屑籠に種を放り込んだ。長い足を伸ばして立ち上がり、卓の上の布巾で手を拭う。裾の皺を伸ばした。
 咀嚼しながら一連の動きを見ていた青年は、

「おい」
「いてっ!」

 急に声を掛けられたことに驚いて、思い切り牙で唇を噛んだ。触ると指に血がつく。汁が入り込んで、妙に沁みた。顎に血が伝い落ちる。

「何やってんだ」

 止める間もなく、近寄ってきた男に顎を掴まれた。首を反らされ、男が口元を覗き込んでくる。男は青年の顎を掴んだまま、さらに顔を寄せ――。

 直後唇を襲ったぬる、とした感触に、青年は背筋を震わせた。うねる筋肉の塊が傷の上を往復する。
「もったいねえな」と呟きながら男は、顎の下にまで流れた血を舐め取った。体全体が熱くなる。

「何!?」
「治してやったんだ」
「なな、なお、治すっ、うん……!」

 袖で口元を拭われた。顎を持つ手が離れたので慌てて口を覆う。傷ついた箇所を指で触ると、痛くなかった。血もつかない。

「え……」
「真血の屋敷だって言っただろう。これくらいのことで何を驚いているんだ、一体……しかし、牙で口噛むなんて随分慣れてないな。最近生えたとかか?」
「きの、昨日!」

 昨日? 驚いたように男が目を見張る。そうだ、と何度か頷くと、男の驚愕はすぐに消えた。あまりにも呆気なく驚きが去ったことに、青年の目が丸くする。

「ほー……そりゃあ、おめでとう。大人になったんだな」
「――?」

 意味が分からない。予想外の言葉過ぎて頭が真っ白になる。

「大人、なったら、牙が生える……?」
「そりゃそうだ。吸血鬼に"成った"んだ。喜べよ」
「吸血鬼……?」

 繰り返すだけの青年の呟きに、男が目を細めた。不審げに眉を寄せられた顔を前に、初めて思い至ったある考えに背筋が粟立った。

 ――この男、もしかして人じゃないんじゃ……。

 山の中で、影のように草の上を進む黒い靄を何度か見かけたことがある。聞いたことのない言葉を呟きながら四足で歩く老爺を見た時は生きた心地がしなかった。山野には人や鳥獣ではないものが在った。そして、それと関わってはいけないことも、知っていた。食われる人を見たことがあったから。

「吸、血、鬼……!?」

 何本もの蛇の束のようなものが、若い女の腹を食っている光景を思い出して、青年は血の気が引く音が聞こえた気がした。

「妙だな。何を驚いている? なあ、本当に腹が痛まないのか、俺の血を飲んだのに? ――牙こそ無いが、俺だって吸血鬼なんだよ」

 最後の一言に、全身が痺れたように力が抜けた。呼吸をすることで精いっぱいの青年の顔を男が覗き込む。整った顔に疑惑が滲んでいた。

 ――お前一体何者だ?

 低い声で囁かれたのを最後に、青年の意識は途絶した。
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