上 下
25 / 30

25 竜妃様の教育

しおりを挟む
 紅花ホンファさんが応竜宮に来てから毎日が少しずつ変わり始めている。一番変わったのはわたしの食事だけれど、虹淳コウシュン様の日常も変わりつつあった。

「今日はこちらの文字を覚えましょうか」

 そう言って紅花ホンファさんが取り出したのは、虹淳コウシュン様の部屋にあった一冊の書物だ。部屋の棚には結構な数の書物が置いてあるけれど、これまで飾り同然だったそれらがいまでは虹淳コウシュン様とわたしの字の先生になっている。

(そういえば竜妃様のことが書かれた書物もあるんだったっけ)

 棚の書物を全部確認した紅花ホンファさんがそんなことを話していた。中身のことは詳しく聞いていないけれど、どうせ大したことは書かれていないに違いない。皇帝陛下の話では竜妃様に関わるものは禁書になっているそうだし、言い伝え程度の内容だから部屋に置いたままなのだろう。
 そうした書物が置いてあるのも、ここが竜妃様の部屋だからに違いない。「大した内容じゃなくても、いつか読んでみたいなぁ」なんて思いながら紅花ホンファさんが開いたページをじっと見る。

(これに書かれてるのはわらべ歌だって話だけど、字だとそんなふうには思えないんだよね)

 細長い虫が紙の上をうねっているようにしか見えない。わらべ歌を知っているわたしでも字と音を組み合わせて覚えるのが大変なのだから、歌すら知らない虹淳コウシュン様はもっと大変だろう。

(……と思ってたんだけど)

 チラッと隣を見た。毎日煮卵の絵を描いていた虹淳コウシュン様はすっかり筆使いに慣れたらしく、すらすらと字を書き写している。どうやら真似るのも得意なようで、お手本そっくりの字を書いていた。そんな虹淳コウシュン様の様子に若干の焦りを感じながら、わたしも負けじと手本の字を見ながら何とか筆を動かす。

虹淳コウシュン様は真似るのがお上手ですね」

 紅花ホンファさんの言葉に虹淳コウシュン様の手が止まった。

「……そう?」
「えぇ、それに大変よい筆運びだと思います」
「……そう」

 嬉しそうな声に再び視線を向けると、完璧な美少女の白い頬が赤くなっている。手元を見れば、すでに次のページの字を書き写しているところだった。思わず「虹淳コウシュン様はすごいですね」とつぶやくと、「阿繰あくりも悪くないわよ?」と紅花ホンファさんが褒めてくれる。

「……どうも」
「お世辞じゃないわよ。わたしが初めて字を学び始めたときよりもずっと上手だわ」

 そう言って微笑む紅花ホンファさんは、すっかり憑き物が落ちたような穏やかな表情をしていた。「吹っ切れたのならいいんだけど」と思いながら視線を落としたところで、手本の書物のそばに「竜」の文字が書かれた書物があることに気がついた。

紅花ホンファさん、その書物も読んだんですか?」
「えぇ」
「その書物に竜妃様は食事を取らなくていい、みたいなことって書かれてませんでした?」
「どういうこと?」
「わたしがここに来たとき、そういうことを言っていたので……」

 チラッと虹淳コウシュン様を見る。相変わらずわたしたちの会話に興味がないのか、ひたすら筆を動かしているだけで顔を上げることもない。

「食事のことは書かれていなかったけれど、宝珠の話なら書いてあったわ」
「ほうじゅ」
「えぇ。宝の珠と書いて宝珠。竜が持つ尊い珠のことよ」

 そう言いながら紅花ホンファさんが書いてくれた字をじっと見た。宝という字は行商人がよく使っていたから知っている。珠という字は初めて見たけれど覚えられそうだ。

「宝珠は竜にとって宝と呼ぶべきもの、そんなふうに書いてあったわ」
「そうですか」

 てっきり書物に食事のことが書いてあるんだと思っていた。それを掃除に来た侍女が読み、虹淳コウシュン様に伝えたのだと思っていたけれど違うのだろうか。

(そっか、侍女が虹淳コウシュン様と話すことなんてないか)

 たとえ姿を見かけても幽霊と思っているものに話しかける下女や侍女がいるとは思えない。それなら誰があんなことを虹淳コウシュン様に言ったのだろう。筆を止めたままあれこれ考えていると、虹淳コウシュン様が「宝珠」と口にした。

「宝珠、ここにある」

 そう言って以前と同じように胸の辺りを指さしている。

虹淳コウシュン様は竜妃様でいらっしゃいますから、宝珠をお持ちなのですね」

 虹淳コウシュン様の正体を知っている紅花ホンファさんは、驚くことなく虹淳コウシュン様に微笑みかけた。さすがは上級侍女、驚いたのは弘徳こうとく様の説明を聞いた最初だけで、いまではすっかりすべてを承知している。

