4 / 11
4.片恋
しおりを挟む
空から金の星が降ってきた。
男がいつものように東国街の娼館に出かけた後、女は一人夜更けの執務室にこもっていた。もちろん男には、重々早く休むように言われていた。女のことを子どもだと勘違いしているのかと疑いたくなるくらいに、男は口を酸っぱくして繰り返す。
そんな夕方に交わされた約束をあっさり破りながら、女はしかめっ面で書類の文面を確かめる。色街のような特殊な場所でしか得られない情報もある。そう頭ではわかっていたが、それでもやはり、男が別の女のもとに出かけるのを見送るのは嫌だった。一人寝台で休んでいれば、きっと男のことを考えてしまう。だから執務室にこもることにしたのだ。
独り寝の自分と、柔らかく甘い女たちと共に長い夜を過ごす男。仕事はいくらやっても終わらぬほど、余りある。書類を片付けることに注力していれば、気もまぎれるかと思ったが、女は自分でも気付かぬうちにはらりと書類を床に落としていた。致し方ない、諦めるとするか。女は羽ペンを放り投げ、夜の空を一人見上げてみる。東国人にしても珍しい部下の金の瞳。きらきらと瞬《またた》く星は男の瞳のように見えて、女は自分の恋煩いの酷さにため息をついた。この熱は未だ治まる気配もない。
今宵は三日月だ。女は昼間、城の侍女たちがそこかしこではしゃいでいたのを思い出した。今夜は三日月よ、願掛けをするの。笑いさざめく小鳥たちは、うっすらと頬を染めてそんな話をしていた。左の肩越しや鏡ごしに見てはいけないのよ。仕事の合間に集まっては、ひどく生真面目な顔をしてお互いに注意し合っていた侍女たちを思い出して、女は少しばかり微笑んだ。呪いに頼る彼女たちを滑稽だとは思わなかった。むしろ、小さな恋を大切に温めながら、育ててゆくその姿勢に好感を持っていた。
振り返るように、右の肩越しに月を見るべし。そう繰り返された言葉を反芻しながら、女は考える。そうしてやっと合点がいって、執務室の出窓の縁に腰掛けた。そのまま夜空を振り返るように、三日月を見上げる。霧の多い王都だが、風の具合でありがたいことに月を見つけることができた。
月は嫌いだ。たかだか月の出方によって、自分の生き方は大きく歪んでしまった。そうだというのに、結局は年端もいかない少女たちと同じように願を掛ける自分がおかしくて、女は笑みをこぼした。少しでもこの呪いが効けばいい。いつも夢の中で男の姿を探す女のように、男も女の姿を夢見て戸惑えば良いのだ。東国では、夢の中に出てきた異性は自分のことを好いているというそうではないか。女は嬉しそうに、何とも意地悪く笑う。
そんな子どもじみたことをしていたからか、何が起きたのか一瞬理解できなかった。流星が飛び込んできたのかと思うほど、自分の目の前にはまばゆい金の光。自分の元に、天から星が降り注いだのだと半ば本気で信じたのだ。信じられないことに、窓から待ち人が飛び込んできていた。勢いを殺せぬままだったせいで、あっけないほど簡単に女は男に組み敷かれた。
床に倒れ伏したまま、女は男を見上げてみる。闇に紛れるように動きやすく、人目につきにくいということで男が選んだその装束は、東国で言うところの侠客が身につけるものなのだろう。確かに男によく似合ってはいたが、そもそも西国にいる中で頑なに東国の風俗にこだわる理由がよくわからなかった。人目を避けたいのなら、衛兵の格好にでも扮すればよいものを。口に出さぬまま、女はそう判じる。
むせ返るような白粉の香りを身にまとった男が、ぎらぎらとした眼差しで自分を睨みつけていた。何がそんなに気に食わないというのか。女は床に押し倒されたまま、ぼんやりと男を見つめていた。部屋の扉ではなく、窓から飛び込んでくるような男の方が失礼なのではないか。間者と間違われて始末されても仕方ない振る舞いをしている男の方が、この場を支配していることに女は酷く苛ついていた。色街に出入りしているのが、仕事ゆえとは重々承知している。けれど、男はべっとりと襟元に紅い紅をつけている。やはり自分とは異なる、柔らかな肢体を抱いてきたのだろうか。
