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6.絶望
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それは突然の出来事だった。
新年を間近に控え、誰もが浮き足立った冬のある日、王の執務室を厳しい顔つきをした数人の男たちが訪れた。国の法を取り締まる官吏たちである。男たちの顔はどこか土気色をしていて、男たちこそが罪を突きつけられた罪人の様に沈痛な面持ちをしていた。そのまま不躾に王に告げられた罪状は、違法薬物の栽培、製造、流通、販売に加えて、人身売買、国家機密の流出等、錚々たるものだった。どれもこれも、女が男に命じて探らせていたものばかりだ。
密輸という項目がないことが、妙に女はおかしかった。霧が多く、日照時間の少ないこの西国ではあの植物は育たぬのだ。それにもかかわらず、この言い草は何処の国の入れ知恵か。そもそも王である自分の名の下に動くはずの官吏たちが、誰ぞ大いなる力によって動かされていることもまた癪にさわる。誰か……それはつまるところ女を庇護していたはずの叔父なのであるが。
精神に影響するあの特殊な植物。気分を高揚させる成分を含み、たちの悪いことに依存性が高い。一度二度と興味本意で吸ううちに、あっという間に深みにはまってしまう。幻覚幻聴の末に精神を病み、廃人になることも多いと聞く。事実、数代前の世では、これが原因で東国で大きな戦が起きたのだ。それ故、西国とてこれには目を光らせてきた。残念ながら、その目を掻い潜って既に蔓延してしまっていたのであるが。
これの生育に適した南国は、最近日照り続きだという。国土の多くに砂漠を抱えるかの国からすれば、豊かな清流に恵まれたこの肥沃な大地は、喉から手が出るほどに欲しい代物であるに違いない。はたまた雪に閉ざされた、遠い北国が仕掛けてきたのか。あちらの国は豊かな海に面しているとはいえ、その海は冬になれば硬い氷に覆われてしまう。足を奪われて身動きが取れぬ故、不凍港の入手は建国以来の悲願であったはず。自由に生きる草原の民とて、定住の場所を欲したのかもしれぬ。この大陸の何処にももはや空いている土地など無いのだ、欲すれば他者から奪うのみ。
あれこれ考えながらも、女は東国を疑うことを良しとしなかった。あの国は一度、薬のせいで大きな痛手を負っている。東国では一度でも手を出せば、即刻縛り首だと男は眉を顰ていた。禁忌に触れてまで、他国に戦を仕掛けるような愚かな真似はしないだろうと、女は甘い考えに酔った。そのような因縁があればこそ疑わしいのが常である。だからこれは女の願望なのだ。ただそうであって欲しい、それだけである。好いた男の故郷が、自分を陥れようとしているのではないとただ信じていたかった。
そして女はうっすらと笑う。この場には、あの東国人の男がいない。数日前から、緊急の所用があると城を飛び出してしまっている。男が裏切ったのだと露ほども思わない自分に正直驚いていた。こんな状況にあるというのに、何故か心は穏やかなのだ。きっと男が助けに来てくれると何故か安心して待っている自分に気がつく。それがどうにも面映くて、自然と唇が笑みの形につり上がってしまうのだ。罪状を読み上げていた官吏は、怒り狂うこともなく、艶やかに笑う国王のことを薄気味悪そうに見つめている。居心地の悪い部屋を早々に後にするべく、男たちは国王を促した。
女は椅子に深々と腰掛けたまま、官吏が高々と掲げる書状を見上げた。念のため、間近で見せてもらった書状に書かれた名は、確かに叔父のものである。けれどその筆跡は、書類ごとにすべて異なる様相を見せていた。あるものは死期が間近に迫った老人のようにか細く、ひどく震えていた。あるものは怒りをぶつけるように、荒々しく強い筆圧で殴り描きされていた。記憶の底にあった叔父の手跡は、流れるように鮮やかなものではなかったか。偽の書状ではないであろうが、それならばなおのこと恐ろしい。それは即ち叔父もまた、正常にあらずという事実を示すのだから。
