12 / 35
12 新生活
しおりを挟む
リトスの一日は、以前より少しだけ早く起きて爆発したような淡い茶毛の髪を何とかするところから始まる。ここまでは以前と同じだが、垂れ耳を隠すための布を巻くことはなかった。「隠す必要はないよ」とクシフォスが言ったからで、理由はクシフォスとアスピダ以外の誰とも顔を合わせることがないからだ。
身支度を整えたら、次に目覚めのお茶の準備をする。ポットに注いだ熱々のお湯の中で茶葉が揺れるのを確認してからクシフォスを起こすのが最初の仕事だ。そして、これがもっとも困難な仕事でもあった。
(まさか、こんなに朝が弱い人だったなんて)
初対面のときはたまたま目が覚めていただけだったらしい。翌日からは何度声をかけても起きてくれず、それは数日経ったいまも変わらなかった。
主の寝室に入り、カーテンを開けながら様子を伺う。朝陽が顔に当たっても気にならないのか、麗しい顔が目覚める気配はまったくない。
「クシフォス様、起きてください」
ベッドの側に立ってそう話しかけるが「ん~、もうちょっとだけ」と言って起きようとしない。
「駄目ですよ。今日は絶対に起こすようにとアスピダ様に言われているんです」
「じゃあ……アスピダが来るまで……」
「クシフォスさ、……っ」
急に伸びてきた手に腕を掴まれ、あっという間にベッドに引き込まれてしまった。そのまま抱きしめられて身動きが取れなくなる。
リトスは内心焦っていた。主を起こすのが仕事なのに失敗するなんて許されるはずがない。それどころか主のベッドに横たわるなんてもってのほかのはずだ。
「クシフォス様、起きてくださいっ」
「ん~、あとちょっと……」
「クシフォス様っ」
また寝入りそうな雰囲気に慌てて顔を上げた。
「……っ」
思ったよりも近いところにある美しい顔に、リトスは思わず息を呑んでいた。あっという間に鼓動が早まり、すよすよと額に当たる寝息にじわじわと顔が熱くなる。それでも酒場で感じたような恐怖や嫌悪感は湧かなかった。
(もしかして雌っぽく感じるからかな)
なぜ雄であるクシフォスにそう感じるのかリトスにはわからない。ただ、そのおかげで怖くないのかもしれないとは思っていた。
(それに、クシフォス様の腕はすごく優しくて温かいんだ)
つい、小さい頃のことを思い出してしまった。
当時から小柄だったリトスは、それでも兄だからとよくルヴィニを抱きしめていた。きゅっと腕の中に閉じ込めると綺麗な赤毛の耳がピクピク動き、それを見るのが何より好きだった。自分より温かい体と寝息を感じながら寝るのが好きだった。
(……何だか眠くなってきた)
幸せだった頃を思い出したからか、段々と瞼が重くなっていく。久しぶりに感じる穏やかな日々に緊張が解れたのかもしれない。気がつけば紺碧の目はすっかり瞼の奥へと隠れてしまっていた。
どのくらい時間が経っただろうか。不意に「これはまた美しい光景だな」という声でハッと目が覚めた。慌てて頭を動かすと、ベッドの脇でアスピダが微笑んでいる。
「す、すみませんっ」
リトスは慌てて上半身を起こそうとした。ところがクシフォスの腕は意外と力強く、いくら体を動かしても離してもらえない。
「クシフォス様、起きてくださいっ。アスピダ様がいらっしゃいましたよっ」
「ん~……」
「クシフォス様っ」
いくら声をかけても美しい顔は眠ったままだ。主を起こすという仕事さえできないのかと情けなく思いながら、とにかく起こさなくてはと必死にクシフォスの腕を揺らす。そんなリトスにアスピダは「焦らなくていいから」と声をかけた。
「でも、」
「むしろ、いいものを見せてもらったと思っている」
「いいもの……?」
「麗しい我が主と可愛い兎族が寄り添って眠っているなんて、眼福以外の何ものでもないだろう?」
どういう意味がわからず困惑する紺碧の目にアスピダが微笑みかける。
「それに我が主がきみに何かすることは決してないし、きみが主を誘うことがないこともよくわかっている」
「も、もちろんですっ」
