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番外編・遠い街で2

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 ルヴィニがキュマの花嫁になって半年が過ぎた。その間、キュマは一度もルヴィニに触れていない。同じ屋敷に住み毎日顔を合わせているものの寝室は別で、番としての行為を求められることもなかった。

(こんな状態で本当にいいのかな)

 最近ルヴィニが思うのはそのことばかりだ。
 狼族は子を作るために兎族を番にする。とくに名家の狼族は自分の血を残すことが重要で、そのために月の宴を開いてよりよい兎族を求めるほどだ。それなのに、まだ一人の子もいないキュマはルヴィニを抱くこともなく正式な番にしようともしなかった。

(前の番が忘れられないって言っても、子がほしいから月の宴に参加したんだろうし……)

 それなのに行為がない。それでは子はできない。

(……もしかして、僕じゃ駄目なんだろうか)

 ふと浮かんだ考えにルヴィニは眉尻を下げた。自分から拒絶してきたというのに、半年経っても触れられないことに不満のようなものが少しずつ溜まっていく。
 だからといって自分から行為を強請ることはできなかった。長く蒼灰そうはいの君の花嫁候補になる兎族だと言われてきたからか、狼族に媚びるようなことはどうしてもできない。

(そもそも、される側はちょっと怖いっていうか……)

 ルヴィニは適齢期になる前からリトスに思いを寄せてきた。そのとき抱いたのは雄としての欲望だった。
 そのせいか、自分が種を受ける側になる想像がどうしてもできない。それでも蒼灰そうはいの君の花嫁になり子を生もうと思えたのは、それがリトスとずっと一緒にいられる最善の方法だと信じていたからだ。

(……リトス、すごく綺麗になってた)

 二度目の月の宴で見たリトスは、ルヴィニが知っている姿とは大きく違っていた。可愛かった顔はますます愛らしくなり、どこか自信がついたような眼差しからは凜とした美しさを感じた。おどおどした姿もなく、しっかり前を向く様子はすべてが綺麗で眩しかった。

(リトスが綺麗になったのは、きっと蒼灰そうはいの君のおかげだ)

 そう思うと胸がぎゅっと切なくなる。自分はただリトスを追い詰めていただけだったのだと痛感させられ苦しくなった。苦く重い気持ちがグルグルと体の中を駆け巡り体まで重くなっていく。

「こんな僕は狼族の花嫁にふさわしくない」

 声に出すと本当にそう思えてきた。だから何もかもお見通しのキュマは触れることさえしないのだろう。
 初夜の日、寝室にやって来たキュマはベッドに腰掛けるルヴィニに近づくと、ポンと頭を撫でて「ゆっくり休みなさい」とだけ告げて出て行った。それ以来、寝室にやって来ることはない。

(もう、花嫁として見ていないんだろうか)

 月の宴で与えられた兎族だから面倒を見ているだけかもしれない。たしかに子を生まなくても花嫁は一生大事にされると言われているが、自分は既にそういう花嫁になってしまったのかもしれない。
 ルヴィニは胸がギリギリと痛むのを感じた。拒絶していたのは自分のほうなのに、触れようとしないキュマに苛々するような、それでいて悲しいような複雑な気持ちになる。

(僕はどうしてここにいるんだろう)

 夕日に眩しい海を見ながらそんなことを考える。このままでも自分や両親が困ることはない。それなのにモヤモヤとしたものが段々と色濃くなっていく。

「わたしの花嫁は、また泣いているのかな」

 朝と同じように声をかけられた。背後に立つキュマの気配に胸がぎゅっと苦しくなる。

「泣いてなんかいません」

 つい、いつものようにぶっきらぼうに答えてしまった。すぐに「しまった」と思ったものの、言い繕うこともできない。自分は誰よりも優れた花嫁候補だったんだという自尊心がどうしても態度を硬くしてしまう。

「おや、また一段とご機嫌斜めのようだね」
「そんなことありません」
「不機嫌そうな顔も美しいけれどね」
「……そんなの」

 嘘に決まっている。僕は綺麗じゃない。本当に綺麗なのはリトスのほうだ。アフィーテだから誰もちゃんと見なかっただけで、昔からリトスのほうが自分よりもずっと綺麗だった。それに比べてこんな汚い中身の自分が綺麗なはずがない。

