ちはやぶる

八神真哉

文字の大きさ
上 下
56 / 91

第五十六話  根絶やし

しおりを挟む
――小さな角笛を素早く口に咥えた。
こんなことではないかと橋を渡る前に用意しておいたのだ。

息を送り出すと空気が震えた。
じりじりと囲みを狭めてきた郎党たちの足がわずかに止まる。

兼親は眉をひそめ、イダテンの動きに備えている。
人の耳には、ほとんど聞こえぬはずだが気配は感じたようだ。

口から笛を取り出し、兼親に声をかける。
「このあたりが、なんと呼ばれているか知っておるか」
それを聞いた兼親は、にやりと笑った。
「狼が淵であろう。二年ほど前に、われらが根絶やしにしてくれたわ」

イダテンは、兼親の言葉が終るのを待たず、縄のついた手斧を小さく振り回し始めた。

兼親は、イダテンが勝負に出ると見て、
「おう!」
と、大太刀を構えた。

郎党たちにも緊張が走る。
手斧を投げつけられると思ったのだろう。

だが、イダテンの手を離れた手斧は、天に向かって飛び、欅の大木の枝に巻きついた。

「……その報いを受けるが良い」
姫に、「捕まっていろ」と、声をかけると、
幹に足を掛け、縄を手繰り、駆け登った。

空に消えたのではないかというほどの俊敏さに、誰一人対応できなかった。

兼親の後ろにいた若い郎党の一人が何かを察したのか、あわてて矛を捨て、近くにあったブナの木に登り始めた。

奥の草むらから獣と思われる気配が伝わってきて初めて、兼親たちも、ようやくイダテンが何らかの手を打ったことに気がついた。

が、すでに手遅れだった。
それは音もたてず跳びかかった。
その牙で郎党たちの喉笛を切り裂き、武器を握った手首を食いちぎった。
二匹の影が交差するたびに、立っている者の数が減った。

月が翳り、姿が見えなくなると脅えが増幅した。
矛や太刀を振るう音の中に、鎬を削る音が混じる。
恐怖のあまり闇雲に矛や太刀を振るい、同士討ちを始める者まで現れたのだ。