慌ててそう答え、必死に体を捩ってクシフォスの腕から逃れた。乱れた髪の毛を整え、垂れ耳の毛を撫でつけながら未だ寝続けているクシフォスを見る。
(クシフォス様は特別な狼族だから、兎族とどうこうなることはないんだ)
そう説明されたのは雇われることが決まってすぐだった。どういうことか具体的にはわからないものの、特別な狼族であるクシフォスは長と同じくらい偉い人なのだという。そして、従者のアスピダと番になるのだということも聞かされた。
(兎族は雄同士でもつがうけど、狼族もそうなんだろうか)
雌雄どちらでも子を生める兎族は雄同士でつがうこともある。雄雌のほうが圧倒的に子が生まれやすいため雄同士というのは多くないものの、珍しいことではなかった。
しかし、狼族はどうだっただろうか。子を作る番としては兎族を選ぶはずだが、それ以外の番というのがいるのかもしれない。あれこれ考えるリトスに、クシフォスは「そのうちわかるよ」と微笑んだ。
(でも、わかる前にお屋敷を出ることになる)
クシフォスは長に近い地位にある。ということは、長の息子である蒼灰の君とも近い関係ということだ。ルヴィニが蒼灰の君の花嫁になれば間違いなく自分のことがルヴィニにも伝わってしまうだろう。そうなる前に出て行かなくてはいけない。
(……わかってる)
華街に行く決意も固まった。それなのに未練がましくこんなふうに屋敷で働いているのは、きっと穏やかなこの生活を失いたくないからだ。
(でも、僕はアフィーテだからここにはいられない)
これは夢なんだと思い、夢は必ず覚めるものだと何度も自分に言い聞かせた。
(月の宴まで、あと少し)
遅くとも宴の日までには出て行かなくては。大丈夫、こんなにもいい思い出ができたのだから僕は華街でもやっていける。
(それまで、もう少しだけ夢を見ていたい)
こうした生活もあと少しの間だけだ。そう思いながら、リトスはまだ眠っている麗しい主に「起きてください」と声をかけた。
身支度を整えたら、次に目覚めのお茶の準備をする。ポットに注いだ熱々のお湯の中で茶葉が揺れるのを確認してからクシフォスを起こすのが最初の仕事だ。そして、これがもっとも困難な仕事でもあった。
(まさか、こんなに朝が弱い人だったなんて)
初対面のときはたまたま目が覚めていただけだったらしい。翌日からは何度声をかけても起きてくれず、それは数日経ったいまも変わらなかった。
主の寝室に入り、カーテンを開けながら様子を伺う。朝陽が顔に当たっても気にならないのか、麗しい顔が目覚める気配はまったくない。
「クシフォス様、起きてください」
ベッドの側に立ってそう話しかけるが「ん~、もうちょっとだけ」と言って起きようとしない。
「駄目ですよ。今日は絶対に起こすようにとアスピダ様に言われているんです」
「じゃあ……アスピダが来るまで……」
「クシフォスさ、……っ」
急に伸びてきた手に腕を掴まれ、あっという間にベッドに引き込まれてしまった。そのまま抱きしめられて身動きが取れなくなる。
リトスは内心焦っていた。主を起こすのが仕事なのに失敗するなんて許されるはずがない。それどころか主のベッドに横たわるなんてもってのほかのはずだ。
「クシフォス様、起きてくださいっ」
「ん~、あとちょっと……」
「クシフォス様っ」
また寝入りそうな雰囲気に慌てて顔を上げた。
「……っ」
思ったよりも近いところにある美しい顔に、リトスは思わず息を呑んでいた。あっという間に鼓動が早まり、すよすよと額に当たる寝息にじわじわと顔が熱くなる。それでも酒場で感じたような恐怖や嫌悪感は湧かなかった。
(もしかして雌っぽく感じるからかな)
なぜ雄であるクシフォスにそう感じるのかリトスにはわからない。ただ、そのおかげで怖くないのかもしれないとは思っていた。
(それに、クシフォス様の腕はすごく優しくて温かいんだ)
つい、小さい頃のことを思い出してしまった。
当時から小柄だったリトスは、それでも兄だからとよくルヴィニを抱きしめていた。きゅっと腕の中に閉じ込めると綺麗な赤毛の耳がピクピク動き、それを見るのが何より好きだった。自分より温かい体と寝息を感じながら寝るのが好きだった。