「どんな表情でもおまえは美しい。美しくて愛しいわたしの花嫁だよ」

 花嫁と口にするキュマの穏やかな声に胸が詰まる。

(そんなこと言って、僕に触れることすらしないくせに)

 キスどころか手を繋ぐことすらしない。促すように腰に回る手も触れるか触れないかといった具合だ。それなのに「花嫁」だなんて、口先ばかりじゃないか。
 ルヴィニは胸の中で散々文句を並べ立てた。自分から拒絶したことなど忘れたかのように次々と不満が首をもたげる。睨みつけるように見ていた海が段々と滲み、瞬きすれば涙がこぼれ落ちそうな状態になっていた。

「ほら、やはり泣いている。さぁ、部屋に戻ろう。そろそろ海風が冷たくなる」

 いつもなら不満たらたらでも言葉には従っていた。それなのに今日はどうしても足が動かない。キュマの顔を見たくなくて、海のほうに体を向けたまま視線を落とし唇をきゅっと噛み締めた。

「ルヴィニ?」

 優しい声で名前を呼ばれて、ついに涙がぽろりとこぼれ落ちた。そのせいか胸につかえていた気持ちが弾け飛びそうになる。駄目だと思っているのに、気がつけば「美しいなんて」と口を開いていた。

「そんなの、嘘です」
「嘘じゃない。おまえは美しいよ」
「それなら……っ。どうして僕に触れないんですかっ。毎日花嫁だって口にするくせに、キスすらしないじゃないですかっ。夜だって、あの日以来来たこと、ないくせに……っ」

 言っていることが滅茶苦茶だということはルヴィニにもわかっている。最初に拒絶したのは自分のほうだとわかっているのに言葉が止まらない。
 両手で顔を覆い嗚咽を漏らした。小刻みに肩を震わせるルヴィニの頭を、温かくて大きな手が優しく撫でる。それさえも同情のように感じたルヴィニの目から、ますます涙がこぼれ落ちた。

「どうか泣かないでほしい。おまえがそんなことを考えていたなんて思いもしなかったよ。それに、おまえはわたしに触れられたくないんじゃないのかい?」

(やっぱり気づいてたんだ)

 拒絶していたのは最初の二カ月ほどだったが、キュマはそれをずっと気にかけていたのだろう。それなのに自分は文句を言ってしまった。

(最悪な花嫁だ)

 こんな自分を花嫁にし続けたいと思うはずがない。きっとこのまま子を生まない花嫁として遠ざけられるに違いない。

(そんなの……そんなの……っ)

 震えるルヴィニの肩をキュマがそっと撫でる。

「わたしはおまえを無理やり番にするつもりはない。もはや子を得たいという欲もそれほど持っていないしね」

 嘘だ。ルヴィニはそう思った。子がほしくないなら月の宴に参加するはずがない。

『子がいなくても年の離れた弟が子だくさんだからいいんだよ』

 そう言って微笑んでいたキュマを思い出す。しかしルヴィニにはオレンジ色の瞳に寂しさのようなものが見え隠れしていたように感じられた。

「……僕の、せいですよね……? 僕が最初に、嫌だって思ったから……だから、番にしてくれないんですよね……?」

 気がつけばそんな言葉が口を突いていた。自尊心だの何だといったものはすっかり崩れ落ち、求められない苦しさにルヴィニの胸がキリキリと締めつけられる。

(僕はなんて愚かで我が儘なんだ)

 初めてそう思った。こんな自分を求めてくれる人がいるわけないと思い、「だからリトスも離れていったんだ」とますます苦しくなる。

「ルヴィニ」

 名前を呼ばれ、体をくるりと回された。覆っていた両手を離し顔を上げる。そこにはいつもと違う雰囲気をしたオレンジ色の目があった。あまりに強い視線に、ルヴィニは思わず「ひっ」と身をすくめてしまった。

「さて、どうしたものだろうね。こうまで言われては応えてあげたくなるが……」

 キュマの指が目尻を撫でる。その感触にルヴィニの耳がふるっと震えた。

「おまえは本当にわたしの番になりたいと思っているのかい? 寂しさのあまり、心に想う人の代わりを求めて番になりたいと口にしているんじゃないかい? もしそうだとしたら、つがった後のほうがつらくなるよ?」

