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(9)男たちの散歩
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今もディランは、ルビーと同じ店で働いている。とはいえ、手伝いとして一時的に雇ってもらっていたときとは異なり、一人暮らしをすることになってしまった。娘のことをそういう目で見ている男は、居候させるわけにはいかないらしい。
想いを伝える前よりも、なぜか物理的な距離が遠くなったような気がして、ディランは苦笑する。
ルビーとメリッサとの関係も少しずつ改善が見られている。メリッサはどうしても研究室に閉じこもりがちで、一度集中すると周囲の声など届かない。だが今までは遠慮していたルビーが、時々研究室に顔を出すことで定期的に会話ができるようになったらしい。家族団らんの時間を意識的にとるだけでなく、ふたり一緒にお茶をしている姿を見るにつけ、ディランはほっとしているのだった。妻とふたりきりの時間が減ってしまった義父は、大変悲しそうではあるが我慢していただこう。
「ディラン、今日もお疲れさま。明日も早いから、あまり遅くまで起きていないようにね。おやすみなさい」
「心配なら家まで来て、一緒に寝てくれてもいいが」
「はいはい、寝言は寝てから言ってね」
「冗談ではないのだが……」
ため息をつきながらディランはとぼとぼと部屋に帰り、灯りを消した。宣言通り、ディランは自身の嗅覚を抑える薬を服用している。正確には、番であるルビーの匂いへの感度を抑える薬を服用しているという方が正しい。匂いがわからないことで、ルビーを守れなくなっては本末転倒だと義父に諭されたためだ。
ルビーの感情が認識できないほど極限にまで薄まっていても、多幸感に囚われてしまいそうな香りは、もはや甘い毒とも言える。
自室に戻り身支度を整えていれば、こつこつと窓を叩く音。それを合図に窓から外へ出ると、昼間とは随分と雰囲気の異なるルビーの義父が彼のことを待っていた。
「お義父上、やはりそちらがお似合いだ」
「ええ、やだもう、お義父上とかやめてよ。君の口からそんなこと言われると、気持ち悪くて反射的に殺したくなっちゃうよ」
へらへらと笑う男は、昼間の穏やかそうな姿とは大違いだ。ぼさぼさの髪を撫でつけ眼鏡を取り払い、猫背もやめてしまえば、そこにはルビーが苦手とするであろう華やかな美貌の男がひとり。
「ルビーには黙っているつもりか」
「どうして教えてあげる必要があるの?」
「あなたはルビーに守られるような軟弱な男ではないはずだが」
ズグロモリモズの獣人である義父は、雪豹の獣人であるディランと違って耳や尻尾がない。そして半獣人であり、その能力を封じてしまっているルビーは、自分の義父が人間ではないことに気がついていないのだ。
義父に荒事なんて無理だと信じているルビーが、この男の正体を知れば一体どんな顔をするだろうか。その手に触れただけで相手の命を奪えるような、猛毒使いが隣で微笑んでいると言ったところで、きっと彼女は信じないはずだ。
それどころか、義父のことを馬鹿にするなと怒ってしまうかもしれない。現状、ルビーからの信頼度は自分よりも義父の方が高い。そのことを残念ながらディランもまた理解していた。
「まあ、確かにどれだけの敵を無力化できるかということならば僕の方が強いかもしれないけどさあ。心の強さなら、ルビーの方が断然強いよ。僕なんて、いつメリッサさんに捨てられちゃうのか胃が痛くて仕方がないんだから」
「黙って捨てられるつもりなんてないだろう」
「そりゃあ捨てようと思わないくらい、大切にしてでろでろに甘やかしているけどさあ。人間って縛れないじゃない。僕たちは、相手のことを食べちゃいたいくらい愛しているのに」
「比喩に聞こえない表現はやめてくれ」
「僕はいつだって本気だよ?」
くすくすと笑いをこらえる男のことを、ディランはよく知っている。最初に会ったときに戸惑ったのは、かつての彼とあまりに変わっていたからだ。
彼は毒の扱いに長けた宮廷医だった。突然失踪したとは聞いていたが、まさか隣国で花屋を営んでいたとは。周辺国にも捜索隊を送り込んでいたにもかかわらず、手がかりひとつ掴めなかった理由がようやくわかった。
彼が突然いなくなったことで、王族たちがパニックに陥ったことはまだ記憶に新しい。彼は腕利きの医者というだけではない。毒物を無効化することに長けた凄腕の薬師だったのだから。
義父の種族を知って納得する。なるほど、毒であれ薬であれ作るのが得意なはずだ。とはいえ、街全体に獣人の嗅覚を麻痺させるような毒物を浮遊させているとなるとやり過ぎなような気もするが。
謝肉祭の期間だから少しだけ鎮静効果を強くさせたと聞いているが、それもどこまで信用していいものやら。彼には彼なりの思惑があるのだろう。少なくとも、うっかりミスで調合を失敗するような真似はしないはずだ。そもそも毒の配合を誤ったのなら、その結果をなかったことにすればいいだけなのだから。
「イヤだなあ。いちいち警戒しなくても、僕は君を殺さないよ。そんなことしたら、ルビーが泣いちゃうじゃない。ルビーを泣かせたらメリッサさんに嫌われちゃうからね」
「どうだか」
「バレないように君を殺すことは難しくないけれど、やっぱりルビーには幸せになってほしいからさ」
「養い親としての責任感か?」
