ちはやぶる

八神真哉

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第八十二話  苺を摘みに

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呪符に文字を書き終えると、姫は自分の袿の袖を義久に引きちぎるように言った。
イダテンは怪訝な表情をうかべたが、意図を察した義久は、にやりと笑った。
昔、義久が肘をすりむいたとき、姫は同じことをしようとしたのだ。

そして先ほどのように「血(あせ)が……」と言ったのだ。
貴族が血を穢れとして嫌い、「あせ」と呼ぶことを初めて知った。
むろん、その時は、とんでもないと断りはしたが。

姫が、イダテンの額に鴇色の袖をあてた。
義久は自らの直垂の胸紐を切りとり、姫の袖がずれぬように巻きつけた。
「にあうぞイダテン」

義久は、イダテンが姫から受け取った血文字の呪符一枚を残し、奪うようにむしり取った。
三枚あった。
これだけあれば敵を攪乱できるだろう。

「おまえは姫様を守って先を急げ。やつらはわしが引き受ける」
イダテンは、義久の意図が理解できないようだった。
ささらが姫も同様に眉根を寄せた。
「なぜ、そのようなことを? 崖から風に乗せて流せばよいのでしょう?」

姫の問いに答える義久の額から汗がこぼれ落ちた。
「追手はさらに増えるでしょう」
イダテンが小さく頷いた。

今でこそ、様子をうかがっているが、動ける者も残っていよう。
殺傷力の弱い矢だということにも、すぐに気づくだろう。
イダテンに問わずとも見当がつく。

風切音の割に矢の速度が遅い。
鏃どころか矢羽さえついていないかもしれない。
闇の中だからこそ効果があるのだ。

問題なのは、その追手が馬で現れたということだ。
それは、崖崩れや焼け落ちた砦の残骸が取り除かれたことを意味する。
じきに、これまでとは比べ物にならぬほどの兵が押し寄せてくるだろう。

ならば、追手の足を止めるか、分散させなければならない。
もはや、イダテンが馬より早く走れるとは思えなかった。

「われらが山頂や峰にたどりつく前に、やつらは追いつくでしょう。といって、このあたりで風に乗せれば、川に落ち、血文字はにじみ、役に立たぬでありましょう……ならば、人が持って動き回り、ここぞという時に使うのが最良かと」

心配げに見つめてくる姫を安心させようと続けた。
「いざとなれば、谷底へ投げ込み、姫の後を追いますれば」
姫は首を振った。
「……そのような危うい真似は」

「なに、この姿です。先ほど同様、味方を装い、なんとでも言いくるめられましょう」
余裕ありげに笑って見せた。
「ですが……」
姫の目には脅えがあった。

足元に生えている小さな白い花を右手で摘んだ。
今の季節に花は珍しい。
花冠が星型に五裂したわびしい花だ。

姫の前に跪く。
和歌など添えればよいのだろうが、才覚もなければ作法も知らない。
扇の上に載せて差し出した、

その扇が小さく震えている。
情けないとは思うが、やり直しはきかない。

意味がわからず、とまどっている姫に、
「幸運をもたらす花と聞いています」
と、でまかせをいった。

適当な男だ、と自嘲する。
薬草として使われている千振せんぶりだ。
邸に植えるような花ではないから姫は知らないだろう。
いずれ、知る機会があれば、義久らしいと笑ってくれるに違いない。
――そうだ。姫の前では、これでよい。

姫は、助けを求めるようにイダテンを見た。
だが、イダテンは腕を組んで一言も発しない。
この機を逃してはならない。

姫の目をひたと見据え注進する。
「この義久に……男としての働き場所を与えてくだされ」

イダテンが鬼神のごとき力を失ったと言っても、姫を背負って走ることはできるだろう。
だが、自分は違う。
足手まといになることは目に見えていた。
姫を危険にさらすわけにはいかなかった。

姫は、瞼を閉じ、迷うそぶりを見せた。
義久に合流する気がないことは薄々感じていよう。
このような目をしたときの義久が本意を翻さないことも。

姫は、懐から錦の袋に入った細長いものを取り出すと、両手に乗せて義久に差し出した。
「ではこれを」
義久は、戸惑いながらも花をのせた扇を横に置き、衣で手を拭い、うやうやしく受け取った。

「これは……」
背筋に震えが走った。
形を見て懐剣だろうと思った。
だが、この手触りは間違いなく笛だ。

しかも、こたびのような大事に、邸から持ち出すようなものと言えば、一つしかない。
笛の名手であった姫の祖父が帝から下賜されたという『小枝』である。

「このようなものは……」
受け取れるわけがない。
「……預けるのです」

――必ず戻ってくるのでしょう? と目で訴えてくる。
「いや、しかし……」

戸惑う義久を前に、
「こうすればよい」
と、イダテンが首にかけていた革紐を引いて懐から緋色の勾玉を取り出すと、周りの空気が一変した。

どのような珠玉とて、自らの力で輝くことはない。
だが、この透きとおった緋色の勾玉は、やせ細った月の下で鼓動でも打っているかのような怪しげな光を放っている。

イダテンは、その勾玉を姫の首にかけた。
「これは?」
と言って、姫は言葉を詰まらせた。

義久が代弁した。
「なんと言う奇妙な……まるで生きてでもいるかのような」
その輝きに目を奪われた。

「母の形見じゃ」
イダテンは、二人の様子にはかまわず、義久が先ほど兼親から奪った大太刀に手を伸ばし、下緒を背負子の横木に結びつけた。
「これでよかろう」

イダテンの機転に姫の表情がなごむ。
そして、こぼれるような微笑みを浮かべ、義久に花を所望した。

「春になったら……皆で、苺を摘みに出かけましょう」
義久も照れながら笑顔で応えた。
おそらく童のころのような無邪気な表情だっただろう。

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