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十五
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――後はお二人で、と橘侯爵は軽やかに去っていた。
だだっ広い部屋に取り残されたわたしと彼は馬鹿みたいにお互いを見つめ合って動くことはしない。五歩ほど進めば彼に触れれる距離だというのに、人間予想外なことが起きれば固まるものだ。妙に緊張感のある部屋に、彼の後ろからにゃぁと猫の鳴く声が響いた。牡丹雪のように白くて、鍵しっぽの姿は見覚えがある。わたしが飼っていた牡丹だ。どうやら彼の真後ろに牡丹が隠れていたようで、とことことコチラにやってくる楓は自分の思い出の中よりもかなり大きくなっていて感慨深い。
「牡丹……!」
わたしの足元にすり寄ってくる牡丹は久しぶりに会うわたしのことを覚えてくれているのか甘えたように鳴く。わたしはそれに応えるように抱きかかえてから、彼と対面する。
「どうしてここにいらしたのです」
会話を聞かれた気恥ずかしさから責めるように言って、反省する。これでは浮気を責めている女そのものではないか。けれど質問に答えることはなく彼は短く謝るだけだった。
(旦那様が謝るなんて初めてじゃないかしら)
そもそも会話自体ほとんどしていない。もしかしたらこれはわたし達の最後の機会なのかもしれない。そう思ったのは彼がわたしを避けるように眼を伏せているからだ。
「あの、どうして牡丹のことを黙っていたのですか」
言い訳かもしれないけれど、もしも彼が牡丹のことを教えてくれたらすぐに思いだせたかもしれないのに。けれど彼は首を横に振るだけだった。
「言ったところでどうなるというんだ」
弱弱しい口調はまるで全てを諦めているかのようだ。思えばわたしは獰猛で傲慢な彼しか知らない。だから自分の知らない彼に触れたようで、少し不思議な気分になる。
「言ってくれないと分からないことは多いです」
わたしの反論は彼の琴線に触れたようで、肩を震わせる。
「……どうして俺が言えると思うのだ」
押し殺した声はひどく苦いものだ。けれどわたしがしっくりこないことが余計に彼の感情に油を注いだ。
「アンタは本当にひどい女なんだな」
痛いくらいに肩を掴まれ、わたしは声にならない悲鳴をあげる。反射的にどかそうとしなかったのは苦悶満ちた顔が見えたからだ。
「何故俺が言えなかったと考えたことはなかったのか? 俺だってアンタが妻として嫁いできた日に教えてやりたかったさ! けれど、アンタは違う男の嫁としてきたのだと言ってきた。男としての矜持を傷付けられて、どうやって素直な気持ちで接してやれるというんだっ!」
激情ともいえる告白にわたしは息を呑む。そうだ。わたしは自分の気持ちだけを大事にして、彼のことを考えての行動なんかしてこなかった。その結果、お互いすれ違ってしまったのだ。
「ごめんなさい」
今更謝っても仕方ないのかもしれない。けれど、わたしが彼を傷付けてしまったのだ。そのことを捨て置けられるはずがない。
「……謝るな。余計に惨めになってしまう」
彼の言葉にまたわたしが余計なことを言ってしまったことを知る。どうしても空回ってしまう自分が情けなくて仕方ない。頭の中では、無数の言葉を探し出そうとしているのに、結局見つからなくて黙り込んでしまう自分が嫌になる。だけど、このままでは余計にお互いの溝が深くなってしまう。そんなのはもう嫌。だからわたしは息を吐き出して、思いきって自分から彼の胸へ飛び込んだ。
「な、にを…」
力を込めて彼の背中に手を廻すと、もう彼の顔は見れない。その代わりに彼の心臓の男が聞こえてくる。ドクドクと早い音に、緊張しているのはわたしだけではないのだと知れて、少しだけ嬉しかった。
「……言葉では上手く伝えることは出来ませんから、身体で伝えることにしましたの」
彼の喉が鳴ると同時に、勢い良く抱きしめられた。骨が軋むほどの力は痛くて苦しいけれど、それは彼がわたしを求めている証でもある。
「お姫さん、お姫さん……! あんまり可愛いことをしないでくれ。折角俺が貴女を手放す覚悟が出来たというのに揺らいでしまうじゃないか」
「どうして、手放さければいけないの。わたしは貴方の妻だというのに――」
言いきって、自分の大胆な行動に顔から火が出るほど恥ずかしくて、顔を見られないように彼の胸に埋め混んだ瞬間だった。その途端、彼は突然わたしを押し倒し、彼の想いをぶつけてくるような深い口づけをされる。久しぶりに嗅ぐ白檀と煙草の匂いにわたしはうっとりと眼を閉じて彼の情欲を受け入れると、彼は感極まったかのように、もう一度わたしを抱きしめる。