叔父の心中が見当もつかぬ。困惑する女の脳裏に、優しげな叔父の笑顔が浮かぶ。王位の譲渡をそれとなく仄かせば、こちらが驚くほど真剣な眼差しで固辞していた叔父が、今更王位に就くことを画策するであろうか。叔父が裏切ったのか、それとも叔父もまた他国の誰かに嵌められたのか。女は意図のわからぬこの騒ぎの中で、ただ天を仰いだ。
女は、部屋の中で今後の策を考える。そこは自室ではないが、牢でもなかった。罪人のための北の塔にこのような場所があったとは。罪を犯した貴人のために、特別に誂えたものらしい。ご大層な反省部屋ということか。不思議なことにあの書状は嫌疑であり、罪人であるかはこれから決められるのだという。華美ではないが、清潔にしつらえられた寝具。食事とて、質素ではあるが温かく調理されたものが与えられるのだ。何より自分を取り巻く人々は、召し使いのみならず官吏までも未だに己を王として傅く。ただし何を聞いてもついぞ誰も言葉を返さぬのであったが。
まるで取り上げた王の座を、直ぐにでも返してやると言わんばかりの態度が不愉快である。このような場所に己を押し込み、何を目論んでいるのやら。とはいえ、腹が空いていては何も出来ぬ。このような場で、毒を入れる者もないだろうと女は、平然と食事をとる。いつか自分を迎えに来る男に、やつれた顔を見せるのだけは我慢ならなかった。
女が軟禁されてから数日後の夜、女のもとに訃報が届いた。王国を流れる大河から男の遺体が揚がったという。男が死んだと聞いて、女は一瞬何を言われたか理解できなかった。言葉は耳に入ってきたというのに、頭の中でまるで意味を成さないのだ。呆然とする女の目の前に差し出されたのは、男が大切にしていた東国の剣だった。
王都近くを流れる大河から引き揚げたのだという。鮮やかな布飾りは何処をどう彷徨ったのか、酷くくたびれ襤褸布と化していた。けれど細かい意匠を施されていた柄や、西国の剣とは異なる形の刃は記憶にある男のものと相違なかった。女が男のものだと一目見て断言できたのは、その剣で幾度となく命を救われていたからだ。あの出会いの春の日もそうであった。
どうしようもないほど、吐き気がする。身体が震えて、寒くて堪らないのは何故だろう。女を気遣う官吏たちの声が、奇妙に遠くに聞こえた。男はどんな時であっても、愛用の剣をその身から離さなかった。寝台にまで持ち込んでいたのだ。その剣が河底で見つかったという理由を女は理解できぬ。あの男が剣を手放してもどうしようもないような状態だったということは、つまりどういうことなのか。それを認めるわけにはいかぬのだ。
胃の腑を締め付けられるような強烈な痛み。女は、官吏に告げる。遺体をこの目で見なければ、男が死んだのかわからぬ。剣の一つや二つで、人の生き死になど決まらぬであろう。その言葉を予想していたのか、男たちは非常に渋い顔をした。長いこと水の中に在りました故、まともな状態ではありませぬ。そう答えた男たちに食い下がれば、そのまま薄暗い廊下へと案内された。
下へ下へと階段を下って行く。この塔は、ここまで深く出来ていたのかと驚けば顔に出ていたのであろうか。あまり気持ちの良い場所ではありませぬ故、公にはされておりませぬと官吏が答えた。少しずつ奇妙な臭いが近づいてくる。それはぞわりと背中を震わせるような、何処かおかしい臭いだ。このような酷い臭いを女は知らぬ。けれど己の本能は知っているのであろう、何かに警告を受けたかのように足が前に進まぬのだ。この扉の向こうに男はいるというのに、足は廊下に張り付いたように動かない。
女を放ったまま、官吏は無言で扉を開けた。不意に目がしみるような異臭が解き放たれ、女は背けるようにしていた顔をあげた。赤い鬼のように膨らんだ何かが其処にはあった。髪もなく、眼窩もおちくぼみ、ぶよぶよに膨らんだ何か。東国の装束と、おおよその背丈、近くから見つかった剣で男と断定したのだと、官吏たちは説明した。