 そう言って頬を撫でる手に「やっぱりキュマ様は優しい」と目尻を下げる。
 両親はルヴィニが何か言えばすぐに叶えてくれた。ルヴィニがリトスにつらく当たるようになると、機嫌を損ねないようにするためかリトスを遠ざけるようにもなった。周囲の兎族たちも「名家の花嫁候補だ」ともてはやし、そうした生活が十歳になる前から続いていたルヴィニは高慢で我が儘に育っていった。
 そんなルヴィニにも遠慮なく言葉をかけたのはリトスだけだった。そのリトスも次第に何も言わなくなった。そして二度と手の届かないところに行ってしまった。
 そんな一人ぼっちのルヴィニの側には、もうキュマしかいない。

(僕は、キュマ様のことをどう思っているんだろう)

 花嫁に選ばれたときは何も思っていなかった。リトスのことばかり考え、だから拒絶した。しかし最近はキュマのことばかりが頭に浮かぶ。花嫁に選ばれたのにこのままでいいのだろうか思うことが増えてきた。

(……好き、なんだろうか)

 そう思った途端に服の中に仕舞ってある尻尾がぶわっと膨らんだ。ピンと立った耳がピクピクッと震える。

「僕は……」
「無理しなくていい。寂しいというのなら、話し相手になる兎族を連れて来てやろう」

 キュマの言葉にドキッとした。

(それって、新しい花嫁を迎えるってことじゃ……)

 そう思った途端に怒りにも似た感情が膨れ上がった。「僕以外の花嫁がキュマ様の側にいるなんて」と体が熱くなる。

「そんなのいりませんっ」
「しかし」
「僕にはキュマ様がいますっ」

 気がつけば目の前の体に抱きついていた。

「お願いだから……っ、僕をいらないなんて、言わないで……っ」
「ルヴィニ、落ち着いて」
「お願いだから……っ、僕を、捨てないで……っ」

 ルヴィニは生まれて初めて孤独になる恐怖を感じた。誰にも必要とされなくなることに怯え、初めて誰かに縋りついた。

「お願い、だから……」
「しかし、おまえはわたしを好いているわけではないだろう?」
「そ、れは……」

 言葉が詰まる。キュマを好きかと尋ねられても自分でもよくわからない。ただ、優しいこの手がなくなることが怖かった。この手で他の兎族に触れるのかと思うと嫌でたまらなかった。

「……でも、僕は他の兎族がこの屋敷に来るのは嫌です。話し相手なんかいりません。キュマ様がいれば、僕はキュマ様と、いままでと同じように過ごしたいんです」
「いままでと同じように?」
「同じ、ように……」

 違う、そうじゃない。本当はわかっていた。これは兎族の本能のせいかもしれない。それでもいい。自分はこの狼族とつがいたいと思っているのだ。だから花嫁として求められないことが気になって、同じくらい不安になって仕方がなかった。
 ルヴィニはそのことにようやく気がついた。

(僕の全部をキュマ様のものにしてほしい)

 体の奥が熱くなる。腹部の奥がチリチリと燃えるように熱い。そこを埋めてほしいと体中がざわめいた。

「キュマ様、どうか僕を……番にしてください」

 顔を上げてそう口にした。尻尾がフルフルと震え鳥肌が立つのを感じながらも、必死にオレンジ色の目を見つめる。
 そんなルヴィニにキュマがふっと表情を和らげた。いつものように微笑み、しかしどこか違う雰囲気を漂わせる。

「熱烈な告白に年甲斐もなく興奮してしまったよ。本当にかまわないんだね?」

 赤毛を揺らしながら大きくゆっくりと頷く。

「わかった。おまえが望むのならそうしよう。いや、わたしもそうしたいとずっと願っていたんだ。さぁルヴィニ、おいで。私の愛しい花嫁、これからおまえを番にすることにしよう」

 そう言って大きな手が差し出された。ためらいながらも伸ばしたルヴィニの手は、ほんの少しだけ震えていた。

(僕が、キュマ様の番になる)

 そう思うだけで手どころか耳も震えてしまう。それでも赤く染めた目元でしっかりとキュマを見つめるルヴィニからは、わずかに狼族の鼻をくすぐる匂いが漂っていた。
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