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24 新しい侍女
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弘徳様が「ほら見たことか!」とわたしを睨んだ。わたしのほうは紅花さんに侍女になってもらう気満々だから焦る気持ちはない。それに、この話ならきっと引き受けてくれるに違いないとも思っていた。
「紅花さん、応竜宮の侍女になる気はありませんか?」
改めて提案すると紅花さんが眉を寄せた。それはそうだろう。犯罪者として裁かれてもおかしくない立場の人に侍女になってくれと言うのはおかしな話だ。それでもわたしは言葉を続けた。
「応竜宮の侍女はわたししかいません。侍女といってもわたしは下女だったんで、できればちゃんとした侍女に来てほしいと思ってました。でも簡単に増やすことはできないし、普通の侍女では困るというか……」
「つまり、わたしみたいな普通じゃない侍女がいいってことかしら」
「ええと……ぶっちゃけてしまえば、そういうことです」
「阿繰!」
たしなめる弘徳様を「まぁまぁ」となだめながら、新しい茶器にお茶を注ぐ。
「さ、弘徳様もお茶をどうぞ」
「……」
返事はなかったものの、用意したお茶の前に弘徳様がやや乱暴に座った。それを待っていたかのように紅花さんが「どうして侍女が必要なのかしら」と質問する。
「あー……簡単に言えば、わたしじゃわからないことが多すぎるってことでしょうか。わたしは字がほとんど読めないですし、後宮のことにも詳しくありません。髪を結うのもうまくないし、料理だって蒸したり煮たりばかりだし……って、料理は自分で食べるぶんなんでいいんですけど」
「……よくわからないんだけれど、もしかしてここには仕えるべきどなたかがいらっしゃるということ?」
「そうです」
「その方が『こうしゅんさま』ということかしら」
「はい」
わたしの返事に弘徳様が渋い顔をした。それでも何も言わないのは、弘徳様も現状でいいとは思っていないということだ。
「あなたは大事な主人に、わたしのような者を近づけるつもりなの?」
紅花さんがじっとわたしを見ている。その目はやっぱり悪人のようには見えなかった。そう思いたいだけかもしれないけれど、紅花さんは優しい人に違いないという確信もある。
「紅花さんは悪い人じゃないと思います」
「あら、命令だったとは言え主の秘密を探るために侍女になったような女よ?」
「でも、主を裏切るのがつらくて後宮を出ようとしたんですよね?」
「え……?」
「だって、黄妃様にはよくしてもらったって言ってたじゃないですか。それなのに裏切ることしかできないから離れようとしたって。本当の悪人なら親切にされても裏切るときは裏切ります。わたしが生まれ育ったところでは、そういう人も少なくなかったですから」
わたしの言葉に紅花さんが目をそっと伏せた。
紅花さんはおそらく黄妃様を守るために後宮を出ようとしたに違いない。それでも外に出ることができなくて、それならいっそ罪人になろうと考えて投げやりになっているんじゃないだろうか。前にぶつかったときも後宮を出ようとしたところを宦官か誰かに見つかって逃げている最中だったのかもしれない。
(父親から逃げたいって気持ちが一番なんだろうけど、きっとそれだけじゃない)
父親から逃げることができれば黄妃様を守ることにもなる。紅花さんが父親に捕まらなければ皇子様のことを父親が知ることもない。そうするために確実なのは捕まえることすらできなくなることだ。
(つまり、死んでしまうってことだ)
死人に口なしという言葉はこういうときにも使えるんだなと嫌な気持ちになる。
(でも、言い換えればそうまでして黄妃様を守りたいってことよね)
紅花さんは自分を悪人だと言うけれど、主をそこまで思える人が悪人だとはどうしても思えなかった。そういう強くて優しい人に虹淳様の侍女になってもらえれば、きっと虹淳様のためになる。紅花さんだって家なんて関係なくただの侍女として働くことができる。