叶わぬ恋を憂いて、願掛けをしていたのを見られたとは思わない。願掛けをするのは女子どもくらいだ。何か聞かれたなら、ただ仕事の合間に空を見上げただけだと一言言えば良いだけである。ただ男の様子を見る限り、敵に追われていたのかもしれない。自由気ままな男ではあるが、常日頃より窓から出入りするわけではない。
無防備に窓の側でぼんやりしていた女に腹を立てたのかもしれないが、この状況は不敬である。不可抗力とはいえ、無礼な振る舞いをしているのは男の方なのだ。ただ一言、早く退けと言えば良いだけである。けれど、女の口から出たのは自分でも思いもよらぬ言葉だった。もしも、この身が女であったならどうであったかと。気づけば、そんな世迷言を口にしていた。
男は何かを言おうとして、声にならない声を上げた。それはそうだろう、問いかけた自分だってわかっている。自分の仕える主人に、そんなことを聞かれてなんと答えれば良いというのか。女にだって、正答はわからない。手を伸ばせば頬にだって触れられるほどそばにいるのに、何と男の心の遠いことか。
おまえが好きだと、そのたった数語の単語が言えたなら。煙草を吸わないはずの男に、独特の甘い香りが染み付いている。女の脳裏に、煙管を持つしなやかな手と、紅い爪紅をつけた指先がよぎる。たっぷりと紅をさした官能的な唇も。あの店の女は、男にもらったのだと玉虫色に輝く紅を自分に見せてくれた。自分には縁遠い、女としての彩りと装い。
西国の姫として男に出会っていたならば、何かが変わったであろうか。結局は身分の差に阻まれて、何も言えなかったかもしれぬ。けれどつい少女趣味の物語のように、男ならばこの手を取ってともに逃げてくれるのではないかとそう甘い期待をしてしまうのだ。女は一度ゆっくりと瞼を閉じた。熱いものが込み上げてきそうだったからだ。国王としての自分ではなく、ただ一人の女として男に出会えていたならば男は自分の名を呼んでくれただろうか。
先ほどの自分の問いかけに、男は喉から絞り出すような声で答える。陛下が陛下である限り、変わらずにお仕え致しまする。それは気が遠くなるほど嬉しい言葉で、けれど女の望んだ言葉ではないのだ。もう一度男を見上げていれば、ぎらぎらと燃えたぎっていた男の眼差しが弱まり、柔らかな光を帯びていた。まるで自分を愛おしんでいるかのような、優しい微笑み。けれど男の心と女の心はすれ違う。金色の男の瞳に映る自分を眺めてみれば、それはひどく寂しそうな顔をしていた。女は唇を噛み締めて、溢れそうになる涙を必死でこらえていた。
率直に言って、男は嫉妬していた。
娼館からの帰り道、男は自分が追われていることに気づいていた。そもそも男が西国の中で、しょっちゅう独特の東国の衣装を身につけているのは、その存在を一際目立たせるためでもある。あえて引きつけておきたいからこそ、こんな格好で街を歩く。男とて、西国の服くらい手持ちにあるのだ。とはいえ、残りの理由としてはやはり慣れた格好の方が着やすいからなのであるが。男にとって西国の正装は、いずれも仮装になりそうな気がして気が引けたのだ。
東国街の中では表立って動けなかったのであろう。ざわざわと後ろを追う気配が膨れ上がっていく。一体自分一人相手に、どれだけ人手を割くつもりか。後ろに三人、前に二人まで数え、男は高く跳ぶ。剣を交えることなく躱された男たちが怒号をあげた。
夜更けだというのに何と騒々しい。少しだけ顔をしかめ、男は淡々と前に進む。東国街は一種の治外法権だ。自分があそこを出るのを、敵方の皆様は辛抱強く待っていたに違いない。けれど男には、ここで事を荒立てるつもりは毛頭なかった。証拠は未だに不十分、何より信頼できる味方が少なすぎる。若く有能な国王だが、人脈が足りないのが現状だ。
男は体重を感じさせない動きで夜霧に紛れて走る。ある時は階段を滑り降り、ある時は楼閣の間を飛び越えた。ひらりと身をかわし、何人かが溝川に落ちるのを見て男はほくそ笑む。哀れにも男の後を追って楼閣を飛び越えようとして落下したらしい。しばらくひどい臭いを漂わせることになるだろうが、命拾いしたことに彼らは気づいていないだろう。
体術に優れた男ではあるが、逃げに徹することが面倒に思える時もある。一撃で仕留められるなら相手を殺すこともやぶさかではないのだ。暗い夜道をただひたはしる。そうやって相手方を撒きながら、王城まで帰り着いた時に男は見つけたのだ。淡い月の光を受けた、天女のような主人の見返り姿を。