(……何だか眠くなってきた)
幸せだった頃を思い出したからか、段々と瞼が重くなっていく。久しぶりに感じる穏やかな日々に緊張が解れたのかもしれない。気がつけば紺碧の目はすっかり瞼の奥へと隠れてしまっていた。
どのくらい時間が経っただろうか。不意に「これはまた美しい光景だな」という声でハッと目が覚めた。慌てて頭を動かすと、ベッドの脇でアスピダが微笑んでいる。
「す、すみませんっ」
リトスは慌てて上半身を起こそうとした。ところがクシフォスの腕は意外と力強く、いくら体を動かしても離してもらえない。
「クシフォス様、起きてくださいっ。アスピダ様がいらっしゃいましたよっ」
「ん~……」
「クシフォス様っ」
いくら声をかけても美しい顔は眠ったままだ。主を起こすという仕事さえできないのかと情けなく思いながら、とにかく起こさなくてはと必死にクシフォスの腕を揺らす。そんなリトスにアスピダは「焦らなくていいから」と声をかけた。
「でも、」
「むしろ、いいものを見せてもらったと思っている」
「いいもの……?」
「麗しい我が主と可愛い兎族が寄り添って眠っているなんて、眼福以外の何ものでもないだろう?」
どういう意味がわからず困惑する紺碧の目にアスピダが微笑みかける。
「それに我が主がきみに何かすることは決してないし、きみが主を誘うことがないこともよくわかっている」
「も、もちろんですっ」
慌ててそう答え、必死に体を捩ってクシフォスの腕から逃れた。乱れた髪の毛を整え、垂れ耳の毛を撫でつけながら未だ寝続けているクシフォスを見る。
(クシフォス様は特別な狼族だから、兎族とどうこうなることはないんだ)
そう説明されたのは雇われることが決まってすぐだった。どういうことか具体的にはわからないものの、特別な狼族であるクシフォスは長と同じくらい偉い人なのだという。そして、従者のアスピダと番になるのだということも聞かされた。
(兎族は雄同士でもつがうけど、狼族もそうなんだろうか)
雌雄どちらでも子を生める兎族は雄同士でつがうこともある。雄雌のほうが圧倒的に子が生まれやすいため雄同士というのは多くないものの、珍しいことではなかった。
しかし、狼族はどうだっただろうか。子を作る番としては兎族を選ぶはずだが、それ以外の番というのがいるのかもしれない。あれこれ考えるリトスに、クシフォスは「そのうちわかるよ」と微笑んだ。
(でも、わかる前にお屋敷を出ることになる)
クシフォスは長に近い地位にある。ということは、長の息子である蒼灰の君とも近い関係ということだ。ルヴィニが蒼灰の君の花嫁になれば間違いなく自分のことがルヴィニにも伝わってしまうだろう。そうなる前に出て行かなくてはいけない。
(……わかってる)
華街に行く決意も固まった。それなのに未練がましくこんなふうに屋敷で働いているのは、きっと穏やかなこの生活を失いたくないからだ。
(でも、僕はアフィーテだからここにはいられない)
これは夢なんだと思い、夢は必ず覚めるものだと何度も自分に言い聞かせた。
(月の宴まで、あと少し)
遅くとも宴の日までには出て行かなくては。大丈夫、こんなにもいい思い出ができたのだから僕は華街でもやっていける。
(それまで、もう少しだけ夢を見ていたい)
こうした生活もあと少しの間だけだ。そう思いながら、リトスはまだ眠っている麗しい主に「起きてください」と声をかけた。
50
お気に入りに追加
809
あなたにおすすめの小説
神子は再召喚される
田舎
BL
??×神子(召喚者)。
平凡な学生だった有田満は突然異世界に召喚されてしまう。そこでは軟禁に近い地獄のような生活を送り苦痛を強いられる日々だった。
そして平和になり元の世界に戻ったというのに―――― …。
受けはかなり可哀そうです。
期待外れの後妻だったはずですが、なぜか溺愛されています
ぽんちゃん
BL
病弱な義弟がいじめられている現場を目撃したフラヴィオは、カッとなって手を出していた。
謹慎することになったが、なぜかそれから調子が悪くなり、ベッドの住人に……。