覚悟は出来ていたつもりであった。人の死を間近で見るのは初めてではない。毒味で目の前で死んだ侍女もいれば、自分を殺すために送り込まれ返り討ちにあった間者もいる。それこそ錆びた鉄のような血の臭いは、いつからか身近なものに成り下がっていた。昔のような大きな戦はなくとも、国境沿いの小競り合いは続いている。打ち倒された兵士の亡骸を手ずから葬ったこともあるのだ。
それにもかかわらず、気づけば女は床に這いつくばり、嘔吐いていた。胃が痙攣したかのように痛みが止まらない。臓物まですべて出しきったかと思うほど取り乱した女の背を、誰かが優しく撫で擦る。振り返れば、何処か懐かしさを感じさせる顔をした侍女が、女を心配そうに見ていた。
侍女に手を引かれ部屋に戻れば、そこには叔父が待っていた。叔父と名乗られなければわからぬほど、変わり果てた姿である。あの武人らしい身体はどこへ行ってしまったのか。枯れ木のような姿で、叔父はこちらを見て笑っている。好々爺のようなその笑顔は、本来であればもっと先の未来で見ることになった姿であろう。壮年の逞しき武将は、既にその姿を老人へと変えてしまった。何故、叔父ほどの男がこんなことになったのであろうか。何故、あのような仮初めの夢を見せるものに縋ったのか。女にはわからぬのだ。
叔父は明らさまに喜色を浮かべていた。全て東国人の仕業であったのだな。あのような男をみすみすお前の側に置いてしまったとは、慚愧に耐えぬ。そう労わるように己に話しかけてきた時、女はようやく叔父の意図を悟った。叔父は、東国人の男を見捨てさえすれば、女に咎はないと言っているのだ。つまりここで女が従順に叔父に対して膝を折れば、昔の通り可愛がってくれるのであろう。叔父の言い分に、女は溜息をついた。ちらりと女は、叔父を支える侍女の顔を見た。どこか懐かしいと思ったその顔は、自分の母に少しだけ似ていた。
女は、深く息を吸った。穏やかな顔で、叔父を見つめる。迷いはもう何処にもなかった。その姿を見て、先の王弟は手を差し出した。やっと我が姪は、本来の道を取り戻した。やはり姪の目を曇らせていたのは、あの東国人なのだ。親代わりとして、己はまだまだ引退などできぬ。そうして、女の手を握ろうとして老人は固まった。女は、ただ一言嫌疑をすべて認めるとそう答えたのだから。東国人の男は、故郷を攻め落とすと脅されて仕方なしに動いていたに過ぎぬのだと、女は澄んだ声で高らかに告げた。
女は、自分が何のために生きるのか分からなかった。ただ国王として生きるからには、それに見合う働きをせねばならぬと思っていただけだ。男に罪を背負わせて、のうのうと生きていく気などない。何よりそれでは、男の故郷に迷惑をかけることとなる。西国やその他の国に、戦を起こす口実を与えてはならぬのだ。
その為に己は、正しく民の前で死なねばならぬ。東国を脅し、さらには西国を混乱に陥れた稀代の悪鬼として。女が男と出会わなければ、男は死なずに済んだのであろうか。女はそれだけが心残りだった。女はぬくぬくと守られた部屋を出て、罪人の為の牢に身を置く。そして冷たい塔の中で繰り返し考える。男の死に際がどうか苦しみの少ないものであればいいと、女はそればかりを願った。
短い夢を見た。夢の中で、女は一羽の鳥となっていた。不思議なことに、女は己が鳥である認識すると同時に、これが己の夢であることを理解している。女は青に緑に輝く羽を広げて、いとも簡単に空を飛ぶことができるのだ。軽々と西国に横たわる大河を超えてゆく。国境の森、大草原、延々と続く灼熱の砂漠。そして見えるのは、遠い大陸の果てにあるという国。絵巻物でしか見たことがないというのに、ここが男の故郷なのだと不思議なほど女は合点がいった。女はそこで、自分の隣の影に気づく。自分を守るように、抱きかかえるように共に飛んでいるのは金色の龍。ああ、ずっとお前の国に行きたいと願っていたのだ。女は好いた男とともに、乾いた風の駆け巡る東国に降り立った。
