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17 二度目の緊急事態

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 向かいに座るヒューゲルさんをチラッと見る。手元の紙に視線を落としているからか、意外とまつ毛が長いことに気がついた。

(そういえば、こうしてじっくりと顔を見たことはなかったかも)

 何度もベッドを共にしていたのに、しっかり見ていたのは逞しい体に硬い手、それに体格に見合った下半身くらいだった気がする。

(ニゲルの場合は顔にも目が向いてしまうんだけど)

 やっぱり気持ちが伴っているからだろうか。そんなことを思いながら視線を向けていると、ヒューゲルさんの黒目と視線が合った。

「そう熱心に見られると、きみの恋人に殺されかねないんだが」
「え?」
「後ろで随分と不貞腐れているぞ?」
「え……? あ、」

 振り返ると、ムスッとしたニゲルの顔があった。

「ニゲル」
「そんなに熱心に見なくてもいいんじゃないですか?」
「熱心って……」
「俺以外を見つめないでください」

 隣に座ったニゲルが、ジッと俺を見つめてきた。別に見つめてはいないんだけど、という気持ちと、おまえだって俺を見つめているじゃないか、という思いで視線が揺れてしまう。

「いちゃつきたいなら、よそでやってくれ」
「見せつける絶好の機会なのでやめません」
「ニゲル!」

 何を言い出すんだと声を上げたが、「何か問題でも?」と澄ました顔で聞き返されて何も言えなかった。

 別にニゲルが言うようにヒューゲルさんを見つめていたわけじゃない。ニゲルが「受付台のアイクを目で追っているのを何度か見た」と言っていたのを思い出し、自分でも確かめようと思っただけだ。
 昼を少し過ぎたばかりだから受付台にはサザリーとアイクが座っていて、酒場の端のこの席からはギルドの受付台がよく見える。俺は受付台を背にして座っているが、逆に言えば正面に座っているヒューゲルさんからは受付台がよく見えるということで、もしかして何かわかるかもしれないと思ってチラチラ視線が向いてしまったのだ。

「そんなに二人のことが気になりますか?」

 耳元でそっと囁かれた声にビクッとしてしまった。

「ちょっと、近いよ」
「いいじゃないですか」
「よくは、ない、から」

 ニゲルが囁くたびに息がかかって、それが首筋をぞくりとさせる。そういう雰囲気でもないのに感じてしまうのが恥ずかしくて、肩を押して逞しい体を遠ざけた。

「ハイネまでわたしに見せつけたいのか」
「違っ……」
「耳まで真っ赤だぞ」
「……! ヒューゲルさんまで、やめてください」
「かわいいハイネさんを、それ以上見ないでください」
「ニゲル!」
「あぁ、そうか。きみたちは普段の言動からしていちゃついているんだ」
「……っ!」

 呆れたようなヒューゲルさんの言葉に今度こそ顔がカッと熱くなり、恥ずかしさのあまり視線がうろうろしてしまった。そんな俺を若干生暖かい目で見たヒューゲルさんが、表情を正してニゲルを見る。

「そろそろ行くか」
「何か新しい情報はありましたか?」
「四ツ脚型が多いようだが、二ツ脚型の目撃情報もちらほらあるな」
「少し厄介になってきましたね」
「まぁ、現れたらそのときだ」
「ですね」

 ニゲルとヒューゲルさんが話しているのは、街の近くで見かけるようになった魔獣についてだろう。ヒューゲルさんが見ていた紙は目撃情報をまとめたもので、今日はその情報を元に街の周辺を見回るのだとニゲルが話していた。

「行こうか」
「はい」

 ヒューゲルさんの言葉で立ち上がったニゲルを見上げる。
 おそらく俺は少しばかり不安な顔をしていたのだろう。にこりと笑ったニゲルは「大丈夫ですよ、行ってきます」と言い、ヒューゲルさんと連れ立って出て行った。
 ドアが閉まるのを見てから、そっと受付台のほうを見る。そこにはドアをジッと見つめるアイクの姿があり、気のせいでなければ少し不安そうな顔をしているように思えた。

(本当に好きなんだな)

 いまの顔を見れば、俺にもアイクがヒューゲルさんに恋をしていることがわかる。まったく気づかなかったのは、日中のアイクを見ていなかったからかもしれない。

(ヒューゲルさんのほうはどうなんだろう)

 何度か今日のように酒場にいるヒューゲルさんを見たが、アイクほどわかりやすい表情はしていなかった。かといってアイクに関心がないわけではなく、ほかの人よりも気にしているように見える。
 ただ、それが恋なのか優しさからくるものなのか俺にはわからなかった。そういうこともあって、ついヒューゲルさんを見てしまっていたのだ。