執務室の出窓から、ぼんやりと夜空を見上げている女は大層美しかった。この世のものとは思えないほど儚げで、危うい魅力。ただ美しいで済ませられれば良かったのに、どうして気づいてしまったのか。女が出窓の縁に腰掛けて、右の肩越しに月を見ていることに。
今日は笑った猫の目のように細い三日月だ。振り返るその右の肩越しに、三日月を見るのは西国で誰もが知る片恋を叶えるための願掛けだ。そんな子どもだましの呪いに頼りたくなるような、それほどまでに好いた男がいるというのか。一瞬嫉妬で目がくらんで、思わず目測を誤ったのだ。こっそり近くの部屋に忍び込もうと思っていたはずが、そのまま女がいる部屋に飛び込んでしまう程度には動揺していた。
偶然にも組み敷いた女の身体は、ひどく柔らかくて艶かしい。なぜ自分の主人はこんなにも甘い香りがするのだろう。脳髄が痺れるほどの飢えを感じて、男は思わず喉を鳴らした。色街の女の乳房を見ても全く気にならないというのに、愛しい主人の細く白い頤を見ただけで、目眩がするほどの欲を感じるのだ。
ああ、いっそ己の理性が焼き切れてしまえばいいものを。 男はそう思いながら、また同時に千切れそうな理性を抑え込むのだ。この掌の中の宝玉を決して傷つけてはならぬと。女に傷一つ付けてはならぬのだ、己の護るこの宝玉は決して自分のものではないのだから。
何を考えているのだろうか、女は何も言わずにじっと自分を見つめている。不敬だとはねのけることもせずに、なぜ無言でいるのだろうか。男が疑問を口にする前に、組み敷かれたまま女が不意に尋ねた。もしも、この身が女であったならどうであったかと。男は唸った。三年だ。国王の側に使えて、もう三年になる。その間、ずっと気持ちを押し殺し、ただ女のために仕えてきた。影になり日向になり、ひたすらに働いたのはただ主人の笑顔が見たかったからだ。忠義以上のものがそこにはあるのだと悟られてはならなかった。
伝わってほしい、伝わって欲しくない、相反するその想いにいつも自分の心は千々に乱れているというのに、女は涼しい顔で自分に問うてみせるのだ。男は絞り出すように声を上げた。陛下が陛下である限り、変わらずにお仕え致しまする。そう答えてみれば、主人はひどくつまらなそうな顔をしていた。瞳が潤んだように見えたのは気のせいか。
貴女を愛していると、ただその言葉を紡げたなら。声にできない言葉を、また今日も男は飲み込むのだ。例えば、女が国王ではなく西国の姫であったなら、武勲を立てて求婚する道があっただろうか。いやこれほどの美姫ともなれば、東国人の自分に出る幕はなかったかもしれぬ。それこそ東国を統べる者の正室としての縁談でもなければ、一蹴されたであろう。女の手を取って共に逃げられたなら、どれだけ幸せだろうか。それは甘い夢だ。男の手を王が手に取ることなどきっとないのだから。
男は自嘲する。己にできることは、ただ女の盾になることだけ。それ以上のことなど、望むべくもないのだ。そのままゆっくりと目の前の女に優しく微笑みかけた。ただの女として出会っていたなら、その名を呼ぶことも可能であっただろうか。恐れ多くも口にすることなど考えられぬ、愛しい主人の御名。心のままに、攫いたいと答えれば王は何と答えただろう。腕の中の王が求めた答えは、男にはわからなかった。
無言のまま見つめ合う二人を、頼りない三日月が照らしている。
国王がその地位を追放されたのは、新年の訪れも間近のある冬の日のことだった。
男がいつものように東国街の娼館に出かけた後、女は一人夜更けの執務室にこもっていた。もちろん男には、重々早く休むように言われていた。女のことを子どもだと勘違いしているのかと疑いたくなるくらいに、男は口を酸っぱくして繰り返す。
そんな夕方に交わされた約束をあっさり破りながら、女はしかめっ面で書類の文面を確かめる。色街のような特殊な場所でしか得られない情報もある。そう頭ではわかっていたが、それでもやはり、男が別の女のもとに出かけるのを見送るのは嫌だった。一人寝台で休んでいれば、きっと男のことを考えてしまう。だから執務室にこもることにしたのだ。