狼たちは、吠えもせず唸りもせず、静かに確実に郎党たちの数を減らしていく。
やがて鎬を削る音も途絶え、郎党たちのうめき声と狼の息遣いだけになった。

その時、わずかに月の光が注いだ。

それが命運を分けた。
兼親はかろうじて体をひねり牙から逃れた。
のどには赤い筋がつき、血の玉が湧いている。

さらに雲が流れ、あたりが明るくなると郎党の矛の切っ先が狼を捕らえた。
狼は腰のあたりを突かれ、声も上げず、地面に落ちた。

イダテンは、姫を乗せた負子を安定の良い二股の枝の上に降ろし、縄で幹に固定した。
姫は不安そうな目をしたが、無駄な口はきかなかった。

眼下では、残った一匹が郎党に襲い掛かっていた。
のどを守ろうとするその腕に噛み付き、振り回す。
郎党が激痛に耐えかね倒れても、気が収まらぬとばかりに引きずった。

だが、それが油断を生んだ。
兼親が、「おのれ」と声を上げ、左から大太刀を浴びせると、狼は、その場に崩れ落ちた。

襲われた郎党は、ぴくりとも動かない。
残ったのは兼親ただ一人だ。

イダテンは足をかばい、縄を伝って地面に降りると狼の倒れた場所まで急いだ。
喉元が黒い。帳だった。
前足から腹まで裂かれている。

枯草を踏みしだく音に振り向くと、肩で息をする兼親が立っていた。
分厚い胸にも大太刀を握る丸太のような腕にも、先ほどまでの力強さはない。

「おのれ、卑怯な……獣を使うか」

その後ろに人影が立った。
五尺六寸はあろう若い郎党が太刀を抜いて歩み寄る。

狼の唸り声を聞いて木に登った男だ。
危険が去ったと見て、降りてきたのだろう。
木陰の下に入り表情が見えなくなった。

「おお、小太郎、生きておったか」
兼親は、一瞬振り返り、喜びをあらわにしたものの、すぐにイダテンに視線を戻した。なかなか用心深い。

「狼さえおらねば、しょせんこわっぱ。わけなく退治できよう。おまえは右に……」
兼親の巨躯が、がくりとぶれた。

すとんと落ちて片膝をついた。

何が起きたかわからないのだろう。
目の焦点も合っていない。

その目が、ようやく自分の腹から突き出た赤く光る物を捕えた。
それは血に濡れた太刀の切っ先だった。

それが小太郎と呼んだ郎党の太刀だと気づいた兼親の顔に驚きが浮かんだ。
「なぜだ……」

声を絞り出す兼親の問いに若者が答えた。
「なにを驚いておる。目をかけてやったとでも思うておるか」
返り血を浴びた、その端正な顔にはいびつな笑みが浮かんでいた。

「冥土の土産に教えてやろう」
若者は、後方から、顔を兼親の耳元に寄せると、小さく息を吸い込み、ささやくように口にした。
「わしの本当の名を」

兼親の目が泳ぎながらも、その若者の姿を追った。
髭が震えていた。
「わしの名は阿部小太郎義光あべこたろうよしあきではない」

「鷲尾わしおじゃ。鷲尾小太郎義久よしひさじゃ……お前たちが攻めた、あの邸に親兄弟がおったのよ……おお、お前達の良く知る、頑固者のじじいもな」

瞬く間に兼親の衣が血に染まっていく。
義久と名乗った若者は、太刀を引き抜こうとする。
が、うまくいかない。肉が締まり、血に濡れた持ち手の柄が滑るのだ。

兼親の背に足をかけ、鍔に手をかけ、強引に引き抜いた。

その拍子に、兼親の首にかけられていた大数珠の紐が切れ、ばらばらと音をたてながら地面を転がった。

太刀を引き抜かれても、片膝を着いた兼親は倒れなかった。
若者は、腹立たしげに足で背中を蹴った。
ようやく、どう、と音をたてて倒れた。

若者は、息を整えると、太刀を兼親の首にあてた。
名のある武将を討てば恩賞が出る。
場合によっては領地さえ手に入る。それが戦というものだ。

兼親は敵の副将だ。大きな手柄というべきだろう。
ただし、恩賞を与えてくれる味方の大将なり主人が生きていればだが。

「どこに持って行くつもりだ」
イダテンは烏帽子を剥ぎ取り、髷をつかんで兼親の首を首袋に入れようとした若者に声をかける。

その意味に気づいたのだろう。
月明かりの下、若者は、返り血を浴びた顔のまま口端を上げ笑った。

「ふん……つくづく、運のない家系よ」
投げすてられた首は、鈍い音をたてて草むらに転がり込んだ。

若者は、血に濡れた手と顔を端布で拭い、岩陰に隠してあった瓢箪の栓を抜いて、ぐびりと水を流し込んだ。
のがした恩賞の大きさを悔いる表情ではなかった。

足元にある死骸に目をやった若者は、それ以外、目に入らぬ様子で立ち尽くしていた。
同じ年頃の若い男だった。

     *  

https://cdn-image.alphapolis.co.jp/story_image/593742/64b7a987-6fec-41f9-b760-4f310a11000e.jpeg
 
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

鬼を討つ〜徳川十六将・渡辺守綱記〜

八ケ代大輔
歴史・時代
徳川家康を天下に導いた十六人の家臣「徳川十六将」。そのうちの1人「槍の半蔵」と称され、服部半蔵と共に「両半蔵」と呼ばれた渡辺半蔵守綱の一代記。彼の祖先は酒天童子を倒した源頼光四天王の筆頭で鬼を斬ったとされる渡辺綱。徳川家康と同い歳の彼の人生は徳川家康と共に歩んだものでした。渡辺半蔵守綱の生涯を通して徳川家康が天下を取るまでの道のりを描く。表紙画像・すずき孔先生。

腐れ外道の城

詠野ごりら
歴史・時代
戦国時代初期、険しい山脈に囲まれた国。樋野(ひの)でも狭い土地をめぐって争いがはじまっていた。 黒田三郎兵衛は反乱者、井藤十兵衛の鎮圧に向かっていた。

西涼女侠伝

水城洋臣
歴史・時代
無敵の剣術を会得した男装の女剣士。立ち塞がるは三国志に名を刻む猛将馬超  舞台は三國志のハイライトとも言える時代、建安年間。曹操に敗れ関中を追われた馬超率いる反乱軍が涼州を襲う。正史に残る涼州動乱を、官位無き在野の侠客たちの視点で描く武侠譚。  役人の娘でありながら剣の道を選んだ男装の麗人・趙英。  家族の仇を追っている騎馬民族の少年・呼狐澹。  ふらりと現れた目的の分からぬ胡散臭い道士・緑風子。  荒野で出会った在野の流れ者たちの視点から描く、錦馬超の実態とは……。  主に正史を参考としていますが、随所で意図的に演義要素も残しており、また武侠小説としてのテイストも強く、一見重そうに見えて雰囲気は割とライトです。  三國志好きな人ならニヤニヤ出来る要素は散らしてますが、世界観説明のノリで注釈も多めなので、知らなくても楽しめるかと思います(多分)  涼州動乱と言えば馬超と王異ですが、ゲームやサブカル系でこの2人が好きな人はご注意。何せ基本正史ベースだもんで、2人とも現代人の感覚としちゃアレでして……。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