目が覚めれば、そこは冷たい床の上。自ら王位を捨てた女は、その日初めて涙を流した。こうやって泣いたのはいつぶりか。母が死んだ時も、父が死んだときですらここまで泣きはしなかった。ただひたすら毅然に、前を向いて男らしく……、そう念じて生きてきた女は、だから涙の止め方を知らなかった。だがどうせ明日には、断頭台の上なのだ。瞼が腫れていようが、もはや些細なことではないか。
格子の向こうにある、ぽっかりと丸い月を見上げてみる。己の運命を狂わせた憎き月。今その月は、幻月を見せてはいないか。ただ一言、愛していると自分を偽ることをやめて声に出す。そのまま愛しい男の名をぽつりと呟いてみれば、目の前に輝く金の星が降ってきた。それは三日月に叶わぬ恋の願掛けをした、あの日と変わらぬ男の姿をしていた。
新年を間近に控え、誰もが浮き足立った冬のある日、王の執務室を厳しい顔つきをした数人の男たちが訪れた。国の法を取り締まる官吏たちである。男たちの顔はどこか土気色をしていて、男たちこそが罪を突きつけられた罪人の様に沈痛な面持ちをしていた。そのまま不躾に王に告げられた罪状は、違法薬物の栽培、製造、流通、販売に加えて、人身売買、国家機密の流出等、錚々たるものだった。どれもこれも、女が男に命じて探らせていたものばかりだ。
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精神に影響するあの特殊な植物。気分を高揚させる成分を含み、たちの悪いことに依存性が高い。一度二度と興味本意で吸ううちに、あっという間に深みにはまってしまう。幻覚幻聴の末に精神を病み、廃人になることも多いと聞く。事実、数代前の世では、これが原因で東国で大きな戦が起きたのだ。それ故、西国とてこれには目を光らせてきた。残念ながら、その目を掻い潜って既に蔓延してしまっていたのであるが。
これの生育に適した南国は、最近日照り続きだという。国土の多くに砂漠を抱えるかの国からすれば、豊かな清流に恵まれたこの肥沃な大地は、喉から手が出るほどに欲しい代物であるに違いない。はたまた雪に閉ざされた、遠い北国が仕掛けてきたのか。あちらの国は豊かな海に面しているとはいえ、その海は冬になれば硬い氷に覆われてしまう。足を奪われて身動きが取れぬ故、不凍港の入手は建国以来の悲願であったはず。自由に生きる草原の民とて、定住の場所を欲したのかもしれぬ。この大陸の何処にももはや空いている土地など無いのだ、欲すれば他者から奪うのみ。
あれこれ考えながらも、女は東国を疑うことを良しとしなかった。あの国は一度、薬のせいで大きな痛手を負っている。東国では一度でも手を出せば、即刻縛り首だと男は眉を顰ていた。禁忌に触れてまで、他国に戦を仕掛けるような愚かな真似はしないだろうと、女は甘い考えに酔った。そのような因縁があればこそ疑わしいのが常である。だからこれは女の願望なのだ。ただそうであって欲しい、それだけである。好いた男の故郷が、自分を陥れようとしているのではないとただ信じていたかった。
そして女はうっすらと笑う。この場には、あの東国人の男がいない。数日前から、緊急の所用があると城を飛び出してしまっている。男が裏切ったのだと露ほども思わない自分に正直驚いていた。こんな状況にあるというのに、何故か心は穏やかなのだ。きっと男が助けに来てくれると何故か安心して待っている自分に気がつく。それがどうにも面映くて、自然と唇が笑みの形につり上がってしまうのだ。罪状を読み上げていた官吏は、怒り狂うこともなく、艶やかに笑う国王のことを薄気味悪そうに見つめている。居心地の悪い部屋を早々に後にするべく、男たちは国王を促した。