独り寝の自分と、柔らかく甘い女たちと共に長い夜を過ごす男。仕事はいくらやっても終わらぬほど、余りある。書類を片付けることに注力していれば、気もまぎれるかと思ったが、女は自分でも気付かぬうちにはらりと書類を床に落としていた。致し方ない、諦めるとするか。女は羽ペンを放り投げ、夜の空を一人見上げてみる。東国人にしても珍しい部下の金の瞳。きらきらと瞬《またた》く星は男の瞳のように見えて、女は自分の恋煩いの酷さにため息をついた。この熱は未だ治まる気配もない。
今宵は三日月だ。女は昼間、城の侍女たちがそこかしこではしゃいでいたのを思い出した。今夜は三日月よ、願掛けをするの。笑いさざめく小鳥たちは、うっすらと頬を染めてそんな話をしていた。左の肩越しや鏡ごしに見てはいけないのよ。仕事の合間に集まっては、ひどく生真面目な顔をしてお互いに注意し合っていた侍女たちを思い出して、女は少しばかり微笑んだ。呪いに頼る彼女たちを滑稽だとは思わなかった。むしろ、小さな恋を大切に温めながら、育ててゆくその姿勢に好感を持っていた。
振り返るように、右の肩越しに月を見るべし。そう繰り返された言葉を反芻しながら、女は考える。そうしてやっと合点がいって、執務室の出窓の縁に腰掛けた。そのまま夜空を振り返るように、三日月を見上げる。霧の多い王都だが、風の具合でありがたいことに月を見つけることができた。
月は嫌いだ。たかだか月の出方によって、自分の生き方は大きく歪んでしまった。そうだというのに、結局は年端もいかない少女たちと同じように願を掛ける自分がおかしくて、女は笑みをこぼした。少しでもこの呪いが効けばいい。いつも夢の中で男の姿を探す女のように、男も女の姿を夢見て戸惑えば良いのだ。東国では、夢の中に出てきた異性は自分のことを好いているというそうではないか。女は嬉しそうに、何とも意地悪く笑う。
そんな子どもじみたことをしていたからか、何が起きたのか一瞬理解できなかった。流星が飛び込んできたのかと思うほど、自分の目の前にはまばゆい金の光。自分の元に、天から星が降り注いだのだと半ば本気で信じたのだ。信じられないことに、窓から待ち人が飛び込んできていた。勢いを殺せぬままだったせいで、あっけないほど簡単に女は男に組み敷かれた。
床に倒れ伏したまま、女は男を見上げてみる。闇に紛れるように動きやすく、人目につきにくいということで男が選んだその装束は、東国で言うところの侠客が身につけるものなのだろう。確かに男によく似合ってはいたが、そもそも西国にいる中で頑なに東国の風俗にこだわる理由がよくわからなかった。人目を避けたいのなら、衛兵の格好にでも扮すればよいものを。口に出さぬまま、女はそう判じる。
むせ返るような白粉の香りを身にまとった男が、ぎらぎらとした眼差しで自分を睨みつけていた。何がそんなに気に食わないというのか。女は床に押し倒されたまま、ぼんやりと男を見つめていた。部屋の扉ではなく、窓から飛び込んでくるような男の方が失礼なのではないか。間者と間違われて始末されても仕方ない振る舞いをしている男の方が、この場を支配していることに女は酷く苛ついていた。色街に出入りしているのが、仕事ゆえとは重々承知している。けれど、男はべっとりと襟元に紅い紅をつけている。やはり自分とは異なる、柔らかな肢体を抱いてきたのだろうか。
叶わぬ恋を憂いて、願掛けをしていたのを見られたとは思わない。願掛けをするのは女子どもくらいだ。何か聞かれたなら、ただ仕事の合間に空を見上げただけだと一言言えば良いだけである。ただ男の様子を見る限り、敵に追われていたのかもしれない。自由気ままな男ではあるが、常日頃より窓から出入りするわけではない。
無防備に窓の側でぼんやりしていた女に腹を立てたのかもしれないが、この状況は不敬である。不可抗力とはいえ、無礼な振る舞いをしているのは男の方なのだ。ただ一言、早く退けと言えば良いだけである。けれど、女の口から出たのは自分でも思いもよらぬ言葉だった。もしも、この身が女であったならどうであったかと。気づけば、そんな世迷言を口にしていた。