(それに嫌な父親に利用される人生ともさよならできるし)
一瞬、姉や貧乏な生活から逃れるために後宮に行こうと考えた二年前の自分を思い出した。あのときのわたしは人買いが別のところに売り飛ばすかもしれないなんてことは微塵も考えていなかった。そのくらい追い詰められていたということだ。
(わたしも紅花さんも同じだな)
紅花さんのほうが大変な状況だとは思う。でも、追い詰められたときに後先考えられなくなるのは誰だって同じに違いない。
「紅花さんは悪人じゃありません。黄妃様を思ってるいい侍女だと思います」
「阿繰、」
「大丈夫ですよ、弘徳様。それにここならどんな秘密だって隠せます。なんたって皇帝陛下の秘密を隠してる場所ですからね」
「阿繰!」
声を荒げる弘徳様に「まぁまぁ」と言いながら紅花さんを見た。
「応竜宮には誰も近づきません。皇帝陛下の命令ですから後宮のどこよりも安全です。ここにいれば紅花さんが誰かに捕まることはないですし、父親に見つかることもありません。それにここにはわたしと弘徳様しかいませんから、皇子様のことが外にばれる心配もないと思います」
「ほら、いい場所だと思いませんか?」と紅花さんに笑いかける。
「それに、紅花さんが捕まらなければ黄妃様を守ることにもなると思うんです」
「……」
「紅花さんは黄妃様を守りたくて逃げようと思ったんですよね? そして守るためならいっそ命を奪われたほうがいいんじゃないかとまで考えた。そこまで考えたのなら、ここにいるのが一番です。ついでに侍女として働いてくれれば万々歳なんですけど、どうですか?」
わたしの提案に弘徳様がため息をついた。
「たしかに阿繰の言うことも間違いではないでしょう。しかし、黄妃様にとってどちらが身を守る方法になるかはわかりませんよ」
「どういう意味ですか?」
「御子の存在が明るみに出たほうが妃としての地位は上がりますし、国母としての未来を得ることもできます。しかし御子を探し出し命を狙う輩が出るという危険もあります」
弘徳様の言葉に紅花さんが目を伏せた。
「一方、いまのままでは御子の命は無事かもしれませんが、黄妃様自身は後宮を追い出されることになりかねません。離宮に移るとして、妃でなくなった黄妃様に御子を援助し続けることは難しくなるでしょうね」
眼鏡を押し上げながらの言葉に重い空気が流れる。どちらにしても黄妃様にとっては難しいことだとわたしにも理解できた。
(どっちがいいかなんてわたしにはわからない。でも紅花さんを放っておくなんて、やっぱりわたしにはできないから)
昔の自分を見ているようで見て見ぬ振りはできなかった。それでさらに面倒なことに巻き込まれるとしたら……巻き込まれたときに考えることにしよう。あれだけ面倒ごとはご免だと思っていたのに不思議だ。
「難しいことはわたしにはわかりません。でも紅花さんを放り出すことはしたくないです。ってことで、侍女の件は弘徳様から皇帝陛下にお願いしてください」
「は?」
「だから、紅花さんが応竜宮の侍女として働けるように、弘徳様から皇帝陛下にお願いしてほしいと言ってるんです」
「はぁ!? わ、わたしが陛下に直接ですか!?」
「はい、直接です。だって誰かを通せばその人にいろいろ知られることになるし、それは困るんですよね?」
「それはそうですが、しかしそんな畏れ多いことを……」
「それに、紅花さんが侍女になってくれれば虹淳様はもっと快適に過ごせると思うんです。皇帝陛下が用意してくださった可憐な服と美しい髪型をして、本を楽しそうに読む虹淳様を見たいと思いませんか?」
「……っ」
弘徳様の目元が一気に赤くなった。わなわなさせている唇が少しずつにやけていく。それをじとっと見ているわたしの視線に気づいたのか、慌てたように袖で口元を隠しながら「ま、まぁ虹淳様のためなら、一肌でも二肌でも脱ぐ覚悟はありますが」と口にした。
(弘徳様がへんた……変わった人でよかった)
