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41 近づく気配1
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僕はいま、二日に一回ほどの割合で月桃宮に通っている。リュネイル様の肖像画を描くためで、他の王族の依頼は駄目だと言っていたノアール殿下もリュネイル様のならと許可してくれた。
久しぶりの肖像画に、僕は俄然やる気を出していた。どんな絵でも描くのは好きだが、やっぱり一番は肖像画だ。年齢性別関係なく、その人をキャンバスに写し取るのは楽しいし描き甲斐がある。久しぶりに体の奥からわくわくしているからか、たまにお腹の奥がぞくりとしてしまうほどだ。
(それに、今回は女神かと思うほど美しいリュネイル様だしな)
骨格の美しさもだが、何より目や鼻、唇の位置が絶妙にすばらしいのだ。大きさもこれが最適解だと言わんばかりに整っていて、果たして自分に描ききれるのだろうかと不安さえ覚えるほどだ。
「いいや、描ききってみせる」
思わず絵筆を持つ手に力を入れていると、「休憩しましょうか」というリュネイル様の声が聞こえてきた。
「あ、すみません。お疲れになりましたか」
絵に描かれる側は動いてはいけないので、適度に休憩を挟まないと疲れてしまう。いつもならそのあたりもしっかり考えているのに、描くことに夢中になって失念してしまっていた。
「いいえ。わたしは大丈夫ですけれど、殿下のほうが少し休まれたほうがよいかと思いまして」
「僕ですか?」
目をぱちくりさせると、「ふふっ、やはり僕という言葉のほうが可愛らしい」とリュネイル様が微笑んだ。
ノアール殿下の前ではすっかり「僕」だったため、何度も「ぼ……わたし」と言い直していたのがリュネイル様は気になったらしい。「僕でかまいませんよ」と微笑まれ、若干恥ずかしく思いながらもすっかり「僕」で落ち着いてしまった。
「頬を赤くしながら描いている殿下のほうが、お疲れになったのではと思いまして」
「い、え……その、久しぶりの肖像画なので少し力んでいるのかもしれません。でもしっかり描きますので、そこはご心配なくと言いますか」
「心配はしていません。ランシュ殿下といえばアールエッティ王国一の画家とうかがっています。そんな殿下に描いていただけるなんて、わたしは幸せ者ですね」
「いえ、僕のほうこそ……」
絵を褒められることには慣れているはずなのに、美しい微笑みを向けられると段々顔が熱くなってくる。「これはたしかに一度休憩したほうがいいかもしれない」と判断した僕は、リュネイル様に勧められて鮮やかな赤色の冷たいお茶を飲んだ。
「これもハーブティーなんですか?」
「はい。祖国では温かいまま飲むんですが、この国の夏は暑いですからね。こうして冷たくして飲むようになりました」
「ほどよい酸味があって、とてもおいしいです」
「それはよかった。これは血の巡りをよくしてくれると言われています。多めに取り寄せましたから、帰りに茶葉を差し上げましょう」
「ありがとうございます」
この間はお腹を温めるというハーブティーの茶葉をいただいた。あちらは少し甘みのある香りの金色のお茶で、朝飲むとよいらしい。
「そういえば、殿下から少しだけ香りがするような……。もしかして、ハーブティーの効果でしょうか」
「え?」
「発情が近いのではありませんか?」
リュネイル様の言葉に、またもや目を瞬かせてしまった。
「おや、違いましたか。ランシュ殿下からほんのわずかですが甘い香りがしたので、てっきり発情が近いのかと」
「そうなんでしょうか。あぁいえ、疑っているということではなくて、自分の発情のことも、いまだによくわかっていないので……」
「そういえば、ランシュ殿下はΩになられたばかりだとおっしゃっていましたね」
「はい。二十四歳でΩになったせいか、ついこの前までΩの香りすら全然しなかったんです。それにαの香りもわかりませんし、あぁでも、ノアール殿下の香りだけはわかるようになったんですが」
僕の返事にリュネイル様がにこっと微笑みを浮かべた。
「少しずつΩの体として安定してきているのでしょう。そのうちノアール殿下の香りも嫌というほど感じるようになりますよ」
「嫌というほど、ですか?」
「はい。とくに発情すればいつもの何倍も強く感じますから、気をつけないと相手の香りに溺れてしまいそうになるくらいです」
「たしかに」