男は何かを言おうとして、声にならない声を上げた。それはそうだろう、問いかけた自分だってわかっている。自分の仕える主人に、そんなことを聞かれてなんと答えれば良いというのか。女にだって、正答はわからない。手を伸ばせば頬にだって触れられるほどそばにいるのに、何と男の心の遠いことか。
おまえが好きだと、そのたった数語の単語が言えたなら。煙草を吸わないはずの男に、独特の甘い香りが染み付いている。女の脳裏に、煙管を持つしなやかな手と、紅い爪紅をつけた指先がよぎる。たっぷりと紅をさした官能的な唇も。あの店の女は、男にもらったのだと玉虫色に輝く紅を自分に見せてくれた。自分には縁遠い、女としての彩りと装い。
西国の姫として男に出会っていたならば、何かが変わったであろうか。結局は身分の差に阻まれて、何も言えなかったかもしれぬ。けれどつい少女趣味の物語のように、男ならばこの手を取ってともに逃げてくれるのではないかとそう甘い期待をしてしまうのだ。女は一度ゆっくりと瞼を閉じた。熱いものが込み上げてきそうだったからだ。国王としての自分ではなく、ただ一人の女として男に出会えていたならば男は自分の名を呼んでくれただろうか。
先ほどの自分の問いかけに、男は喉から絞り出すような声で答える。陛下が陛下である限り、変わらずにお仕え致しまする。それは気が遠くなるほど嬉しい言葉で、けれど女の望んだ言葉ではないのだ。もう一度男を見上げていれば、ぎらぎらと燃えたぎっていた男の眼差しが弱まり、柔らかな光を帯びていた。まるで自分を愛おしんでいるかのような、優しい微笑み。けれど男の心と女の心はすれ違う。金色の男の瞳に映る自分を眺めてみれば、それはひどく寂しそうな顔をしていた。女は唇を噛み締めて、溢れそうになる涙を必死でこらえていた。
率直に言って、男は嫉妬していた。
娼館からの帰り道、男は自分が追われていることに気づいていた。そもそも男が西国の中で、しょっちゅう独特の東国の衣装を身につけているのは、その存在を一際目立たせるためでもある。あえて引きつけておきたいからこそ、こんな格好で街を歩く。男とて、西国の服くらい手持ちにあるのだ。とはいえ、残りの理由としてはやはり慣れた格好の方が着やすいからなのであるが。男にとって西国の正装は、いずれも仮装になりそうな気がして気が引けたのだ。
東国街の中では表立って動けなかったのであろう。ざわざわと後ろを追う気配が膨れ上がっていく。一体自分一人相手に、どれだけ人手を割くつもりか。後ろに三人、前に二人まで数え、男は高く跳ぶ。剣を交えることなく躱された男たちが怒号をあげた。
夜更けだというのに何と騒々しい。少しだけ顔をしかめ、男は淡々と前に進む。東国街は一種の治外法権だ。自分があそこを出るのを、敵方の皆様は辛抱強く待っていたに違いない。けれど男には、ここで事を荒立てるつもりは毛頭なかった。証拠は未だに不十分、何より信頼できる味方が少なすぎる。若く有能な国王だが、人脈が足りないのが現状だ。
男は体重を感じさせない動きで夜霧に紛れて走る。ある時は階段を滑り降り、ある時は楼閣の間を飛び越えた。ひらりと身をかわし、何人かが溝川に落ちるのを見て男はほくそ笑む。哀れにも男の後を追って楼閣を飛び越えようとして落下したらしい。しばらくひどい臭いを漂わせることになるだろうが、命拾いしたことに彼らは気づいていないだろう。
体術に優れた男ではあるが、逃げに徹することが面倒に思える時もある。一撃で仕留められるなら相手を殺すこともやぶさかではないのだ。暗い夜道をただひたはしる。そうやって相手方を撒きながら、王城まで帰り着いた時に男は見つけたのだ。淡い月の光を受けた、天女のような主人の見返り姿を。
執務室の出窓から、ぼんやりと夜空を見上げている女は大層美しかった。この世のものとは思えないほど儚げで、危うい魅力。ただ美しいで済ませられれば良かったのに、どうして気づいてしまったのか。女が出窓の縁に腰掛けて、右の肩越しに月を見ていることに。
今日は笑った猫の目のように細い三日月だ。振り返るその右の肩越しに、三日月を見るのは西国で誰もが知る片恋を叶えるための願掛けだ。そんな子どもだましの呪いに頼りたくなるような、それほどまでに好いた男がいるというのか。一瞬嫉妬で目がくらんで、思わず目測を誤ったのだ。こっそり近くの部屋に忍び込もうと思っていたはずが、そのまま女がいる部屋に飛び込んでしまう程度には動揺していた。