まだモゴモゴと何かをつぶやいている弘徳様から視線を外し紅花さんを見た。
「ということで、よろしくお願いします」
「……あなた、やっぱりおもしろい人ね」
「そうですか?」
「わたしみたいな面倒な人間をかくまおうなんて、普通は考えないわ」
「そういう意味でなら、わたしも面倒な人間みたいですから仲間ですね」
「どういうこと?」
「蛇を食べるし毒も平気、しかも操ることができるって噂が立つ侍女なんてわたしくらいじゃないですか?」
わたしの返事に一瞬目を見開いた紅花さんが、次の瞬間ふわりと笑った。
「それに、きっと黄妃様も安心すると思うんです」
「え……?」
「だって、黄妃様は尋ね人として紅花さんを探しているんですよね? 尋ね人は探してほしい人のことで、捕まえてほしいのなら別の探し方をすると思うんです」
「……それは、」
「きっと黄妃様も紅花さんのこと心配してるんじゃないでしょうか。もしかして身辺を探っていた理由にも気づいてるかもしれません。それで紅花さんのことを心配して探しているのかもしれませんよ?」
わたしの言葉に紅花さんがそっと目を伏せた。そうしてつぶやいた「黄妃様」という声は、わたしにはとても優しい声に聞こえた。
数日後、皇帝陛下の命令で応竜宮に侍女が一人追加されることになった。後宮ではちょっとした噂になったものの、墓場同然の宮のことを気にする下女や侍女はほとんどいない。宦官たちも同じで、詰め所に新しい紙と墨を取りに来たわたしにそのことを尋ねる人は一人もいなかった。
応竜宮に戻ると、台所で紅花さんが昼食を作っていた。蒸すか煮るかくらいしかしなかったわたしと違って、紅花さんはおいしい料理を手際よく作る。なんでも父親に引き取られるまで料理屋で働いていたらしく、まかないを作っていたから料理は得意なのだそうだ。
「紅花さんが来てくれて助かりました」
「そう?」
「毎日の食事がぐっとよくなりましたし、虹淳様の髪も美少女らしくなりました」
「あら、髪を結うのはあなたの仕事になるのよ? ちゃんと覚えてもらわないと」
「……そうでした」
そう言って頬を掻くと、紅花さんが「ふふっ」と笑う。その顔は憑き物が落ちたように晴れやかな笑顔だった。
「紅花さん、応竜宮の侍女になる気はありませんか?」
改めて提案すると紅花さんが眉を寄せた。それはそうだろう。犯罪者として裁かれてもおかしくない立場の人に侍女になってくれと言うのはおかしな話だ。それでもわたしは言葉を続けた。
「応竜宮の侍女はわたししかいません。侍女といってもわたしは下女だったんで、できればちゃんとした侍女に来てほしいと思ってました。でも簡単に増やすことはできないし、普通の侍女では困るというか……」
「つまり、わたしみたいな普通じゃない侍女がいいってことかしら」
「ええと……ぶっちゃけてしまえば、そういうことです」
「阿繰!」
たしなめる弘徳様を「まぁまぁ」となだめながら、新しい茶器にお茶を注ぐ。
「さ、弘徳様もお茶をどうぞ」
「……」
返事はなかったものの、用意したお茶の前に弘徳様がやや乱暴に座った。それを待っていたかのように紅花さんが「どうして侍女が必要なのかしら」と質問する。
「あー……簡単に言えば、わたしじゃわからないことが多すぎるってことでしょうか。わたしは字がほとんど読めないですし、後宮のことにも詳しくありません。髪を結うのもうまくないし、料理だって蒸したり煮たりばかりだし……って、料理は自分で食べるぶんなんでいいんですけど」
「……よくわからないんだけれど、もしかしてここには仕えるべきどなたかがいらっしゃるということ?」
「そうです」
「その方が『こうしゅんさま』ということかしら」
「はい」
わたしの返事に弘徳様が渋い顔をした。それでも何も言わないのは、弘徳様も現状でいいとは思っていないということだ。
「あなたは大事な主人に、わたしのような者を近づけるつもりなの?」
紅花さんがじっとわたしを見ている。その目はやっぱり悪人のようには見えなかった。そう思いたいだけかもしれないけれど、紅花さんは優しい人に違いないという確信もある。
