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一章 鬼に繞乱(じょうらん)されしは

其の拾陸

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「あの男は嫌いです。かわいいカラギのことを小馬鹿にしたようなあの態度、たかが陰陽師風情が偉そうに。しかも目障りなあの鬼の話までするなんて」
「そこまで怒ることじゃないだろう?」

 本当は「かわいいカラギ」という表現を改めてほしいのだが、いまそれを口にすると怒りの火に油を注ぎかねないから黙っておく。

「実際、光榮こうえい殿のほうが位が高いのだ。それに俺は貴族でありながら武士もののふのようなことをしている。よく思われていないのは、いまに始まったことじゃない」
「優しさはカラギのよいところだとは思いますが、無礼な相手にまで優しくする必要はありませんよ」

 頬を少し膨らませた姿すら美しい金花の顔に、思わずくすりと笑ってしまった。そうすると怒っていた金花もはぁと息を吐き、苦笑にも似た笑みを浮かべる。

「しかし、光榮こうえい殿は金花のことに気づいたのではないだろうな……」

 俺が一番気になっているのはそのことだ。俺を蔑ろにしようがどうしようが、これまでと大して変わらないから気にする必要はない。だが金花が鬼だと気づかれたとしたら、そうは言っていられなくなる。

「さぁ、どうでしょう。たしかに陰陽師としては優秀かもしれませんが、阿倍野あべのの若君のほうがよほど才能に溢れていると思いますよ? たしか、春……何とかという名前だったと思いますが」
阿倍野あべのの……とは、もしや春明はるあきら殿のことか?」
「そう、たしかそのような名であったかと。彼に見つかりでもすれば、たしかに危ういかもしれませんね」

 阿倍野あべのの家といえば有名な陰陽師の家柄だ。直系は帝近くに仕えているため、陰陽寮には親族の誰かが身を置いていたはず。四代から五代前の帝の御世では春明はるあきら殿という恐ろしく腕の立つ当主が陰陽頭おんみょうのかみを務め、そのおかげで数多の鬼たちを退治することができたと言われている。
 そんな有名な、しかも相当昔の人物を知っているとは……。

(……そうか、鬼とは長寿な存在だったな)

 蔽衣山おおえやまで長らく“高貴なる畏怖”と呼ばれていた金花だ、どこかで春明はるあきら殿を知ったとしてもおかしくはない。きっと人とは違う時の流れ方なのだろう。人の世では世代が変わるほど時を経ているのだということに気づいていなかったとしても仕方がない。

(…………俺と金花では、そのくらい時の流れが違ってしまうのか)

 不意に思ったことに、胸がズンと重くなった。

「カラギ?」
「あ、あぁ、いや、春明はるあきら殿は鬼の間でも有名だったのだなと思ってな。たしか都から出たことがなかったはずだが、おまえまで知っていることに驚いた」
「そうですね、阿倍野あべのの若君は特別でしょうね。少ししか都にいなかったわたしの耳にも聞こえてきたくらいですし」
「は……? おまえ、都にいたことがあるのか?」
「いたといってもわずかの間ですよ。春に来て、秋には蔽衣山おおえやまに戻りましたから」
「そうか……都にいたことがあったのか……」
「えぇ。それで初めてあなたに会ったとき、まとっていた香りを懐かしく思ったんです」

 優しく微笑む顔を見ながら、俺は金花のことをほとんど知らないことに気がついた。どこで生まれ兄弟はいるのか、鬼と“ようま”の親はどうしているのか、何も知らない。あの烏の羽根のこともそうだ。……それに、あとどのくらい生きられるのか。

(……いや、知らないほうがよいこともあるか)

 またもや胸に重い石が詰まったような、何とも言いがたい気持ちになった。

「都にいた間も蔽衣山おおえやまにいたときも、好いた相手はいませんよ?」
「……何を急に」

 何を言い出すんだと思って金花を見ると、おもしろそうにニィと笑んでいる。

「おや? それを心配して黙り込んだのではないんですか?」
「馬鹿を言うな。そんなこと、心配するはずがないだろう」
「ふふっ、カラギを思うわたしの気持ち、信じてくれてうれしいです」
「……うるさいっ」

 まだ笑っている金花を引き寄せながら右手でがしりと頭を抱え、勢いのまま紅い唇を塞ぐように吸った。わずかに驚いているらしい様子に胸のすく思いがしたものの、すぐに愛しい思いとじりじりするような気持ちが混ざり苛々してしまう。
 それを振り切るように金花の口の中に舌を突っ込み、涎が滴るほど熱い口内をねぶり回した。