偶然にも組み敷いた女の身体は、ひどく柔らかくて艶かしい。なぜ自分の主人はこんなにも甘い香りがするのだろう。脳髄が痺れるほどの飢えを感じて、男は思わず喉を鳴らした。色街の女の乳房を見ても全く気にならないというのに、愛しい主人の細く白い頤を見ただけで、目眩がするほどの欲を感じるのだ。
ああ、いっそ己の理性が焼き切れてしまえばいいものを。 男はそう思いながら、また同時に千切れそうな理性を抑え込むのだ。この掌の中の宝玉を決して傷つけてはならぬと。女に傷一つ付けてはならぬのだ、己の護るこの宝玉は決して自分のものではないのだから。
何を考えているのだろうか、女は何も言わずにじっと自分を見つめている。不敬だとはねのけることもせずに、なぜ無言でいるのだろうか。男が疑問を口にする前に、組み敷かれたまま女が不意に尋ねた。もしも、この身が女であったならどうであったかと。男は唸った。三年だ。国王の側に使えて、もう三年になる。その間、ずっと気持ちを押し殺し、ただ女のために仕えてきた。影になり日向になり、ひたすらに働いたのはただ主人の笑顔が見たかったからだ。忠義以上のものがそこにはあるのだと悟られてはならなかった。
伝わってほしい、伝わって欲しくない、相反するその想いにいつも自分の心は千々に乱れているというのに、女は涼しい顔で自分に問うてみせるのだ。男は絞り出すように声を上げた。陛下が陛下である限り、変わらずにお仕え致しまする。そう答えてみれば、主人はひどくつまらなそうな顔をしていた。瞳が潤んだように見えたのは気のせいか。
貴女を愛していると、ただその言葉を紡げたなら。声にできない言葉を、また今日も男は飲み込むのだ。例えば、女が国王ではなく西国の姫であったなら、武勲を立てて求婚する道があっただろうか。いやこれほどの美姫ともなれば、東国人の自分に出る幕はなかったかもしれぬ。それこそ東国を統べる者の正室としての縁談でもなければ、一蹴されたであろう。女の手を取って共に逃げられたなら、どれだけ幸せだろうか。それは甘い夢だ。男の手を王が手に取ることなどきっとないのだから。
男は自嘲する。己にできることは、ただ女の盾になることだけ。それ以上のことなど、望むべくもないのだ。そのままゆっくりと目の前の女に優しく微笑みかけた。ただの女として出会っていたなら、その名を呼ぶことも可能であっただろうか。恐れ多くも口にすることなど考えられぬ、愛しい主人の御名。心のままに、攫いたいと答えれば王は何と答えただろう。腕の中の王が求めた答えは、男にはわからなかった。
無言のまま見つめ合う二人を、頼りない三日月が照らしている。
国王がその地位を追放されたのは、新年の訪れも間近のある冬の日のことだった。
1
お気に入りに追加
113
あなたにおすすめの小説
子ども扱いしないでください! 幼女化しちゃった完璧淑女は、騎士団長に甘やかされる
佐崎咲
恋愛
旧題:完璧すぎる君は一人でも生きていけると婚約破棄されたけど、騎士団長が即日プロポーズに来た上に甘やかしてきます
「君は完璧だ。一人でも生きていける。でも、彼女には私が必要なんだ」
なんだか聞いたことのある台詞だけれど、まさか現実で、しかも貴族社会に生きる人間からそれを聞くことになるとは思ってもいなかった。
彼の言う通り、私ロゼ=リンゼンハイムは『完璧な淑女』などと称されているけれど、それは努力のたまものであって、本質ではない。
私は幼い時に我儘な姉に追い出され、開き直って自然溢れる領地でそれはもうのびのびと、野を駆け山を駆け回っていたのだから。
それが、今度は跡継ぎ教育に嫌気がさした姉が自称病弱設定を作り出し、代わりに私がこの家を継ぐことになったから、王都に移って血反吐を吐くような努力を重ねたのだ。
そして今度は腐れ縁ともいうべき幼馴染みの友人に婚約者を横取りされたわけだけれど、それはまあ別にどうぞ差し上げますよというところなのだが。
ただ。
婚約破棄を告げられたばかりの私をその日訪ねた人が、もう一人いた。
切れ長の紺色の瞳に、長い金髪を一つに束ね、男女問わず目をひく美しい彼は、『微笑みの貴公子』と呼ばれる第二騎士団長のユアン=クラディス様。
