僕が結婚を延ばす理由

３

　結婚延期についてあれこれ思い出してしまった僕は、結局気鬱なまま屋敷に戻った。予定時間より随分早くに戻った僕を父は叱ったけれど、気が滅入っていたからか怯えることも気落ちすることもない。「申し訳ありませんでした」と頭を下げ自室に戻り、何もかも忘れたくて早々に寝ることにした。
　三日後、康孝さんと会う予定をしていた。どうしようか悩んだものの、結局会うのが怖くなり直前になってから断りを入れてしまった。

（約束を断ったのは初めてだ）

　自分から断ったのに会えないとやっぱり寂しい。そんな自分を情けなく思っていると、康孝さんからお見舞いだという花が届いた。体調がよくなくて断ったと思ったのだろうか。

「やっぱり康孝さんは優しい」

　思わずそうつぶやきながら花びらを撫でる。
　誰かに花をもらうのは初めてだった。こんなことをされたら勘違いしてしまいそうになる。

（勘違いしたら駄目だ。康孝さんには恋人がいるんだから）

　それに期待して傷つくのは自分自身だ。わかっているのに、つい康孝さんの顔を思い浮かべてしまうのは彼への想いを断ち切れない自分の弱さだ。

（そういえば三度目の結婚延期のときも何も言われなかったな）

　二度目の結婚延期から三カ月後、僕はもう一度結婚を延期したいと康孝さんに話した。そんな僕に両親はカンカンに怒り、けれど康孝さんはやっぱり「わかった、そうしよう」と言って優しく微笑んだ。
　気がつけば婚約してから一年近くが経っている。何度も結婚を延期しているというのに僕は康孝さんの婚約者のままで、康孝さんも優しいままだ。我が儘を言う僕に本当なら怒ってもおかしくないのに、まったく態度が変わらない。

（僕に気持ちがないから怒らないのかな）

　不意に思い浮かんだことが真実のように思えた。

（そっか……うん、そうだよな）

　いつまでも未練がましいのはやめなくては。これは家同士の結婚なんだ。
　この日から、僕は康孝さんと出かけるのをやめることにした。連絡をもらっても断り続けている。それでも康孝さんは怒ることなく僕を誘ってくれている。

（しかも断るたびに花を届けてくれるなんて）

　勘違いしては駄目だとわかっているのに、贈ってくれた花を見るたびに淡い期待を抱きそうになった。

（しかも毎回違う種類の花束なんて）

　嬉しいのに苦しくて仕方がない。

（結婚しても、こうしてずっと苦しいままなんだろうか）

　そう思うと婚約話が出たときよりも気が重くなる。

（……そうだ、いっそ僕のほうから婚約破棄すれば）

　一瞬そう思ったものの、すぐに駄目だと頭を振った。そもそも父が許してくれるはずがない。不動家にしても、一年も結婚を延期された挙げ句の婚約破棄なんて受け入れてくれるはずがなかった。それどころか怒り心頭で鳴宮家を潰そうとするかもしれない。いくら財のある鳴宮家でも、地位と権力を持つ不動家に睨まれればどうなるかわからなかった。
　何を考えても苦しい。考えないようにしようとしても、どうしても結婚のことが頭をよぎる。そんな僕の胸の内などお構いなしな父は、またしてもパーティに行くように命じた。

（結婚すればパーティに行かなくて済むのかな）

　それなら結婚したほうが楽になれる気がする。あまりに気が重いことばかりで、ついそんなことを考えてしまった。

（でも、パーティは夫婦同伴だから……いや、いまも同伴しないのに結婚して同伴することなんてないか）

　康孝さんはきっと恋人と行くだろう。結婚後も恋人を同伴する人の話はよく聞くし、実際目にしたこともある。
　僕は康孝さんとパーティに行くことはなく屋敷で待つ身になるだろう。パーティに行って嫌なことを耳にするのと、好きな人が別の人と過ごしている時間をひたすら耐えて待つのと、どちらがより苦しいだろうか。
　そんなどうしようもないことを考えているうちに会場に到着してしまった。小さくため息をついてから車を降りると、途端にあちこちから視線を向けられるのを感じた。「あれが鳴宮家の」だとか「何度も結婚を延期している」だとか囁く声まで聞こえてくる。
　胃の辺りが痛むのを感じた僕は、そのままレストルームへ向かうことにした。婚約してからというもの、パーティ会場よりもレストルームに直行することが増えた気がする。そんな現実に口元を歪めたところで、「もう三度目よ！」という声が聞こえてきて慌てて柱の影に隠れた。

「本当に新華族の人たちは無礼だわ。不動家といえば華族の中でも由緒正しいお家柄だというのに、鳴宮家のほうから何度も延期を申し出るなんて何様のつもりかしら」
「そういうことを言ってはいけないよ」
「だってお兄様、本当ならお兄様が康孝様の婚約者になっていてもおかしくなかったのよ？　それなのにあんな成金風情に横取りされたうえに何度も結婚を延ばすなんて、まったく理解できないわ」
「康孝様がお決めになったことに僕らが口を挟むのは失礼だよ。さぁ、機嫌を直して。そんな顔では婿候補が見つからなくなってしまうだろう？」
「もうっ、お兄様！　わたくしは本気で怒っているのに、肝心のお兄様がそんなではよくないと言っているのよ！」

　ひどく怒っている女性に話しかけている男性を見てハッとした。

（あの人だ）

　一度見たら忘れられなくなるほど綺麗なΩ……そして康孝さんの恋人に違いない人。

（やっぱり恋人だったんだ）

　いまの会話から、二人は許嫁になってもおかしくない間柄だったのだとわかった。同時に、二人を恋人だと感じたことは間違いじゃなかったのだと知り胸が痛む。

（こんな綺麗な恋人がいたら僕を同伴しないのも当然だ）

　僕と結婚しても康孝さんが恋人の元に行く未来が見えた気がした。それがはっきりわかったいま、僕はもう婚約者でいることはできない。

「早く婚約を解消しないと……」
「何を解消するのかな」
「ひっ」

　急に背後から声をかけられて悲鳴が出た。驚きのあまり少し飛び上がってしまった僕は、踵の端で相手の靴を踏んだことに気がついた。慌てて飛び退き、顔を見ることなく急いで頭を下げる。

「た、大変失礼いたしました」

　きっとパーティに参加している華族のどなたかに違いない。ただでさえ鳴宮家の悪い噂が広がっているときに何てことをしてしまったのだろう。不作法を許してもらえるだろうかと青ざめながら頭を下げていると、「急に声をかけたわたしが悪かった」と謝られて「え？」と目を見開く。

（いまの声は……）

　そぅっと顔を上げると、そこに立っていたのは康孝さんだった。

「や、康孝さん」
「元気そうでよかった」

　久しぶりに見る美しい顔に思わずうっとりしかけたところでハッとする。

「あ、あの、足、すみませんでした。大丈夫ですか？」
「大丈夫だよ。それより珠希くんは少し軽すぎやしないかな。まるで猫に踏まれたような感触だった」
「ね、猫、」
「そう、猫」

　そう言ってニコッと笑う顔に顔が熱くなった。しばらく会っていなかったからか、いつにも増してドキドキする。返事もできずに呆然と見つめていると「康孝様」という低くも艶やかな声が耳に入ってきた。

（あの人だ）

　熱くなっていた顔がひやりとした。

（どうしよう）

　康孝さんに会えたのは嬉しいけれど、恋人と楽しげに話す姿は見たくない。早くこの場を離れなくてはと思っているのに強張って足が動かなかった。

「やぁ、公彦きみひこくん」

　にこやかに笑う康孝さんの顔に胸がズキンとした。僕を見るときよりも自然な笑顔に見えて「あぁ、やっぱり」と胸が苦しくなる。

（やっぱり二人は恋人なんだ）

　そのことを見せつけられたような気がした。思わず顔を逸らしたけれど、綺麗な人が近づいて来る気配を感じて体が強張ってしまう。

「先日は茶会にお招きいただきましてありがとうございました。おかげで楽しい時間を過ごすことができました」
「それはよかった。声をかけた甲斐があったよ」

　茶会という言葉にドキッとした。先週、不動家から茶会を催すという手紙をもらったものの断った茶会に違いない。それにこの人は出席していたのだ。

（やっぱり僕は康孝さんとは結婚できない）

　結婚しても惨めな気持ちになるだけだ。

（それに康孝さんのためにもならない）

　僕では康孝さんを幸せにはできない。恋人と一緒にいるほうが康孝さんも嬉しいはず。

（やっぱり婚約は解消してもらおう）