殿下に噛まれたときの発情では、たしかにそんな感じがした。あちこちから入ってくる濃いミルクの香りに息ができなくなると思ったくらいだ。
「ほんの少しですが、この甘い香りは殿下から香っているのだと思いますよ」
そう言われて自分の腕をくんと嗅いでみたが、絵の具の匂いしかしない。そんな僕がおかしかったのか、リュネイル様が「ふふっ」と笑った。
「わたしの鼻はとても敏感なのです。ノアール殿下をお生みになったあとの王妃様のΩの香りもわかるくらいですから」
「そうなんですか」
「これも体質のせいでしょうね。自分の香りも強く、さらにΩの香りも強く感じてしまうので、この館ができるまでは大変でした」
αの香りさえわからなかった僕には想像もできないことだが、Ωが大勢いた後宮ではさぞかし大変な思いをしたのだろう。
(そういうことも、この月桃宮を建てた理由なのかもしれないな)
それを命じたのは国王だ。そうするくらい国王はリュネイル様を大切にしているということになる。
(子ができなかったとしても、うなじを噛んだことに責任を感じているんだろうか)
いや、リュネイル様は自分のほうが噛ませたいと思ったと話していた。
(ということは、リュネイル様が陛下に噛ませたということか? うーん、さっぱりわからないな)
とにかくリュネイル様はいろいろ大変なんだなと思いながら、またくんくんと自分の腕を嗅いでみる。そうしてあることに気がついた。
「そういえば、もうリュネイル様の香りを感じない気がします」
「あぁ、それは発情が終わったからでしょう。大体二日ほどで終わりますから」
「二日ですか」
「個人差はあると思いますが、わたしは昔からそのくらいですね。香りが強いぶん互いに耐えられなくなってはいけないと、本能が短くしているのかもしれません」
「なるほど……」
いまだにαとΩの香りについてわかっていない部分が多いが、うなじを噛まれたあとも香りに左右されるということなのだろう。
「たった二日間でも、わたしの香りは陛下を決して逃したりはしません。むしろ二日間で終わるのは陛下のためかもしれませんね」
「え?」
「αはすべてにおいて頂点に立つと言われていますが、Ωに対してはそうではありません。本来、Ωのほうがαを選ぶ立場なのですよ」
「選ぶ……?」
「そう。Ωが噛ませるべきαを選び、許しを得たαがうなじを噛む。Ωの香りをαのものにする代わりに、αはその香りから決して逃れられない。本来、αとΩはそういう関係なのです」
どういうことだろうか。難しい話のようには聞こえないのに、うまく理解できない。それなのに、僕のなかの何かは「そうだ」と納得しているように感じる。
「ランシュ殿下は遅咲きのΩですが、本質はわたしに近いのではと感じています。もしくは、男のΩ自体が原始のΩに近いのかもしれませんね。そんな殿下がノアール殿下を選んだのですから、お二人は結ばれるべくして結ばれたのでしょう」
「そう、なんでしょうか」
「お二人の間には誰も割って入ることなどできません。大丈夫、心配することは何もありませんよ」
まさに女神と言わんばかりの微笑みに、ふと金髪碧眼の男性の顔が脳裏をよぎった。
十日前に王宮へやって来たその男性は、髪や目の色がリュネイル様と似ているからか少しだけ面影が重なって見える。肌も白く、そういえばペイルルという名前もラベルミュール国の言葉に響きが近い。
「心穏やかに過ごすのは大事ですが、自信を持たれることも大事ですよ」
「ありがとうございます」
リュネイル様とはこうしてたびたび会っているが、ペイルル殿の話はしていない。しかし月桃宮も後宮の一つ、それにリュネイル様は国王の妃なのだから知っていてもおかしくはなかった。そうして、僕が何を感じているかもわかるのだろう。
「自信があるかと問われると困りますが、それでも僕はノアール殿下の子を生むと決めました。殿下もそれを望んでいますし、期限まであまり時間はありませんが大丈夫だと信じています。……まぁ、そのくらいしか僕にできることはないんですけど」
「ランシュ殿下はお強い方ですから大丈夫ですよ。あぁ、でも気負いすぎてもよくありませんから、そこは程々に」
「はい」
気がつけば、僕の相談話のようになってしまっていた。そのつもりはないのだが、リュネイル様の雰囲気がそうさせるのか、ついいろいろと話してしまう。まるで母上を前にしているような気分だなと、おかしなことを思ってしまった。