彼はいつもとは違う、改まった口調で言った。
「どうか、私と結婚してください」
「お返事は急ぎません。先程リンゼンハイム伯爵には手紙を出させていただきました。許可が得られましたらまた改めさせていただきますが、まずはロゼ嬢に私の気持ちを知っておいていただきたかったのです」
私の戸惑いたるや、婚約破棄を告げられた時の比ではなかった。
彼のことはよく知っている。
彼もまた、私のことをよく知っている。
でも彼は『それ』が私だとは知らない。
まったくの別人に見えているはずなのだから。
なのに、何故私にプロポーズを?
しかもやたらと甘やかそうとしてくるんですけど。
どういうこと?
============
番外編は思いついたら追加していく予定です。
<レジーナ公式サイト番外編>
「番外編 相変わらずな日常」
レジーナ公式サイトにてアンケートに答えていただくと、書き下ろしweb番外編をお読みいただけます。
いつも攻め込まれてばかりのロゼが居眠り中のユアンを見つけ、この機会に……という話です。
※転載・複写はお断りいたします。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
【完結済】姿を偽った黒髪令嬢は、女嫌いな公爵様のお世話係をしているうちに溺愛されていたみたいです
鳴宮野々花@軍神騎士団長1月15日発売
恋愛
王国の片田舎にある小さな町から、八歳の時に母方の縁戚であるエヴェリー伯爵家に引き取られたミシェル。彼女は伯爵一家に疎まれ、美しい髪を黒く染めて使用人として生活するよう強いられた。以来エヴェリー一家に虐げられて育つ。
十年後。ミシェルは同い年でエヴェリー伯爵家の一人娘であるパドマの婚約者に嵌められ、伯爵家を身一つで追い出されることに。ボロボロの格好で人気のない場所を彷徨っていたミシェルは、空腹のあまりふらつき倒れそうになる。
そこへ馬で通りがかった男性と、危うくぶつかりそうになり──────
※いつもの独自の世界のゆる設定なお話です。何もかもファンタジーです。よろしくお願いします。
※この作品はカクヨム、小説家になろう、ベリーズカフェにも投稿しています。
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。
【取り下げ予定】愛されない妃ですので。
ごろごろみかん。
恋愛
王妃になんて、望んでなったわけではない。
国王夫妻のリュシアンとミレーゼの関係は冷えきっていた。
「僕はきみを愛していない」
はっきりそう告げた彼は、ミレーゼ以外の女性を抱き、愛を囁いた。
『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。
(ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?)
そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。
しかも、別の人間になっている?
なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。
*年齢制限を18→15に変更しました。
ずっと好きだった獣人のあなたに別れを告げて
木佐木りの
恋愛
女性騎士イヴリンは、騎士団団長で黒豹の獣人アーサーに密かに想いを寄せてきた。しかし獣人には番という運命の相手がいることを知る彼女は想いを伝えることなく、自身の除隊と実家から届いた縁談の話をきっかけに、アーサーとの別れを決意する。
前半は回想多めです。恋愛っぽい話が出てくるのは後半の方です。よくある話&書きたいことだけ詰まっているので設定も話もゆるゆるです(-人-)
アルバートの屈辱
プラネットプラント
恋愛
妻の姉に恋をして妻を蔑ろにするアルバートとそんな夫を愛するのを諦めてしまった妻の話。
『詰んでる不憫系悪役令嬢はチャラ男騎士として生活しています』の10年ほど前の話ですが、ほぼ無関係なので単体で読めます。
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる