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(23)桃珊瑚-3
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花月の竜の間には坂本龍馬の刀傷と呼ばれる床柱の刀傷があるけれど、花月の庭にも同じように有名なエピソードがある。酔った岩崎弥太郎がここの池に落ちたことを、自分の日記に書き残しているのだ。とりあえず幕末の志士たちは、みんな飲みすぎだと思う。
池の中では、庭を訪れた野鳥が悠々と過ごしている。小さな橋を渡りながら、ゆっくりと辺りを見回した。今見てもこれだけ広いのだから、迷子になった子どもの頃にどこまで行っても出られないと感じてしまったのも仕方がないのかもしれない。
「どうです。この辺りを歩いた記憶はありますか?」
「もうびっくりするくらい、記憶にないですね。変な話、祖母や兄のお祝いでここに来たこともあるはずなのに、まったく記憶に残っていないです」
「ある意味、常に新鮮な気持ちで散策できてお得かもしれませんね」
「あははは、そうかもしれませんね。あ、鳥居だ」
ついつい早口で返事を返してしまうのは、お兄さんに手を握られているからだ。ヒールでは歩きにくいこともあり、つい差し出された手をとってしまったのだけれど、ふと我に返って顔が熱くなってしまっている。イケメン、やはり侮りがたし。
広いお庭の中には鳥居があり、その奥には真っ赤なお社が祀られていた。その鮮やかな色を見たとき、はっと頭をよぎるものがあった。そうだ私はあの日、人込みの中で庭見世にすっかり飽きてしまって、ひとりでお庭のあちこちを探検していたのだ。
『ねこちゃん、まって!』
庭見世では入れる場所は限られているけれど、小さい子どもであればすり抜けられるところはたくさんある。子どもの視点は低い。貫禄たっぷりのかぎしっぽの猫を追いかけて、私はひとりでこの鳥居をくぐったのだ。そして、あるはずのない長い坂道で迷子になったのだ。
「清香さん、どうしましたか?」
「え、いや、何でもないです。……って、あれ、名前?」
いきなりお兄さんに下の名前で呼ばれて、ただでさえ上がっていた体温が急激に上昇した。
「え、なんで、デートだからですか? きゅ、急に呼ばれたらそんな、緊張しちゃうっていうか」
「急に? そんなことはないですよ。だって、清香さんは、清香さんでしょう?」
清香という名前は珍しくもない、ごく普通の名前だと思う。昔からある読み方だし、難読漢字でもない。ところが、学校でも就職してからもみんな私のことを「きよか」と呼んだ。
別に名前を間違えられたからと言って、腹なんて立たない。母の旧姓も読み間違えられることが多いので、もう誰かわかればそれでいいとこだわりなく暮らしている。なんだったら家族以外で私のことを「さやか」と呼ぶひとはいないくらいだ。
「せっかくだから、さやかさんも僕の名前を呼んでくださいよ」
「せっかくって、まったくもう……」
「だっていつまでも、他人行儀じゃ寂しいじゃないですか」
「でも私、下の名前なんて……」
「清香さん、ちゃんと僕の名前も呼んでください。約束、したでしょう?」
繋がれたてのひらが熱い。そしてそれと同じくらい、耳たぶでゆれる桃珊瑚が熱を帯びている。
私の名前は伝票に載っているからお兄さんが把握していることはおかしくない。でも、お兄さんが名乗らない限り、私はお兄さんの下の名前なんて知るはずもないのだ。それなのに。
「朔夜さん?」
「はい。ほら足元に気を付けて。鳥居をくぐりますよ」
するりと口から名前が出てきた。え、なんで、私、お兄さんの名前を知っているんだろう?
驚く私を尻目に、お兄さん……朔夜さんは私の手を引くようにどんどん前に進んでいく。まだ正午前だというのに、鳥居の向こう側はあの日と同じくすっかり夜になっていた。
池の中では、庭を訪れた野鳥が悠々と過ごしている。小さな橋を渡りながら、ゆっくりと辺りを見回した。今見てもこれだけ広いのだから、迷子になった子どもの頃にどこまで行っても出られないと感じてしまったのも仕方がないのかもしれない。
「どうです。この辺りを歩いた記憶はありますか?」
「もうびっくりするくらい、記憶にないですね。変な話、祖母や兄のお祝いでここに来たこともあるはずなのに、まったく記憶に残っていないです」
「ある意味、常に新鮮な気持ちで散策できてお得かもしれませんね」
「あははは、そうかもしれませんね。あ、鳥居だ」
ついつい早口で返事を返してしまうのは、お兄さんに手を握られているからだ。ヒールでは歩きにくいこともあり、つい差し出された手をとってしまったのだけれど、ふと我に返って顔が熱くなってしまっている。イケメン、やはり侮りがたし。
広いお庭の中には鳥居があり、その奥には真っ赤なお社が祀られていた。その鮮やかな色を見たとき、はっと頭をよぎるものがあった。そうだ私はあの日、人込みの中で庭見世にすっかり飽きてしまって、ひとりでお庭のあちこちを探検していたのだ。
『ねこちゃん、まって!』
庭見世では入れる場所は限られているけれど、小さい子どもであればすり抜けられるところはたくさんある。子どもの視点は低い。貫禄たっぷりのかぎしっぽの猫を追いかけて、私はひとりでこの鳥居をくぐったのだ。そして、あるはずのない長い坂道で迷子になったのだ。
「清香さん、どうしましたか?」
「え、いや、何でもないです。……って、あれ、名前?」
いきなりお兄さんに下の名前で呼ばれて、ただでさえ上がっていた体温が急激に上昇した。
「え、なんで、デートだからですか? きゅ、急に呼ばれたらそんな、緊張しちゃうっていうか」
「急に? そんなことはないですよ。だって、清香さんは、清香さんでしょう?」
清香という名前は珍しくもない、ごく普通の名前だと思う。昔からある読み方だし、難読漢字でもない。ところが、学校でも就職してからもみんな私のことを「きよか」と呼んだ。
別に名前を間違えられたからと言って、腹なんて立たない。母の旧姓も読み間違えられることが多いので、もう誰かわかればそれでいいとこだわりなく暮らしている。なんだったら家族以外で私のことを「さやか」と呼ぶひとはいないくらいだ。
「せっかくだから、さやかさんも僕の名前を呼んでくださいよ」
「せっかくって、まったくもう……」
「だっていつまでも、他人行儀じゃ寂しいじゃないですか」
「でも私、下の名前なんて……」
「清香さん、ちゃんと僕の名前も呼んでください。約束、したでしょう?」
繋がれたてのひらが熱い。そしてそれと同じくらい、耳たぶでゆれる桃珊瑚が熱を帯びている。
私の名前は伝票に載っているからお兄さんが把握していることはおかしくない。でも、お兄さんが名乗らない限り、私はお兄さんの下の名前なんて知るはずもないのだ。それなのに。
「朔夜さん?」
「はい。ほら足元に気を付けて。鳥居をくぐりますよ」
するりと口から名前が出てきた。え、なんで、私、お兄さんの名前を知っているんだろう?
驚く私を尻目に、お兄さん……朔夜さんは私の手を引くようにどんどん前に進んでいく。まだ正午前だというのに、鳥居の向こう側はあの日と同じくすっかり夜になっていた。
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