きっと同じ男のΩ同士だからに違いない。Ωのことを知らない僕にとっては、母というより師と仰ぎたくなる人だ。そんなことを思いつつ、今日は下塗りを終わらせてしまおうと再び絵筆を手にした。
久しぶりの肖像画に、僕は俄然やる気を出していた。どんな絵でも描くのは好きだが、やっぱり一番は肖像画だ。年齢性別関係なく、その人をキャンバスに写し取るのは楽しいし描き甲斐がある。久しぶりに体の奥からわくわくしているからか、たまにお腹の奥がぞくりとしてしまうほどだ。
(それに、今回は女神かと思うほど美しいリュネイル様だしな)
骨格の美しさもだが、何より目や鼻、唇の位置が絶妙にすばらしいのだ。大きさもこれが最適解だと言わんばかりに整っていて、果たして自分に描ききれるのだろうかと不安さえ覚えるほどだ。
「いいや、描ききってみせる」
思わず絵筆を持つ手に力を入れていると、「休憩しましょうか」というリュネイル様の声が聞こえてきた。
「あ、すみません。お疲れになりましたか」
絵に描かれる側は動いてはいけないので、適度に休憩を挟まないと疲れてしまう。いつもならそのあたりもしっかり考えているのに、描くことに夢中になって失念してしまっていた。
「いいえ。わたしは大丈夫ですけれど、殿下のほうが少し休まれたほうがよいかと思いまして」
「僕ですか?」
目をぱちくりさせると、「ふふっ、やはり僕という言葉のほうが可愛らしい」とリュネイル様が微笑んだ。
ノアール殿下の前ではすっかり「僕」だったため、何度も「ぼ……わたし」と言い直していたのがリュネイル様は気になったらしい。「僕でかまいませんよ」と微笑まれ、若干恥ずかしく思いながらもすっかり「僕」で落ち着いてしまった。
「頬を赤くしながら描いている殿下のほうが、お疲れになったのではと思いまして」
「い、え……その、久しぶりの肖像画なので少し力んでいるのかもしれません。でもしっかり描きますので、そこはご心配なくと言いますか」
「心配はしていません。ランシュ殿下といえばアールエッティ王国一の画家とうかがっています。そんな殿下に描いていただけるなんて、わたしは幸せ者ですね」
「いえ、僕のほうこそ……」
絵を褒められることには慣れているはずなのに、美しい微笑みを向けられると段々顔が熱くなってくる。「これはたしかに一度休憩したほうがいいかもしれない」と判断した僕は、リュネイル様に勧められて鮮やかな赤色の冷たいお茶を飲んだ。
「これもハーブティーなんですか?」
「はい。祖国では温かいまま飲むんですが、この国の夏は暑いですからね。こうして冷たくして飲むようになりました」
「ほどよい酸味があって、とてもおいしいです」
「それはよかった。これは血の巡りをよくしてくれると言われています。多めに取り寄せましたから、帰りに茶葉を差し上げましょう」
「ありがとうございます」
この間はお腹を温めるというハーブティーの茶葉をいただいた。あちらは少し甘みのある香りの金色のお茶で、朝飲むとよいらしい。
「そういえば、殿下から少しだけ香りがするような……。もしかして、ハーブティーの効果でしょうか」
「え?」
「発情が近いのではありませんか?」
リュネイル様の言葉に、またもや目を瞬かせてしまった。
「おや、違いましたか。ランシュ殿下からほんのわずかですが甘い香りがしたので、てっきり発情が近いのかと」
「そうなんでしょうか。あぁいえ、疑っているということではなくて、自分の発情のことも、いまだによくわかっていないので……」
「そういえば、ランシュ殿下はΩになられたばかりだとおっしゃっていましたね」
「はい。二十四歳でΩになったせいか、ついこの前までΩの香りすら全然しなかったんです。それにαの香りもわかりませんし、あぁでも、ノアール殿下の香りだけはわかるようになったんですが」
僕の返事にリュネイル様がにこっと微笑みを浮かべた。
「少しずつΩの体として安定してきているのでしょう。そのうちノアール殿下の香りも嫌というほど感じるようになりますよ」
「嫌というほど、ですか?」
「はい。とくに発情すればいつもの何倍も強く感じますから、気をつけないと相手の香りに溺れてしまいそうになるくらいです」
「たしかに」
殿下に噛まれたときの発情では、たしかにそんな感じがした。あちこちから入ってくる濃いミルクの香りに息ができなくなると思ったくらいだ。
「ほんの少しですが、この甘い香りは殿下から香っているのだと思いますよ」