 光榮こうえい殿が屋敷に来た三日後、朝廷から正式に御所警備の話が届いた。陰陽寮の口添えがあったらしいと兄上から聞かされたが、どういう風の吹き回しだろうか。

「あれほど武士もののふの力は借りないと言っていたのにな」
「本当に嫌な陰陽師です」

 この話を聞いて以来、金花はより一層光榮こうえい殿を煙たがるようになった。

「わたしのカラギをなんだと思っているんでしょうか」

 煙たがっている理由を聞くたびに、胸がこそばゆくなる。好いた相手にこれほど思われるのはなんと心地がよいことだろうと、思わず口元が緩みそうになるくらいだ。

「そう怒るな。御所にはあの鬼が現れる可能性が高い。俺や屋敷の武士もののふたちは二度対峙している、だから呼ばれたのだろう」
「……だからこそ心配しているのです。あの鬼は、あなたを狙っているじゃないですか」
「狙って、……ぶふっ」
「笑いごとじゃありませんよ」
「くくっ、ははは、いや、すまない。おまえの口から『狙っている』という言葉を聞くとはな」

 誰よりも俺を狙っていたのはおまえだろうと思うと、笑わずにはいられなかった。

「カラギ」
「わかっている」

 心配する金花の気持ちは十分に理解している。それでもなお笑わずにいられなかったのは、俺自身を鼓舞するためでもあった。こうして笑い飛ばしでもしなければ心が折れそうになる。

(あの鬼に俺の腕で敵うとは思えない)

 鴉丸からすまるを持ってしても、一太刀浴びせることすら難しいだろう。それでも御所警備を断ることはできない。ここで断ったとしても、あの鬼はいずれこの屋敷に現れるに違いないからだ。

(あの鬼は「また会おう」と言っていた)

 あの鬼と対峙するなら、母上がいるこの屋敷より警備の固い御所のほうがいい。
 帝や妃たちはしばらく後壱殿別邸ごいちどのべっていに移るという話だから、心配事は少なくなる。御所が荒れるのは心苦しいが、陰陽寮も総出で対処するとのことだから話に乗らない理由はない。

 陰陽寮の話では、近々あの鬼が御所に現れるだろうということらしい。その日に備え、俺は日々鍛錬を続けていた。今度こそ一太刀でも交えてやろうと重いながらがむしゃらに太刀を振るってしまうのは、やはり奥底に恐怖心が残っているからだ。
 それを断ち切るためにも鍛錬を怠るわけにはいかない。あまりに熱心に太刀を振るうからか、屋敷の武士もののふたちは鍛錬中の俺に近づくことさえしなくなった。姿が見えれば鍛錬の相手をさせるのだが、誰一人として姿を見かけない。
 熱が入りすぎて俺が頬を切られるという騒ぎが起きたが、そのせいだろうか。いや、何人かをうっかり叩きのめしてしまったせいかもしれない。
 そういうこともあって一人で鍛錬するしかなくなったわけだが、最中は金花が側で俺を見るようになった。いまも光榮こうえい殿のことを苦々しく言いながら、いつでも俺の汗を拭えるようにと桶に水を用意し、肌触りのよい手ぬぐいを何枚も手元に用意している。
 そうした金花の姿を見るたびに、御所で鬼と対峙したときのことを思い出す。あのとき俺は、何が何でも金花の元に帰ろうと考えた。しかし俺と鬼との腕の違いは歴然だ。今度対峙して、また助かるという保証はどこにもない。

「それでも、あの鬼をどうにかしなくてはいけないのだ」

 敵う敵わないという問題ではない。先送りしたところであの鬼がいなくなるわけではないし、問題の解決にはならないのだ。

「それに、他の鬼たちも随分と騒がしくなってきたようだしな……」

 以前金花が話していたように、力ある鬼のおこぼれを小鬼たちが狙って騒いでいるのだとしたら、あの鬼をどうにかしない限り都はますます物騒になる。

 ふぅぅと深く息を吐き出す。
 右手に持った鴉丸からすまるの刀身はますます鋭く光り、まるで鬼の血を求めているかのようにも見える。再び深く息を吐いてから、つかを握る右手にグッと力を入れた。

 ザッ、ザン、ザザッ、ザッ。

 地面を蹴る足音が響くなか、刀身を向ける角度や速さ、力加減を確認する。時に一気に突き進み、時にさっと後ろに飛び退き、頭上から刀身を振り下ろしながらも途中ですぐさま払うように大きく水平に弧を描く。下からすくい上げるように動かし、さらに体に突き立てるように鋭く刀身を突き出す動きも忘れない。
 あの鬼の様子を思い出しながらの動きではあるものの、いずれも軽くかわされるだろうことは容易に想像できた。

(これでは、また笑われるだけだ)

 それが悔しくも歯痒く、つい力を入れすぎて刀身を大きく振り被ったときだった。背後から何かが飛んでくる気配を感じ、すぐさま太刀を振りかざす。

 ヒュン!

 咄嗟に鴉丸からすまるで斬り落としたそれは、やや太めの木の枝だった。なぜこんなものがと思った俺の耳に、懐かしい声が聞こえてきた。

「どうやら我が弟子の腕は鈍っていないようだなァ」
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