女は椅子に深々と腰掛けたまま、官吏が高々と掲げる書状を見上げた。念のため、間近で見せてもらった書状に書かれた名は、確かに叔父のものである。けれどその筆跡は、書類ごとにすべて異なる様相を見せていた。あるものは死期が間近に迫った老人のようにか細く、ひどく震えていた。あるものは怒りをぶつけるように、荒々しく強い筆圧で殴り描きされていた。記憶の底にあった叔父の手跡は、流れるように鮮やかなものではなかったか。偽の書状ではないであろうが、それならばなおのこと恐ろしい。それは即ち叔父もまた、正常にあらずという事実を示すのだから。
叔父の心中が見当もつかぬ。困惑する女の脳裏に、優しげな叔父の笑顔が浮かぶ。王位の譲渡をそれとなく仄かせば、こちらが驚くほど真剣な眼差しで固辞していた叔父が、今更王位に就くことを画策するであろうか。叔父が裏切ったのか、それとも叔父もまた他国の誰かに嵌められたのか。女は意図のわからぬこの騒ぎの中で、ただ天を仰いだ。
女は、部屋の中で今後の策を考える。そこは自室ではないが、牢でもなかった。罪人のための北の塔にこのような場所があったとは。罪を犯した貴人のために、特別に誂えたものらしい。ご大層な反省部屋ということか。不思議なことにあの書状は嫌疑であり、罪人であるかはこれから決められるのだという。華美ではないが、清潔にしつらえられた寝具。食事とて、質素ではあるが温かく調理されたものが与えられるのだ。何より自分を取り巻く人々は、召し使いのみならず官吏までも未だに己を王として傅く。ただし何を聞いてもついぞ誰も言葉を返さぬのであったが。
まるで取り上げた王の座を、直ぐにでも返してやると言わんばかりの態度が不愉快である。このような場所に己を押し込み、何を目論んでいるのやら。とはいえ、腹が空いていては何も出来ぬ。このような場で、毒を入れる者もないだろうと女は、平然と食事をとる。いつか自分を迎えに来る男に、やつれた顔を見せるのだけは我慢ならなかった。
女が軟禁されてから数日後の夜、女のもとに訃報が届いた。王国を流れる大河から男の遺体が揚がったという。男が死んだと聞いて、女は一瞬何を言われたか理解できなかった。言葉は耳に入ってきたというのに、頭の中でまるで意味を成さないのだ。呆然とする女の目の前に差し出されたのは、男が大切にしていた東国の剣だった。
王都近くを流れる大河から引き揚げたのだという。鮮やかな布飾りは何処をどう彷徨ったのか、酷くくたびれ襤褸布と化していた。けれど細かい意匠を施されていた柄や、西国の剣とは異なる形の刃は記憶にある男のものと相違なかった。女が男のものだと一目見て断言できたのは、その剣で幾度となく命を救われていたからだ。あの出会いの春の日もそうであった。
どうしようもないほど、吐き気がする。身体が震えて、寒くて堪らないのは何故だろう。女を気遣う官吏たちの声が、奇妙に遠くに聞こえた。男はどんな時であっても、愛用の剣をその身から離さなかった。寝台にまで持ち込んでいたのだ。その剣が河底で見つかったという理由を女は理解できぬ。あの男が剣を手放してもどうしようもないような状態だったということは、つまりどういうことなのか。それを認めるわけにはいかぬのだ。
胃の腑を締め付けられるような強烈な痛み。女は、官吏に告げる。遺体をこの目で見なければ、男が死んだのかわからぬ。剣の一つや二つで、人の生き死になど決まらぬであろう。その言葉を予想していたのか、男たちは非常に渋い顔をした。長いこと水の中に在りました故、まともな状態ではありませぬ。そう答えた男たちに食い下がれば、そのまま薄暗い廊下へと案内された。
下へ下へと階段を下って行く。この塔は、ここまで深く出来ていたのかと驚けば顔に出ていたのであろうか。あまり気持ちの良い場所ではありませぬ故、公にはされておりませぬと官吏が答えた。少しずつ奇妙な臭いが近づいてくる。それはぞわりと背中を震わせるような、何処かおかしい臭いだ。このような酷い臭いを女は知らぬ。けれど己の本能は知っているのであろう、何かに警告を受けたかのように足が前に進まぬのだ。この扉の向こうに男はいるというのに、足は廊下に張り付いたように動かない。