「紅花さんは悪い人じゃないと思います」
「あら、命令だったとは言え主の秘密を探るために侍女になったような女よ?」
「でも、主を裏切るのがつらくて後宮を出ようとしたんですよね?」
「え……?」
「だって、黄妃様にはよくしてもらったって言ってたじゃないですか。それなのに裏切ることしかできないから離れようとしたって。本当の悪人なら親切にされても裏切るときは裏切ります。わたしが生まれ育ったところでは、そういう人も少なくなかったですから」
わたしの言葉に紅花さんが目をそっと伏せた。
紅花さんはおそらく黄妃様を守るために後宮を出ようとしたに違いない。それでも外に出ることができなくて、それならいっそ罪人になろうと考えて投げやりになっているんじゃないだろうか。前にぶつかったときも後宮を出ようとしたところを宦官か誰かに見つかって逃げている最中だったのかもしれない。
(父親から逃げたいって気持ちが一番なんだろうけど、きっとそれだけじゃない)
父親から逃げることができれば黄妃様を守ることにもなる。紅花さんが父親に捕まらなければ皇子様のことを父親が知ることもない。そうするために確実なのは捕まえることすらできなくなることだ。
(つまり、死んでしまうってことだ)
死人に口なしという言葉はこういうときにも使えるんだなと嫌な気持ちになる。
(でも、言い換えればそうまでして黄妃様を守りたいってことよね)
紅花さんは自分を悪人だと言うけれど、主をそこまで思える人が悪人だとはどうしても思えなかった。そういう強くて優しい人に虹淳様の侍女になってもらえれば、きっと虹淳様のためになる。紅花さんだって家なんて関係なくただの侍女として働くことができる。
(それに嫌な父親に利用される人生ともさよならできるし)
一瞬、姉や貧乏な生活から逃れるために後宮に行こうと考えた二年前の自分を思い出した。あのときのわたしは人買いが別のところに売り飛ばすかもしれないなんてことは微塵も考えていなかった。そのくらい追い詰められていたということだ。
(わたしも紅花さんも同じだな)
紅花さんのほうが大変な状況だとは思う。でも、追い詰められたときに後先考えられなくなるのは誰だって同じに違いない。
「紅花さんは悪人じゃありません。黄妃様を思ってるいい侍女だと思います」
「阿繰、」
「大丈夫ですよ、弘徳様。それにここならどんな秘密だって隠せます。なんたって皇帝陛下の秘密を隠してる場所ですからね」
「阿繰!」
声を荒げる弘徳様に「まぁまぁ」と言いながら紅花さんを見た。
「応竜宮には誰も近づきません。皇帝陛下の命令ですから後宮のどこよりも安全です。ここにいれば紅花さんが誰かに捕まることはないですし、父親に見つかることもありません。それにここにはわたしと弘徳様しかいませんから、皇子様のことが外にばれる心配もないと思います」
「ほら、いい場所だと思いませんか?」と紅花さんに笑いかける。
「それに、紅花さんが捕まらなければ黄妃様を守ることにもなると思うんです」
「……」
「紅花さんは黄妃様を守りたくて逃げようと思ったんですよね? そして守るためならいっそ命を奪われたほうがいいんじゃないかとまで考えた。そこまで考えたのなら、ここにいるのが一番です。ついでに侍女として働いてくれれば万々歳なんですけど、どうですか?」
わたしの提案に弘徳様がため息をついた。
「たしかに阿繰の言うことも間違いではないでしょう。しかし、黄妃様にとってどちらが身を守る方法になるかはわかりませんよ」
「どういう意味ですか?」
「御子の存在が明るみに出たほうが妃としての地位は上がりますし、国母としての未来を得ることもできます。しかし御子を探し出し命を狙う輩が出るという危険もあります」
弘徳様の言葉に紅花さんが目を伏せた。
「一方、いまのままでは御子の命は無事かもしれませんが、黄妃様自身は後宮を追い出されることになりかねません。離宮に移るとして、妃でなくなった黄妃様に御子を援助し続けることは難しくなるでしょうね」