(やっぱり違うんだなぁ)

 生まれや育ちがわたしと似ているとは思えない姿だ。それに何も知らない虹淳コウシュン様への接し方もうまい。年は姉と同じ二十一歳と聞いたけれど、姉なんかよりずっとしっかりしているし大人だ。穏やかで優しい口調だからか、虹淳コウシュン様もわたしよりずっと早くに懐いたように見える。

(でもって、それを見た弘徳こうとく様が嫉妬したわけだけど)

 やっぱり弘徳こうとく様はちょっと面倒くさい。そんなことを思っていると、虹淳コウシュン様が「食べたらだめは、竜が言ったから」と口にした。

「え?」
「死にたくないなら、食べるなって」
「ええと、虹淳コウシュン様を竜妃様にした竜が、そう言ったんですか?」

 わたしの問いかけに虹淳コウシュン様がこくりと頷いた。思ってもみなかった言葉に、思わず紅花ホンファさんと顔を見合わせる。

「いまのって、どういうことですかね」
「書物にはそんなことは書かれていなかったけれど」
「食事をしなくても死なないとして、あえてするなと言うのが気になりますよね」
「理由があってそう言ったのかしら」

 首を傾げるわたしたちに「蛇だったから」と虹淳コウシュン様が言った。

「蛇だったから食べてはいけないということですか?」
「蛇だとわかったら、竜が困る」
「あー……もしかして好物を食べて蛇だとばれると困るってことですかね。でも、虹淳コウシュン様は竜の化身なんですよね?」
「本物の竜じゃない。偽物は殺される。そうしたら、次は竜が殺される。それは竜が困る」

 美少女の口から出てくるには物騒すぎる言葉に眉が寄った。いまいち理解できなかったものの、食べなかった原因が竜のせいだということはわかった。
 きっと竜に厳しく言われたに違いない。竜はとても大きいというから、蛇だった虹淳コウシュン様は怯えて従うしかなかったのだろう。運の悪いことに人間側にも竜妃様は何も食べないという話が伝わっていた。そのせいで食事が用意されることがなかったということだ。
 それにしても酷すぎやしないだろうか。竜自身が蛇だった虹淳コウシュン様を竜にしておいて、殺されたくなければ食べるななんてどういうことだろう。眉を寄せていると、紅花ホンファさんが「もしかして契約の話かしら」と口にした。

「契約って、昔の皇帝陛下と竜が交わした契約のことですか?」
「えぇ」

 紅花ホンファさんが正式に侍女になった日、今後のことを考えてと弘徳こうとく様がこれまで確認できた竜妃様に関することを説明した。わたしも隣で聞いていたけれど契約云々のところはよくわからないままだ。そういった部分も紅花ホンファさんは理解しているのだろう。

「竜との契約は絶対に反故にできないそうだから、竜のほうもたがえることができないのかもしれないわ。だから、虹淳コウシュン様が蛇に戻るきっかけになることを禁じたのかもしれないわね」
「そうまでして、竜は虹淳コウシュン様を身代わりにしたかったってことですか」
「そういうことでしょうね」
「どうしてそこまでして……って、そっか。竜妃様になって子どもを生んだら……」
「竜と言えども命は惜しいでしょうから」

 竜妃様は皇帝陛下との間に子どもを作らなくてはいけない。そのための契約だと聞いた。ところが子どもが生まれたら自分は死んでしまう。それを避けるために身代わりを寄越したということなのだろう。
 しかし、それでは虹淳コウシュン様はどうなるのだろうか。虹淳コウシュン様にも宝珠があるということは、子どもが生まれれば死んでしまうということだ。わかっていて身代わりにした竜が段々憎らしくなってきた。

「蛇は保存食。竜の代わりに皇帝に食べられて殺される保存食」

 突然そうつぶやいた虹淳コウシュン様に、わたしも紅花ホンファさんも目を見開いた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

炎華繚乱 ~偽妃は後宮に咲く~

悠井すみれ
キャラ文芸
昊耀国は、天より賜った《力》を持つ者たちが統べる国。後宮である天遊林では名家から選りすぐった姫たちが競い合い、皇子に選ばれるのを待っている。 強い《遠見》の力を持つ朱華は、とある家の姫の身代わりとして天遊林に入る。そしてめでたく第四皇子・炎俊の妃に選ばれるが、皇子は彼女が偽物だと見抜いていた。しかし炎俊は咎めることなく、自身の秘密を打ち明けてきた。「皇子」を名乗って帝位を狙う「彼」は、実は「女」なのだと。 お互いに秘密を握り合う仮初の「夫婦」は、次第に信頼を深めながら陰謀渦巻く後宮を生き抜いていく。 表紙は同人誌表紙メーカーで作成しました。 第6回キャラ文芸大賞応募作品です。