五年ほどで体調が回復したものの、その間にとんでもない噂を流されていた。
剣の腕を磨いていた異母弟ミゲルが、学園の剣術大会で優勝。
加えて筋肉隆々のマッチョになっていたことにより、フラヴィオはさらに屈強な大男だと勘違いされていたのだ。
そしてフラヴィオが殴った相手は、ミゲルが一度も勝てたことのない相手。
次期騎士団長として注目を浴びているため、そんな強者を倒したフラヴィオは、手に負えない野蛮な男だと思われていた。
一方、偽りの噂を耳にした強面公爵の母親。
妻に強さを求める息子にぴったりの相手だと、後妻にならないかと持ちかけていた。
我が子に爵位を継いで欲しいフラヴィオの義母は快諾し、冷遇確定の地へと前妻の子を送り出す。
こうして青春を謳歌することもできず、引きこもりになっていたフラヴィオは、国民から恐れられている戦場の鬼神の後妻として嫁ぐことになるのだが――。
同性婚が当たり前の世界。
女性も登場しますが、恋愛には発展しません。
置き去りにされたら、真実の愛が待っていました
夜乃すてら
BL
トリーシャ・ラスヘルグは大の魔法使い嫌いである。
というのも、元婚約者の蛮行で、転移門から寒地スノーホワイトへ置き去りにされて死にかけたせいだった。
王城の司書としてひっそり暮らしているトリーシャは、ヴィタリ・ノイマンという青年と知り合いになる。心穏やかな付き合いに、次第に友人として親しくできることを喜び始める。
一方、ヴィタリ・ノイマンは焦っていた。
新任の魔法師団団長として王城に異動し、図書室でトリーシャと出会って、一目ぼれをしたのだ。問題は赴任したてで制服を着ておらず、〈枝〉も持っていなかったせいで、トリーシャがヴィタリを政務官と勘違いしたことだ。
まさかトリーシャが大の魔法使い嫌いだとは知らず、ばれてはならないと偽る覚悟を決める。
そして関係を重ねていたのに、元婚約者が現れて……?
若手の大魔法使い×トラウマ持ちの魔法使い嫌いの恋愛の行方は?
完結·助けた犬は騎士団長でした
禅
BL
母を亡くしたクレムは王都を見下ろす丘の森に一人で暮らしていた。
ある日、森の中で傷を負った犬を見つけて介抱する。犬との生活は穏やかで温かく、クレムの孤独を癒していった。
しかし、犬は突然いなくなり、ふたたび孤独な日々に寂しさを覚えていると、城から迎えが現れた。
強引に連れて行かれた王城でクレムの出生の秘密が明かされ……
※完結まで毎日投稿します
貴族軍人と聖夜の再会~ただ君の幸せだけを~
倉くらの
BL
「こんな姿であの人に会えるわけがない…」
大陸を2つに分けた戦争は終結した。
終戦間際に重症を負った軍人のルーカスは心から慕う上官のスノービル少佐と離れ離れになり、帝都の片隅で路上生活を送ることになる。
一方、少佐は屋敷の者の策略によってルーカスが死んだと知らされて…。
互いを思う2人が戦勝パレードが開催された聖夜祭の日に再会を果たす。
純愛のお話です。
主人公は顔の右半分に火傷を負っていて、右手が無いという状態です。
全3話完結。
【第1章完結】悪役令息に転生して絶望していたら王国至宝のエルフ様にヨシヨシしてもらえるので、頑張って生きたいと思います!
梻メギ
BL
「あ…もう、駄目だ」プツリと糸が切れるように限界を迎え死に至ったブラック企業に勤める主人公は、目覚めると悪役令息になっていた。どのルートを辿っても断罪確定な悪役令息に生まれ変わったことに絶望した主人公は、頑張る意欲そして生きる気力を失い床に伏してしまう。そんな、人生の何もかもに絶望した主人公の元へ王国お抱えのエルフ様がやってきて───!?
【王国至宝のエルフ様×元社畜のお疲れ悪役令息】
▼第2章2025年1月18日より投稿予定
▼この作品と出会ってくださり、ありがとうございます!初投稿になります、どうか温かい目で見守っていただけますと幸いです。
▼こちらの作品はムーンライトノベルズ様にも投稿しております。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる