紅薔薇と森の待ち人

石河 翠

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紅薔薇と森の待ち人

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 あなたのおばあさんがあなたよりうんと小さかった頃より、ずっとずっとむかしのお話です。

 むかしむかしあるところに、働き者の若者がおりました。父も母もとうになく、物心ついたときにはひとりぼっちで国境《くにざかい》の大きな森に住んでいました。朝はまだおひさまの出る前の薄暗いうちから、夜はおひさまが沈んで暗くなる頃まで働いておりました。

 ただ残念なことにそんな働き者だったにもかかわらず、若者は大変貧しかったのです。わざわざ辺鄙《へんぴ》な場所に住む、貧しい男の妻になりたい娘もおりませんでしたら、若者はきっとずっとひとりぼっちなのでした。

 ある冬の朝のこと、いつものように森に出かけた若者は、不思議な光景に出会いました。森の泉のほとり一面に、美しい紅薔薇の茂みが広がっていたのです。冬の季節が長く厳しいこの国では、雪の舞う季節に、花など咲きません。特に紅薔薇は、暖かくなる春の終わりと暑くなる前の夏の初めの短い間にしか咲かない貴重な花なのです。

 凍りついた泉は、キラキラと鏡のように日の光を反射しています。真っ白な雪が降り積もる中、燃えるように輝く真紅の薔薇の花びらは、まるでガラス細工のような美しさを誇っていました。若者がため息をつくと、真っ白な息があたり一面にひろがりました。

 若者は、茂みの中にひときわ大きな薔薇のつぼみがあることに気がつきました。ひと抱えもありそうな、大きなつぼみです。森の中でずっと暮らしていた若者でも、こんな大きさのものは見たことも聞いたこともありません。そのつぼみは真冬だというのに、ぷっくりと幸せそうにふくらんでいました。

 ゆっくりとつぼみにふれるとその手を待っていたかのように、ふんわりと光を放ちます。気のせいでしょうか、ほんのりとぬくもりまで感じるのです。嬉しくなった若者は、それから来る日も来る日も暇さえあればつぼみの元にやってきました。毎日甲斐甲斐しく世話を焼き、声をかけたせいでしょうか。ますますつぼみは美しく大きくなりました。

 いつこの花は咲くのでしょう。若者は優しくつぼみに声をかけながら、考えます。暖かい春になったら咲くでしょうか。それとも逆に今よりもっと雪が深くなったらでしょうか。目を奪うような紅色がもっと濃くなったら咲くのでしょうか。乙女が流した鮮血のように美しいつぼみ。思わず睦言のように甘い声が口からこぼれ落ちました。

「起きてごらん。愛しの紅薔薇」

 そっと口づけすると、そう呼ばれるのを待っていたかのように、するりとつぼみが花開きました。そしてその花の中心には、淡雪のような肌をした美しい少女が頬を薄紅色に染めて眠っています。そのままゆっくりと目を開けた少女は、若者の姿を見てにっこりと微笑みました。長い黒髪を風にたなびかせた姿は、まるでおとぎ話に出てくる神の御使いのように美しかったのです。

 思わず名前を尋ねた若者に、少女はおかしそうに笑うと一輪の紅薔薇を差し出しました。だって少女が目覚めたのは、彼が名前を呼んだからなのです。今さら名前を尋ねる若者の姿におかしみを覚えても不思議はありません。それから若者は、少女--紅薔薇--を家に連れて帰りました。

 紅薔薇は不思議な少女です。どこからやってきたのか、本当は何者なのか、誰にもわかりません。花や雪の精なのか、はたまた森に住む妖《あやかし》なのか。けれどひとりぼっちの若者は、そのどちらであってもちっとも構いませんでした。紅薔薇がそばにいてくれるだけで良かったのです。紅薔薇はいつもころころと鈴が転がるような涼やかな声で笑います。その声を聞くと、若者は心がとても温かくなるのでした。長く厳しい冬も、紅薔薇の微笑みを見ればなんてことはありません。

 朝まだ薄暗い中、粗末な敷物の中で冷たい空気に身を震わせていたあの頃。今はかたわらに紅薔薇がいます。森に出かけ、吹きすさぶ北風で手がかじかんでも、心は軽やかです。なぜって、家には灯りをともして温かな食事を用意して待っていてくれるひとがいるのです。隣に誰かがいてくれる幸せをかみしめながら、若者は冬の毎日を過ごしました。