遠い昔からの物語

佐倉 蘭
歴史・時代
昭和十六年、夏。 佐伯 廣子は休暇中の婚約者に呼ばれ、ひとり汽車に乗って、彼の滞在先へ向かう。 突然の見合いの末、あわただしく婚約者となった間宮 義彦中尉は、海軍士官のパイロットである。 実は、彼の見合い相手は最初、廣子ではなく、廣子の姉だった。 姉は女学校時代、近隣の男子学生から「県女のマドンナ」と崇められていた……

霧衣物語

水戸けい
歴史・時代
 竹井田晴信は、霧衣の国主であり父親の孝信の悪政を、民から訴えられた。家臣らからも勧められ、父を姉婿のいる茅野へと追放する。  父親が国内の里の郷士から人質を取っていたと知り、そこまでしなければ離反をされかねないほど、酷い事をしていたのかと胸を痛める。  人質は全て帰すと決めた晴信に、共に育った牟鍋克頼が、村杉の里の人質、栄は残せと進言する。村杉の里は、隣国の紀和と通じ、謀反を起こそうとしている気配があるからと。  国政に苦しむ民を助けるために逃がしているなら良いではないかと、晴信は思う、克頼が頑なに「帰してはならない」と言うので、晴信は栄と会う事にする。

古代ローマの英雄スキピオの物語〜歴史上最高の戦術家カルタゴの名将ハンニバル対ローマ史上最強の男〜本物の歴史ロマンを実感して下さい

秀策
歴史・時代
 歴史上最高の戦術家とされるカルタゴの名将ハンニバルに挑む若者の成長物語。紀元前二一九年、ハンニバルがローマの同盟都市サグントゥムを攻撃したのをきっかけに、第二次ポエニ戦争が始まる。ハンニバル戦争とも呼ばれるこの戦争は実に十八年もの長き戦いとなった。  アルプスを越えてローマ本土を攻撃するハンニバルは、騎兵を活かした戦術で次々とローマ軍を撃破していき、南イタリアを席巻していく。  一方、ローマの名門貴族に生まれたスキピオは、戦争を通じて大きく成長を遂げていく。戦争を終わらせるために立ち上がったスキピオは、仲間と共に巧みな戦術を用いてローマ軍を勝利に導いていき、やがて稀代の名将ハンニバルと対峙することになる。  戦争のない世の中にするためにはどうすればよいのか。何のために人は戦争をするのか。スキピオは戦いながらそれらの答えを追い求めた。  古代ローマで最強と謳われた無敗の名将の苦悩に満ちた生涯。平和を願う作品であり、政治家や各国の首脳にも読んで欲しい!  異世界転生ご都合歴史改変ものではありません。いわゆる「なろう小説」ではありませんが、歴史好きはもちろんハイファンタジーが好きな方にも読み進めやすい文章や展開の早さだと思います。未知なる歴史ロマンに触れてみませんか?   二十話過ぎあたりから起承転結の承に入り、一気に物語が動きます。ぜひそのあたりまでは読んで下さい。そこまではあくまで準備段階です。

淡き河、流るるままに

糸冬
歴史・時代
天正八年(一五八〇年)、播磨国三木城において、二年近くに及んだ羽柴秀吉率いる織田勢の厳重な包囲の末、別所家は当主・別所長治の自刃により滅んだ。 その家臣と家族の多くが居場所を失い、他国へと流浪した。 時は流れて慶長五年(一六〇〇年)。 徳川家康が会津の上杉征伐に乗り出す不穏な情勢の中、淡河次郎は、讃岐国坂出にて、小さな寺の食客として逼塞していた。 彼の父は、淡河定範。かつて別所の重臣として、淡河城にて織田の軍勢を雌馬をけしかける奇策で退けて一矢報いた武勇の士である。 肩身の狭い暮らしを余儀なくされている次郎のもとに、「別所長治の遺児」を称する僧形の若者・別所源兵衛が姿を見せる。 福島正則の元に馳せ参じるという源兵衛に説かれ、次郎は武士として世に出る覚悟を固める。 別所家、そして淡河家の再興を賭けた、世に知られざる男たちの物語が動き出す。

処理中です...