「ヒューゲルさんにも、大切な人ができるといいな」

 ……そんなことを俺が思うのもおかしな話だけれど。
 俺はコーヒーのおかわりをもらい、ヒューゲルさんが置いていった魔獣の目撃情報一覧に目を落とした。


 ++++


 ニゲルたちが数人の冒険者たちと見回りに出てから、小一時間ほどが経っただろうか。
 いつもと変わらない賑わいを見せる酒場と、以前よりも増えた依頼書を見るために大きな掲示板の前に集まる冒険者を何とはなしに見ていた俺の耳に、叫び声のようなものが聞こえてきた。
 おそらく建物から少し離れた場所からの声だろう。悲鳴のような、でもそれだけではない声に胸がざわりとした。

(前にもこういうことがあったな)

 あのときは、毒に侵され瀕死になっていた冒険者がギルドの前に倒れていた。

(まさか、また……?)

 そう思いながら立ち上がったとき、大きな音を立ててドアが開いた。

「西の入り口に魔獣が現れた!」

 走り込んできた冒険者の声に、ギルドにいた人たちも酒場の人たちも一瞬にして静かになる。直後、ざわめきが一気に大きくなった。

「ケガ人がいる! 白手袋はいないか!?」
「今日は見てないぞ!」
「回復薬ならここに……!」
「それじゃ間に合わない!」

 続けてドアから入ってきた弓術士が白手袋を求める大声をあげる。相変わらずサウザンドルインズを訪れる冒険者に白手袋はほとんどいないため、俺が見かけたのも五日前が最後だった。

「あの、僕でもいいですか」

 大声が飛び交い武具の音が鳴り響くなか、凛とした声が聞こえてきた。驚いて受付台を見れば、アイクがすっくと立ち上がっている。

「僕は以前、白手袋でした。どのくらい役に立てるかわかりませんけど、僕でよければ行きます」
「頼む! 薬学士では間に合わないんだ!」
「はいっ」

 勢いよく受付台から飛び出したアイクに驚きつつ、すぐさま俺も後を追った。俺は正式な白手袋にはならなかったが、もし解毒が必要ならきっと役に立つ。
 それにアイクのことも心配だった。アイクは言われれば素直に従い、多少無理をしてでもがんばろうとする傾向がある。それは彼の美徳ではあるだろうが、こういう緊急事態のときに自分の限界を考えず突っ走ってしまう可能性が高い。ギルドの先輩としても見過ごすことはできなかった。

 向かった西の入り口の近くに、数人の冒険者が倒れているのが見えた。遠目で見た限りでは、近くに魔獣の姿はない。入り口から少し離れたところに光るもの、つまり魔獣石が見えるから、すでに討伐は終わったのだろう。

「こいつの傷が一番ひどい! こっちから頼む!」
「はいっ」

 呼ばれたアイクが出入り口まで走った。
 倒れている人たちの傷は、すべて爪で抉られたもののようだ。血の色から毒ではなく裂傷だけだとわかり、少しだけホッとした。
 大きな傷でも毒に侵されていなければ、治療の時間を稼ぐことができる。止血すれば死に至る可能性はグッと低くなり、完全回復しなくても手当てをしてから薬学士のところへ運ぶことも可能だ。

 出入り口に近いところで倒れている拳闘士が一番の深傷を負っているようだが、アイクに任せれば大丈夫だろう。先日、アイクから「傷の治療は得意なんですけど、ほかがうまくできなくて」と聞いた。それなら魔獣の爪による傷でも治療できるだろうし、俺はほかの怪我人の止血をすることにした。

「ハイネさん、」
「シッ、声を出すと傷に障るから」
「……っ」
「本当は治癒できるといいんだけど、俺は治癒魔術が使えないんです」

 それでも止血くらいはと、修行中のことを思い出しながら傷を塞ぐ魔術を試みた。
 傷口を塞ぐだけでは治癒にはならないが、それでも出血がなくなれば体力を保てる。あとは薬学士のおじいさんに任せるしかない。
 一人目の傷を塞ぎ、二人目の傷に手を当てる。少し目眩がしたが、グッと唇を噛んで体内の魔力を右手に集めた。

(傷を塞ぐ魔術なんて、初歩中の初歩なのに)

『解毒だけじゃなぁ』

 不意に懐かしい声が脳裏をよぎった。これは憧れの人に言われた言葉だ。
 もし俺が解毒だけじゃなく治癒も回復も使えたなら、そばにいられたのだろうかと何度も思った。白手袋の魔術士になり冒険者になれば、俺を一緒に連れて行ってくれるだろうかと、修行をしながら考えたりもした。

(……こんなときに、思い出す、なんてね)

 頭を振り、目の前の傷を塞ぐことに集中する。
 そうして二人目の傷をなんとか塞いだとき、耳障りな金属音と「下がれ!」と叫ぶ男たちの声が聞こえてきた。入り口のほうを見ると、毛玉のようなものが入り口に向かって近づいている。

「あれは……」

 真っ黒い毛に揺れる長い尻尾、赤い小粒の目に前歯が長いその姿は、魔獣の森で見かける鋼鼠スチールラットだ。そういえばヒューゲルさんが見ていた魔獣一覧にも名前が載っていたことを思い出す。

鋼鼠スチールラットにしては、大きいな……」

 鋼鼠スチールラットはAランクでも下位のほうで、世界中で目撃される一般的な魔獣だ。
 ほとんどは小型犬くらいの大きさで、十匹前後の群れで生活している。動きは素早いものの攻撃力はさほどでもなく、群れで現れることから一度にたくさん討伐できるため、ランクアップを目指すブロンズランクの冒険者たちからは格好の標的にされていた。
 しかし、目の前の鋼鼠スチールラットは通常のものより数倍は大きい。ただ大きいだけならどうということもないが、気になるのは長い尻尾にある毒だった。

(体が大きいということは、毒性が強まっている可能性もあるな)

 通常の鋼鼠スチールラットは毒性が低く、道具屋が扱う解毒薬でも十分に対応できる。だから初心者にも標的にされるのだが、厄介なのは尻尾が金属のように硬いことだった。
 小さければ問題ないものでも、体が大きくなれば十分な凶器になる。少し揺れるだけで耳障りな金属音を立てるくらいだから、より硬くなっているのだろう。ということは、毒が強まっているかもしれないということだ。冒険者たちに緊張が走ったのは、俺と同じことを考えたからに違いない。

「おい、早く下がれ!」
「あと少し、なんですっ」
「誰か担げないのか!」
「だめですっ。いま動かしたら、また出血してしまいますっ」

 入り口の近くでは、地面に倒れたままの拳闘士をアイクが必死に回復していた。地面に広がる血の量から危険な状態だろうことがわかる。そんな状態の体を動かしながら回復するのは、手練れの白手袋でもなければ難しい。
 だからアイクは動かすなと言ったのだろうが、巨大な鋼鼠スチールラットはそんな二人を目指すように近づいていた。

「急げ!」

 そう叫んだ剣士が走りながら大剣を振るった。もともと動きの早い鋼鼠スチールラットだからか、大きな体でもひょいと剣を避けて少し距離を取る。
 怪我人を動かせないのなら時間を稼ぐしかない……、そう剣士が考えていることは周囲にも伝わったようで、短剣を構えた剣士が横につき、少し離れたところには矢を構える弓術士が立った。

 急ぐのなら傷を塞ぐ手助けをしたほうがいいと判断した俺は、傷の塞がった二人目を近くにいた冒険者に託し、急いでアイクのもとへと走った。近づく俺に気づいたアイクが、額に汗を滲ませながらも碧眼を俺に向けほんの少し微笑んだ――その後方で、黒い塊がグワッと膨れ上がったのが見えた。

「な……っ」

 膨れ上がったように見えたのは、鋼鼠スチールラットの群れだった。それも十匹どころではない数が湧き出るように向かってくる。なかには通常のものより明らかに大きな個体が何匹か見えた。

「危ない!」
「この数じゃ散らしきれないぞ!」
「誰か応援を呼んでこい!」
「早く門を閉じろ!」

 あちこちで怒号が飛び交い、入り口から離れたところにいた冒険者たちが一斉に鋼鼠スチールラットへと向かった。しかし次々に現れる数に圧倒され、冒険者と魔獣が入り乱れる状態になってしまった。
 これでは毒を持つ尻尾を避けるのも難しく、きっと何人かは刺されてしまうに違いない。いまのうちに解毒薬を用意しなければ、そう思って後ろにいる誰かに頼もうとしたとき、目の端に巨大な黒い塊が映った。

 それはビロードのように滑らかな毛で、そこから伸びる手足がやけに小さく見えるのは本体の毛玉部分が異様に大きいからだろう。毛玉から伸びる尻尾が、太陽に照らされて硬質な光を放っている。尻尾の先は矢尻のように鋭く尖り、青紫色の液体を垂れ流していた。

 ギラリと光った尻尾の先が、目の前で回復を続けていた小柄な体に突き刺さった。背中に食い込んだ尻尾が、どくりと脈打つように動く。続けて、どくりどくりと尻尾の根元から先端に向かって動いた。

「アイク!」

 咄嗟に小柄な体を抱きしめ、硬い尻尾をなぎ払った。ずるりと抜けた尻尾の先からは、さらに多くの禍々しい液体が流れ落ちている。
 青紫色の液体を撒き散らしながら硬い尻尾がしなるように揺れ、今度はアイクを抱きしめる俺の左肩に突き刺さった。

「……っ!」

 ドクンと心臓が鳴り、次の瞬間、尋常じゃない痺れが肩を襲った。いや、痺れではなく痛みかもしれないが、あまりの衝撃にどちらか判断できなかった。
 痺れと衝撃に揺れた肩に、今度はどくりと何かを注入されるような感覚が走る。おそらくアイクの背中で見たように、尻尾から毒を注ぎ込まれているのだろう。
 鋼鼠スチールラットは獲物に毒を注入し、痺れさせたところで捕食する魔獣だ。通常の鋼鼠スチールラットなら刺された部位が痺れるくらいだが、巨大な個体の毒となるとどうなるかわからない。刺されたところだけでなく全身に痺れが回れば、いつかは心臓にも届いてしまう。心臓が痺れて止まれば――すなわちそれは“死”ということだ。

「ハイネ!」
「ハイネさん!」

 少しぼんやりしてきた耳に、何人もの俺の名前を呼ぶ声が聞こえた。

(……まだ、大丈夫)

 耳が聞こえるということは意識があるということで、それなら魔術を使うこともできる。

「ハイネさん!」

 誰かの手がアイクを抱えようとするのを、必死に止めた。

「早く解毒しないと!」
「わか、てる、」

 解毒なら、俺ができる。どのくらいの毒性かわからないが、女王蜂の毒クイーンズポイズンよりは軽いだろう。それなら……。

「……っ」

 刺された左肩に魔力を集中させ、解毒の魔術を発動させた。手のひらを当てるよりも効果は微量だが、なんとかなる。

「肩を、縛って、」

 俺の言葉を正確に理解してくれたらしい冒険者が、刺された箇所を布できつく縛ってくれた。これで体内に流れ込む毒の量を物理的に減らすことができるから、微量の解毒魔術でも間に合うはずだ。

 抱きしめていたアイクを抱え直し、俺の右肩に顎を載せた。そのままぐったりとした頭を肩で固定し、血の流れ出ている背中に右の手のひらを当てる。
 刺されたときの尻尾の動きから考えると、相当量の毒を流し込まれたはずだ。急がなければ全身に毒が回ってしまうかもしれない。
 手のひらに集中し、魔力を一気に解毒魔術に転換する。

「……っ」

 久しぶりに無茶をするからか、頭の芯が焼き切れそうになった。それでも解毒魔術を止めるわけにはいかない。
 あの大きな鋼鼠スチールラットが、またいつこちらに向かってくるかわからない。いまはほかの群れと一緒に冒険者たちが押し留めているが、圧倒的な数にまた押し返されてしまうこともあり得る。その前にできるだけ解毒し、早くアイクを運ばなければ。

「……、……っ」

 早く、しかし取りこぼしがないように毒を追っていく。同時に自分の左肩の解毒も少しずつだが進める。

(師匠に、複数箇所を同時に解毒する方法を聞いておいて、よかった)

 目尻に皺を寄せながら、優しく微笑む師匠の顔を思い出した。つまらない理由で白手袋を諦めた俺を、最後まで何も言わずに見守ってくれた母のような人だった。
 その隣で笑う黒髪碧眼の男まで思い出してしまい、頭痛とは別の不快感で眉が寄ってしまう。

(いまは、余計なことは考えないようにしないと)

 ただでさえ魔力も集中力も、とんでもないくらい必要なことをしている最中だ。
 グッと目を閉じ、手のひらに魔力を集め続ける。こめかみを流れ落ちる汗と、武具の音や鋼鼠スチールラットの鳴き声を遠くに感じながら、ただひたすら解毒を続けた。
 そのうち、周囲が少しずつ静かになっていくような感覚になった。もしかして集まった冒険者たちが鋼鼠スチールラットを駆逐できたのだろうか。それにしては、冒険者たちの声もほとんど聞こえない。

(……もう少し、あと少しで、全部……)

 まるで静寂に包まれているような感覚のなかで、最後の毒を俺の魔力で喰らい尽くす。

「ハイネさん!」

 静寂の中で、不意に俺を呼ぶ声が聞こえた。直後に腕を掴まれ、暖かい感触に包まれる。
 腕にあったアイクの熱が離れたことに焦ったが、「アイクは大丈夫です」という、やっぱり聞き馴染んだ声にホッとし、ゆっくりと瞼を開けた。

「ハイネさん」

 目に映った黒髪にドキッとしたが、そのあと見えた灰青色の眼差しに体から一気に力が抜ける。

「お疲れ様でした」
「……ん、」

 心地よい声にまたホッとし、重くなった瞼をゆっくり閉じた。
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