女を放ったまま、官吏は無言で扉を開けた。不意に目がしみるような異臭が解き放たれ、女は背けるようにしていた顔をあげた。赤い鬼のように膨らんだ何かが其処にはあった。髪もなく、眼窩もおちくぼみ、ぶよぶよに膨らんだ何か。東国の装束と、おおよその背丈、近くから見つかった剣で男と断定したのだと、官吏たちは説明した。
覚悟は出来ていたつもりであった。人の死を間近で見るのは初めてではない。毒味で目の前で死んだ侍女もいれば、自分を殺すために送り込まれ返り討ちにあった間者もいる。それこそ錆びた鉄のような血の臭いは、いつからか身近なものに成り下がっていた。昔のような大きな戦はなくとも、国境沿いの小競り合いは続いている。打ち倒された兵士の亡骸を手ずから葬ったこともあるのだ。
それにもかかわらず、気づけば女は床に這いつくばり、嘔吐いていた。胃が痙攣したかのように痛みが止まらない。臓物まですべて出しきったかと思うほど取り乱した女の背を、誰かが優しく撫で擦る。振り返れば、何処か懐かしさを感じさせる顔をした侍女が、女を心配そうに見ていた。
侍女に手を引かれ部屋に戻れば、そこには叔父が待っていた。叔父と名乗られなければわからぬほど、変わり果てた姿である。あの武人らしい身体はどこへ行ってしまったのか。枯れ木のような姿で、叔父はこちらを見て笑っている。好々爺のようなその笑顔は、本来であればもっと先の未来で見ることになった姿であろう。壮年の逞しき武将は、既にその姿を老人へと変えてしまった。何故、叔父ほどの男がこんなことになったのであろうか。何故、あのような仮初めの夢を見せるものに縋ったのか。女にはわからぬのだ。
叔父は明らさまに喜色を浮かべていた。全て東国人の仕業であったのだな。あのような男をみすみすお前の側に置いてしまったとは、慚愧に耐えぬ。そう労わるように己に話しかけてきた時、女はようやく叔父の意図を悟った。叔父は、東国人の男を見捨てさえすれば、女に咎はないと言っているのだ。つまりここで女が従順に叔父に対して膝を折れば、昔の通り可愛がってくれるのであろう。叔父の言い分に、女は溜息をついた。ちらりと女は、叔父を支える侍女の顔を見た。どこか懐かしいと思ったその顔は、自分の母に少しだけ似ていた。
女は、深く息を吸った。穏やかな顔で、叔父を見つめる。迷いはもう何処にもなかった。その姿を見て、先の王弟は手を差し出した。やっと我が姪は、本来の道を取り戻した。やはり姪の目を曇らせていたのは、あの東国人なのだ。親代わりとして、己はまだまだ引退などできぬ。そうして、女の手を握ろうとして老人は固まった。女は、ただ一言嫌疑をすべて認めるとそう答えたのだから。東国人の男は、故郷を攻め落とすと脅されて仕方なしに動いていたに過ぎぬのだと、女は澄んだ声で高らかに告げた。
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目が覚めれば、そこは冷たい床の上。自ら王位を捨てた女は、その日初めて涙を流した。こうやって泣いたのはいつぶりか。母が死んだ時も、父が死んだときですらここまで泣きはしなかった。ただひたすら毅然に、前を向いて男らしく……、そう念じて生きてきた女は、だから涙の止め方を知らなかった。だがどうせ明日には、断頭台の上なのだ。瞼が腫れていようが、もはや些細なことではないか。
格子の向こうにある、ぽっかりと丸い月を見上げてみる。己の運命を狂わせた憎き月。今その月は、幻月を見せてはいないか。ただ一言、愛していると自分を偽ることをやめて声に出す。そのまま愛しい男の名をぽつりと呟いてみれば、目の前に輝く金の星が降ってきた。それは三日月に叶わぬ恋の願掛けをした、あの日と変わらぬ男の姿をしていた。
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