そう言われて自分の腕をくんと嗅いでみたが、絵の具の匂いしかしない。そんな僕がおかしかったのか、リュネイル様が「ふふっ」と笑った。
「わたしの鼻はとても敏感なのです。ノアール殿下をお生みになったあとの王妃様のΩの香りもわかるくらいですから」
「そうなんですか」
「これも体質のせいでしょうね。自分の香りも強く、さらにΩの香りも強く感じてしまうので、この館ができるまでは大変でした」
αの香りさえわからなかった僕には想像もできないことだが、Ωが大勢いた後宮ではさぞかし大変な思いをしたのだろう。
(そういうことも、この月桃宮を建てた理由なのかもしれないな)
それを命じたのは国王だ。そうするくらい国王はリュネイル様を大切にしているということになる。
(子ができなかったとしても、うなじを噛んだことに責任を感じているんだろうか)
いや、リュネイル様は自分のほうが噛ませたいと思ったと話していた。
(ということは、リュネイル様が陛下に噛ませたということか? うーん、さっぱりわからないな)
とにかくリュネイル様はいろいろ大変なんだなと思いながら、またくんくんと自分の腕を嗅いでみる。そうしてあることに気がついた。
「そういえば、もうリュネイル様の香りを感じない気がします」
「あぁ、それは発情が終わったからでしょう。大体二日ほどで終わりますから」
「二日ですか」
「個人差はあると思いますが、わたしは昔からそのくらいですね。香りが強いぶん互いに耐えられなくなってはいけないと、本能が短くしているのかもしれません」
「なるほど……」
いまだにαとΩの香りについてわかっていない部分が多いが、うなじを噛まれたあとも香りに左右されるということなのだろう。
「たった二日間でも、わたしの香りは陛下を決して逃したりはしません。むしろ二日間で終わるのは陛下のためかもしれませんね」
「え?」
「αはすべてにおいて頂点に立つと言われていますが、Ωに対してはそうではありません。本来、Ωのほうがαを選ぶ立場なのですよ」
「選ぶ……?」
「そう。Ωが噛ませるべきαを選び、許しを得たαがうなじを噛む。Ωの香りをαのものにする代わりに、αはその香りから決して逃れられない。本来、αとΩはそういう関係なのです」
どういうことだろうか。難しい話のようには聞こえないのに、うまく理解できない。それなのに、僕のなかの何かは「そうだ」と納得しているように感じる。
「ランシュ殿下は遅咲きのΩですが、本質はわたしに近いのではと感じています。もしくは、男のΩ自体が原始のΩに近いのかもしれませんね。そんな殿下がノアール殿下を選んだのですから、お二人は結ばれるべくして結ばれたのでしょう」
「そう、なんでしょうか」
「お二人の間には誰も割って入ることなどできません。大丈夫、心配することは何もありませんよ」
まさに女神と言わんばかりの微笑みに、ふと金髪碧眼の男性の顔が脳裏をよぎった。
十日前に王宮へやって来たその男性は、髪や目の色がリュネイル様と似ているからか少しだけ面影が重なって見える。肌も白く、そういえばペイルルという名前もラベルミュール国の言葉に響きが近い。
「心穏やかに過ごすのは大事ですが、自信を持たれることも大事ですよ」
「ありがとうございます」
リュネイル様とはこうしてたびたび会っているが、ペイルル殿の話はしていない。しかし月桃宮も後宮の一つ、それにリュネイル様は国王の妃なのだから知っていてもおかしくはなかった。そうして、僕が何を感じているかもわかるのだろう。
「自信があるかと問われると困りますが、それでも僕はノアール殿下の子を生むと決めました。殿下もそれを望んでいますし、期限まであまり時間はありませんが大丈夫だと信じています。……まぁ、そのくらいしか僕にできることはないんですけど」
「ランシュ殿下はお強い方ですから大丈夫ですよ。あぁ、でも気負いすぎてもよくありませんから、そこは程々に」
「はい」
気がつけば、僕の相談話のようになってしまっていた。そのつもりはないのだが、リュネイル様の雰囲気がそうさせるのか、ついいろいろと話してしまう。まるで母上を前にしているような気分だなと、おかしなことを思ってしまった。
きっと同じ男のΩ同士だからに違いない。Ωのことを知らない僕にとっては、母というより師と仰ぎたくなる人だ。そんなことを思いつつ、今日は下塗りを終わらせてしまおうと再び絵筆を手にした。
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