【完結】目覚めたら男爵家令息の騎士に食べられていた件

三谷朱花
恋愛
レイーアが目覚めたら横にクーン男爵家の令息でもある騎士のマットが寝ていた。曰く、クーン男爵家では「初めて契った相手と結婚しなくてはいけない」らしい。 ※アルファポリスのみの公開です。

絶対に間違えないから

mahiro
恋愛
あれは事故だった。 けれど、その場には彼女と仲の悪かった私がおり、日頃の行いの悪さのせいで彼女を階段から突き落とした犯人は私だと誰もが思ったーーー私の初恋であった貴方さえも。 だから、貴方は彼女を失うことになった私を許さず、私を死へ追いやった………はずだった。 何故か私はあのときの記憶を持ったまま6歳の頃の私に戻ってきたのだ。 どうして戻ってこれたのか分からないが、このチャンスを逃すわけにはいかない。 私はもう彼らとは出会わず、日頃の行いの悪さを見直し、平穏な生活を目指す!そう決めたはずなのに...……。

ハズレ嫁は最強の天才公爵様と再婚しました。

光子
恋愛
ーーー両親の愛情は、全て、可愛い妹の物だった。 昔から、私のモノは、妹が欲しがれば、全て妹のモノになった。お菓子も、玩具も、友人も、恋人も、何もかも。 逆らえば、頬を叩かれ、食事を取り上げられ、何日も部屋に閉じ込められる。 でも、私は不幸じゃなかった。 私には、幼馴染である、カインがいたから。同じ伯爵爵位を持つ、私の大好きな幼馴染、《カイン=マルクス》。彼だけは、いつも私の傍にいてくれた。 彼からのプロポーズを受けた時は、本当に嬉しかった。私を、あの家から救い出してくれたと思った。 私は貴方と結婚出来て、本当に幸せだったーーー 例え、私に子供が出来ず、義母からハズレ嫁と罵られようとも、義父から、マルクス伯爵家の事業全般を丸投げされようとも、私は、貴方さえいてくれれば、それで幸せだったのにーーー。 「《ルエル》お姉様、ごめんなさぁい。私、カイン様との子供を授かったんです」 「すまない、ルエル。君の事は愛しているんだ……でも、僕はマルクス伯爵家の跡取りとして、どうしても世継ぎが必要なんだ!だから、君と離婚し、僕の子供を宿してくれた《エレノア》と、再婚する!」 夫と妹から告げられたのは、地獄に叩き落とされるような、残酷な言葉だった。 カインも結局、私を裏切るのね。 エレノアは、結局、私から全てを奪うのね。 それなら、もういいわ。全部、要らない。 絶対に許さないわ。 私が味わった苦しみを、悲しみを、怒りを、全部返さないと気がすまないーー! 覚悟していてね? 私は、絶対に貴方達を許さないから。 「私、貴方と離婚出来て、幸せよ。 私、あんな男の子供を産まなくて、幸せよ。 ざまぁみろ」 不定期更新。 この世界は私の考えた世界の話です。設定ゆるゆるです。よろしくお願いします。

【完結】烏公爵の後妻〜旦那様は亡き前妻を想い、一生喪に服すらしい〜

七瀬菜々
恋愛
------ウィンターソン公爵の元に嫁ぎなさい。 ある日突然、兄がそう言った。 魔力がなく魔術師にもなれなければ、女というだけで父と同じ医者にもなれないシャロンは『自分にできることは家のためになる結婚をすること』と、日々婚活を頑張っていた。 しかし、表情を作ることが苦手な彼女の婚活はそううまくいくはずも無く…。 そろそろ諦めて修道院にで入ろうかと思っていた矢先、突然にウィンターソン公爵との縁談が持ち上がる。 ウィンターソン公爵といえば、亡き妻エミリアのことが忘れられず、5年間ずっと喪に服したままで有名な男だ。 前妻を今でも愛している公爵は、シャロンに対して予め『自分に愛されないことを受け入れろ』という誓約書を書かせるほどに徹底していた。 これはそんなウィンターソン公爵の後妻シャロンの愛されないはずの結婚の物語である。 ※基本的にちょっと残念な夫婦のお話です

毒小町、宮中にめぐり逢ふ

鈴木しぐれ
キャラ文芸
🌸完結しました🌸生まれつき体に毒を持つ、藤原氏の娘、菫子(すみこ)。毒に詳しいという理由で、宮中に出仕することとなり、帝の命を狙う毒の特定と、その首謀者を突き止めよ、と命じられる。 生まれつき毒が効かない体質の橘(たちばなの)俊元(としもと)と共に解決に挑む。 しかし、その調査の最中にも毒を巡る事件が次々と起こる。それは菫子自身の秘密にも関係していて、ある真実を知ることに……。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

処理中です...