 このまま春が来て、夏が来て、秋が来て、また冬を過ごせたらどれだけ幸せでしょうか。若者はずっとずっと未来のことを考えては、自然に頬が緩んでしまうのでした。

 けれど、若者が楽しそうにしている横で、紅薔薇は浮かない顔をしています。それがいったいなぜなのか、若者にはわかりません。春の柔らかな日差しの心地よさも、夏の夜の星空の美しさも、秋の夕焼けに翔ぶ鳥の切なさも、言葉を尽くして語るたびに、紅薔薇は下を向いてうつむくばかりです。

 ここしばらく、動物たちを見ないことで寂しくなってしまったのでしょうか。まるで誰かが狩り尽くしてしまったかのように、小鳥もうさぎも狐も見かけません。それとも、美しい森を踏み荒らす不届き者のことが気になるのでしょうか。確かにこの森は、誰かにいためつけられているのです。森の薔薇から生まれた彼女にとって、それはとても辛いことなのかもしれないと若者は思うのでした。

 ある夜のこと、若者は声もなく涙を流す紅薔薇を見つけました。声も出さずにひっそりと泣く紅薔薇を見て、若者は森を荒らす不埒者《ふらちもの》を捕まえる決心をしました。けれど荒れ狂う風の中に出て行こうとする若者を、少女は必死で止めるのです。そして悲しそうにこう言いました。

「逃げてください、隣の国の兵隊が国境を越えてやってきます」

 その言葉を聞いて若者は驚きましたが、紅薔薇が嘘をついているとは思いませんでした。彼女自身が、森の奇跡のような存在であったからこそ信じられたのかもしれません。若者は慌てて近くの村に駆け出そうとして、はたと気がつきました。一体何と伝えればよいのでしょうか。森で怪しいものを見たと言って、誰が貧しい若者の言葉を受け入れるでしょうか。この森の向こうに迫っている危機を伝えたところで一笑に付されることでしょう。

 悩む若者の手を取り、紅薔薇は繰り返します。どうぞ逃げて、あなただけでもどうか逃げてと。けれど若者は逃げられません。戦《いくさ》が始まれば多くの人が傷つくでしょう。この美しい森も焼かれてしまうかもしれません。この森を守りたい、村人を助けたいそう願う若者に、紅薔薇は涙を止め、ひっそりと微笑みかけました。

「これを持っていってください。そうすれば、きっと話を聞いてもらえるでしょう」

 紅薔薇は若者に、紅く輝く宝玉が一粒ついた金の首飾りを手渡しました。金の鎖はどうやって作ったものかとても繊細なものです。真珠のようなまろやかな形をした宝玉は、まるで紅薔薇の流した涙のようにも見えます。そのまま扉をあけ、紅薔薇は思いもよらぬ強い力で若者の体を外に突きとばしました。いつの間に降り始めたのか、外は目も開けられないほどの猛吹雪です。そして強い風にあおられて、若者は文字どおり飛ばされてしまいました。風に舞う雪のように、くるくると若者は空に舞います。最後に見えた紅薔薇の微笑みは、どうしてでしょう、少しだけ寂しそうでした。

 吹き飛ばされた若者は、遠く遠く離れた領主の館の前にふわりと降り立ちました。貧しい身なりの見知らぬ若者など、普通なら門前払いされるところです。けれど若者を連れてきた不思議な風と見惚れてしまうほど美しい首飾りの力でしょうか、門番たちは若者の話を馬鹿にすることはありませんでした。さらに騒ぎを聞きつけた召使いたちも、領主も、たまたま屋敷に来ていた客人の王族まで、若者の話に身を傾けてくれました。若者の言葉は、まるで紅薔薇がその場で語ってくれたかのように不思議なほど皆の胸を打ったのでした。

 国境《くにざかい》の森が、敵の兵隊に踏み荒らされることはありませんでした。屋敷にいたこの国の兵隊たちが、大勢の敵兵に立ち向かい打ち勝ったのです。追い風の強い風や雪も、若者たちにとっては強い味方でした。若者は自分の愛するふるさとが守られたことを嬉しく思いました。

 翌日うちに帰ってきた若者でしたが、紅薔薇の姿は見当たりません。その代わりに、いかめしい顔つきをした魔女が1人、どっかりと椅子に座ってお茶を飲んでおりました。しゅんしゅんとやかんでお湯をわかす音だけが部屋の中に響いています。

「おまえさん、紅薔薇の雫を手放したね」

 しわがれた声で言われた言葉に、若者はびっくりしました。確かに若者は、森を守ってくれたお礼に手にしていた宝玉を王族に渡していました。大切な紅薔薇にもらったものを渡したくはありませんでしたが、ぜひにと高貴な身分の方に乞《こ》われてしまっては、断れなかったのです。純朴な若者は知りませんでした。敵国の侵入を防ぐことになった若者こそ、本来はほうびをもらうことができたはずだということを。

 うろたえる若者を横目に、お茶を一口すすると魔女はため息をつきました。暖炉でカタカタとなるやかんのふたが、やけに耳ざわりです。どこから入り込んだのでしょうか。銀色の猫が耳をぴくぴくさせながら丸くなっていました。

「まだ見ぬ愛娘を横からかっさらっていった挙句、その娘に守られてのうのうと生き残るなんてね。たいした男だよ、婿殿は」

 魔女は忌々しそうに舌打ちをします。そしてそのまま、ゆっくりと教えてくれました。丹精に世話をした薔薇に、長年魔力を注いで育てていたこと。紅薔薇をゆくゆくは魔女の後継者にするつもりであったこと。けれど紅薔薇を目覚めさせたのが若者であったから、仕方なく見守ることにしたこと。どれも予想もしていなかったことです。

 魔女はこうも言いました。魔女はひとりの人間に、ひとつの王国に肩入れしてはならないのだと。それは魔女の力の使い方としては正しくないのです。魔女といえど、世界の流れを無理矢理にねじ曲げてはならないのでした。力の使い方も掟《おきて》も学んでいない紅薔薇は、ただ若者を守りたい一心で無理矢理に力を使いすぎたのだと魔女は言いました。本当ならばこの国はあの戦《いくさ》に負けるはずだったのです。

「愚か者め。おまえさんが手放したあの宝玉は紅薔薇の命そのもの。森に根ざした紅薔薇の命をお前が摘み取ったのだ。ただでさえ力を失った紅薔薇が枯れ果てるのも、時間の問題だろうよ。紅薔薇も馬鹿なことをしたもんさ。運命をねじ曲げさえしなければ、明るい未来が待っていたっていうのに」

 若者は驚き、嘆きましたがもうどうしようもありません。例え知らなかったこととはいえ、紅薔薇にもらったその宝玉を手放したのは若者自身だったからです。うろたえる若者を哀れに思ったのでしょうか、魔女は森の泉に行くように言いました。そこで紅薔薇が待っていると。

 初めて紅薔薇と出会ったあの泉のほとりで、少女は倒れておりました。薄く透き通ってしまったその体を抱きしめながら、若者は紅薔薇に謝りました。ぽたぽたと涙をこぼす若者の顔を見上げながら、紅薔薇は微笑みます。優しい春のようにあたたかい笑顔です。

「良いのです。どうか謝らないで。その代わりに……」

 紅薔薇の最期の言葉は、森のざわめきの中にとけていってしまいました。まるで眠っているかのように穏やかな顔のまま、光の粒になって消えてゆきます。紅薔薇がそのきらめくような瞳を開くことは二度とありませんでした。

 いつの間に来ていたのでしょうか。腰を曲げた老婆は目を閉じ、腕をひとふりしました。

ひゅうるりいいい

 冷たく突き刺すような風が吹くと、たちまち紅薔薇を囲んでいた花々が消え去っていきます。色を失った森のなかで、若者はまたひとりぼっち。紅薔薇はなぜ何も言わなかったのでしょうか。なぜ教えてくれなかったのでしょうか。

「まだ紅薔薇の気持ちがわからぬのだな。ならばよかろう。十分に考える時間を与えてやろうではないか」

 魔女が言葉をつむぐたびに、森は深く険しくなっていきます。それっきり、若者の前に魔女は現れませんでした。

 いつしか国境《くにざかい》の暗く深い森は、迷いの森と呼ばれるようになりました。森に入ろうとしても、なぜだか外に出てしまうというのです。けれど時たま森に招かれたように入り込んでしまった人々は、口々にこう言いました。喪《うしな》ってしまった、大切な人に出会うことができたと。森の中は美しい紅薔薇にあふれていたのだと。

 魔女がかけた呪いは、祝福だったのかもしれません。だって気が遠くなるような時間の先で、若者は紅薔薇にきっと出会えたに違いないのですから。

 紅薔薇の雫はどうなったかって? 紅薔薇の宝玉は、今も王様が住むお城のどこかにあるそうですが、誰もその行方を知りません。無理矢理その身につければ宝玉は鉛《なまり》のように重くなり、首飾りはいばらのように肌を傷つけるのだと言われています。首飾りがきらめくとき、そこには大いなる力と加護があることでしょう。

 紅薔薇と森の待ち人のおはなしはこれでおしまい。良い子はホットミルクを飲んでおやすみなさい。
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