「それだけじゃないよ。僕もね、ルビーには悪いことをしたと思っているんだ。自分は、愛される価値がないと思わせてしまってね」
その言葉に、ディランは眼光を鋭くした。
想いを伝える前よりも、なぜか物理的な距離が遠くなったような気がして、ディランは苦笑する。
ルビーとメリッサとの関係も少しずつ改善が見られている。メリッサはどうしても研究室に閉じこもりがちで、一度集中すると周囲の声など届かない。だが今までは遠慮していたルビーが、時々研究室に顔を出すことで定期的に会話ができるようになったらしい。家族団らんの時間を意識的にとるだけでなく、ふたり一緒にお茶をしている姿を見るにつけ、ディランはほっとしているのだった。妻とふたりきりの時間が減ってしまった義父は、大変悲しそうではあるが我慢していただこう。
「ディラン、今日もお疲れさま。明日も早いから、あまり遅くまで起きていないようにね。おやすみなさい」
「心配なら家まで来て、一緒に寝てくれてもいいが」
「はいはい、寝言は寝てから言ってね」
「冗談ではないのだが……」
ため息をつきながらディランはとぼとぼと部屋に帰り、灯りを消した。宣言通り、ディランは自身の嗅覚を抑える薬を服用している。正確には、番であるルビーの匂いへの感度を抑える薬を服用しているという方が正しい。匂いがわからないことで、ルビーを守れなくなっては本末転倒だと義父に諭されたためだ。
ルビーの感情が認識できないほど極限にまで薄まっていても、多幸感に囚われてしまいそうな香りは、もはや甘い毒とも言える。
自室に戻り身支度を整えていれば、こつこつと窓を叩く音。それを合図に窓から外へ出ると、昼間とは随分と雰囲気の異なるルビーの義父が彼のことを待っていた。
「お義父上、やはりそちらがお似合いだ」
「ええ、やだもう、お義父上とかやめてよ。君の口からそんなこと言われると、気持ち悪くて反射的に殺したくなっちゃうよ」
へらへらと笑う男は、昼間の穏やかそうな姿とは大違いだ。ぼさぼさの髪を撫でつけ眼鏡を取り払い、猫背もやめてしまえば、そこにはルビーが苦手とするであろう華やかな美貌の男がひとり。
「ルビーには黙っているつもりか」
「どうして教えてあげる必要があるの?」
「あなたはルビーに守られるような軟弱な男ではないはずだが」
ズグロモリモズの獣人である義父は、雪豹の獣人であるディランと違って耳や尻尾がない。そして半獣人であり、その能力を封じてしまっているルビーは、自分の義父が人間ではないことに気がついていないのだ。
義父に荒事なんて無理だと信じているルビーが、この男の正体を知れば一体どんな顔をするだろうか。その手に触れただけで相手の命を奪えるような、猛毒使いが隣で微笑んでいると言ったところで、きっと彼女は信じないはずだ。
それどころか、義父のことを馬鹿にするなと怒ってしまうかもしれない。現状、ルビーからの信頼度は自分よりも義父の方が高い。そのことを残念ながらディランもまた理解していた。
「まあ、確かにどれだけの敵を無力化できるかということならば僕の方が強いかもしれないけどさあ。心の強さなら、ルビーの方が断然強いよ。僕なんて、いつメリッサさんに捨てられちゃうのか胃が痛くて仕方がないんだから」
「黙って捨てられるつもりなんてないだろう」
「そりゃあ捨てようと思わないくらい、大切にしてでろでろに甘やかしているけどさあ。人間って縛れないじゃない。僕たちは、相手のことを食べちゃいたいくらい愛しているのに」
「比喩に聞こえない表現はやめてくれ」
「僕はいつだって本気だよ?」
くすくすと笑いをこらえる男のことを、ディランはよく知っている。最初に会ったときに戸惑ったのは、かつての彼とあまりに変わっていたからだ。
彼は毒の扱いに長けた宮廷医だった。突然失踪したとは聞いていたが、まさか隣国で花屋を営んでいたとは。周辺国にも捜索隊を送り込んでいたにもかかわらず、手がかりひとつ掴めなかった理由がようやくわかった。
彼が突然いなくなったことで、王族たちがパニックに陥ったことはまだ記憶に新しい。彼は腕利きの医者というだけではない。毒物を無効化することに長けた凄腕の薬師だったのだから。
義父の種族を知って納得する。なるほど、毒であれ薬であれ作るのが得意なはずだ。とはいえ、街全体に獣人の嗅覚を麻痺させるような毒物を浮遊させているとなるとやり過ぎなような気もするが。
謝肉祭の期間だから少しだけ鎮静効果を強くさせたと聞いているが、それもどこまで信用していいものやら。彼には彼なりの思惑があるのだろう。少なくとも、うっかりミスで調合を失敗するような真似はしないはずだ。そもそも毒の配合を誤ったのなら、その結果をなかったことにすればいいだけなのだから。
「イヤだなあ。いちいち警戒しなくても、僕は君を殺さないよ。そんなことしたら、ルビーが泣いちゃうじゃない。ルビーを泣かせたらメリッサさんに嫌われちゃうからね」
「どうだか」
「バレないように君を殺すことは難しくないけれど、やっぱりルビーには幸せになってほしいからさ」
「養い親としての責任感か?」
「それだけじゃないよ。僕もね、ルビーには悪いことをしたと思っているんだ。自分は、愛される価値がないと思わせてしまってね」
その言葉に、ディランは眼光を鋭くした。
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