眼鏡を押し上げながらの言葉に重い空気が流れる。どちらにしても黄妃様にとっては難しいことだとわたしにも理解できた。
(どっちがいいかなんてわたしにはわからない。でも紅花さんを放っておくなんて、やっぱりわたしにはできないから)
昔の自分を見ているようで見て見ぬ振りはできなかった。それでさらに面倒なことに巻き込まれるとしたら……巻き込まれたときに考えることにしよう。あれだけ面倒ごとはご免だと思っていたのに不思議だ。
「難しいことはわたしにはわかりません。でも紅花さんを放り出すことはしたくないです。ってことで、侍女の件は弘徳様から皇帝陛下にお願いしてください」
「は?」
「だから、紅花さんが応竜宮の侍女として働けるように、弘徳様から皇帝陛下にお願いしてほしいと言ってるんです」
「はぁ!? わ、わたしが陛下に直接ですか!?」
「はい、直接です。だって誰かを通せばその人にいろいろ知られることになるし、それは困るんですよね?」
「それはそうですが、しかしそんな畏れ多いことを……」
「それに、紅花さんが侍女になってくれれば虹淳様はもっと快適に過ごせると思うんです。皇帝陛下が用意してくださった可憐な服と美しい髪型をして、本を楽しそうに読む虹淳様を見たいと思いませんか?」
「……っ」
弘徳様の目元が一気に赤くなった。わなわなさせている唇が少しずつにやけていく。それをじとっと見ているわたしの視線に気づいたのか、慌てたように袖で口元を隠しながら「ま、まぁ虹淳様のためなら、一肌でも二肌でも脱ぐ覚悟はありますが」と口にした。
(弘徳様がへんた……変わった人でよかった)
まだモゴモゴと何かをつぶやいている弘徳様から視線を外し紅花さんを見た。
「ということで、よろしくお願いします」
「……あなた、やっぱりおもしろい人ね」
「そうですか?」
「わたしみたいな面倒な人間をかくまおうなんて、普通は考えないわ」
「そういう意味でなら、わたしも面倒な人間みたいですから仲間ですね」
「どういうこと?」
「蛇を食べるし毒も平気、しかも操ることができるって噂が立つ侍女なんてわたしくらいじゃないですか?」
わたしの返事に一瞬目を見開いた紅花さんが、次の瞬間ふわりと笑った。
「それに、きっと黄妃様も安心すると思うんです」
「え……?」
「だって、黄妃様は尋ね人として紅花さんを探しているんですよね? 尋ね人は探してほしい人のことで、捕まえてほしいのなら別の探し方をすると思うんです」
「……それは、」
「きっと黄妃様も紅花さんのこと心配してるんじゃないでしょうか。もしかして身辺を探っていた理由にも気づいてるかもしれません。それで紅花さんのことを心配して探しているのかもしれませんよ?」
わたしの言葉に紅花さんがそっと目を伏せた。そうしてつぶやいた「黄妃様」という声は、わたしにはとても優しい声に聞こえた。
数日後、皇帝陛下の命令で応竜宮に侍女が一人追加されることになった。後宮ではちょっとした噂になったものの、墓場同然の宮のことを気にする下女や侍女はほとんどいない。宦官たちも同じで、詰め所に新しい紙と墨を取りに来たわたしにそのことを尋ねる人は一人もいなかった。
応竜宮に戻ると、台所で紅花さんが昼食を作っていた。蒸すか煮るかくらいしかしなかったわたしと違って、紅花さんはおいしい料理を手際よく作る。なんでも父親に引き取られるまで料理屋で働いていたらしく、まかないを作っていたから料理は得意なのだそうだ。
「紅花さんが来てくれて助かりました」
「そう?」
「毎日の食事がぐっとよくなりましたし、虹淳様の髪も美少女らしくなりました」
「あら、髪を結うのはあなたの仕事になるのよ? ちゃんと覚えてもらわないと」
「……そうでした」
そう言って頬を掻くと、紅花さんが「ふふっ」と笑う。その顔は憑き物が落ちたように晴れやかな笑顔だった。
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