「……あんまり大胆なことを言って、俺を煽らないでくれ。このまま抱いてしまいたくなるじゃないか」
大胆なことを言っているのはどちらなのだろうか。グラグラと揺れる脳内ではもう天秤に掛けることも出来やしない。耳まで赤くなったわたしを彼は面白そうに見つめ、そしておもむろにわたしを抱いたまま立ち上がる。
「今日は屋敷に帰ってそのまま貴女を抱いてしまいたい。良いだろうか?」
そんな破廉恥なことをわざわざ聞かないで欲しい。抗議の意味で涙目で睨んでやると彼は蕩けるような甘い眼差しでこちらを見ていて、もう頷くことがやっとであった。
そして彼は屋敷の中に向かう道中に教えてくれたのだ。
わたしを好きになったきっかけを――
だだっ広い部屋に取り残されたわたしと彼は馬鹿みたいにお互いを見つめ合って動くことはしない。五歩ほど進めば彼に触れれる距離だというのに、人間予想外なことが起きれば固まるものだ。妙に緊張感のある部屋に、彼の後ろからにゃぁと猫の鳴く声が響いた。牡丹雪のように白くて、鍵しっぽの姿は見覚えがある。わたしが飼っていた牡丹だ。どうやら彼の真後ろに牡丹が隠れていたようで、とことことコチラにやってくる楓は自分の思い出の中よりもかなり大きくなっていて感慨深い。
「牡丹……!」
わたしの足元にすり寄ってくる牡丹は久しぶりに会うわたしのことを覚えてくれているのか甘えたように鳴く。わたしはそれに応えるように抱きかかえてから、彼と対面する。
「どうしてここにいらしたのです」
会話を聞かれた気恥ずかしさから責めるように言って、反省する。これでは浮気を責めている女そのものではないか。けれど質問に答えることはなく彼は短く謝るだけだった。
(旦那様が謝るなんて初めてじゃないかしら)
そもそも会話自体ほとんどしていない。もしかしたらこれはわたし達の最後の機会なのかもしれない。そう思ったのは彼がわたしを避けるように眼を伏せているからだ。
「あの、どうして牡丹のことを黙っていたのですか」
言い訳かもしれないけれど、もしも彼が牡丹のことを教えてくれたらすぐに思いだせたかもしれないのに。けれど彼は首を横に振るだけだった。
「言ったところでどうなるというんだ」
弱弱しい口調はまるで全てを諦めているかのようだ。思えばわたしは獰猛で傲慢な彼しか知らない。だから自分の知らない彼に触れたようで、少し不思議な気分になる。
「言ってくれないと分からないことは多いです」
わたしの反論は彼の琴線に触れたようで、肩を震わせる。
「……どうして俺が言えると思うのだ」
押し殺した声はひどく苦いものだ。けれどわたしがしっくりこないことが余計に彼の感情に油を注いだ。
「アンタは本当にひどい女なんだな」
痛いくらいに肩を掴まれ、わたしは声にならない悲鳴をあげる。反射的にどかそうとしなかったのは苦悶満ちた顔が見えたからだ。
「何故俺が言えなかったと考えたことはなかったのか? 俺だってアンタが妻として嫁いできた日に教えてやりたかったさ! けれど、アンタは違う男の嫁としてきたのだと言ってきた。男としての矜持を傷付けられて、どうやって素直な気持ちで接してやれるというんだっ!」
激情ともいえる告白にわたしは息を呑む。そうだ。わたしは自分の気持ちだけを大事にして、彼のことを考えての行動なんかしてこなかった。その結果、お互いすれ違ってしまったのだ。
「ごめんなさい」
今更謝っても仕方ないのかもしれない。けれど、わたしが彼を傷付けてしまったのだ。そのことを捨て置けられるはずがない。
「……謝るな。余計に惨めになってしまう」
彼の言葉にまたわたしが余計なことを言ってしまったことを知る。どうしても空回ってしまう自分が情けなくて仕方ない。頭の中では、無数の言葉を探し出そうとしているのに、結局見つからなくて黙り込んでしまう自分が嫌になる。だけど、このままでは余計にお互いの溝が深くなってしまう。そんなのはもう嫌。だからわたしは息を吐き出して、思いきって自分から彼の胸へ飛び込んだ。
「な、にを…」
力を込めて彼の背中に手を廻すと、もう彼の顔は見れない。その代わりに彼の心臓の男が聞こえてくる。ドクドクと早い音に、緊張しているのはわたしだけではないのだと知れて、少しだけ嬉しかった。
「……言葉では上手く伝えることは出来ませんから、身体で伝えることにしましたの」
彼の喉が鳴ると同時に、勢い良く抱きしめられた。骨が軋むほどの力は痛くて苦しいけれど、それは彼がわたしを求めている証でもある。
「お姫さん、お姫さん……! あんまり可愛いことをしないでくれ。折角俺が貴女を手放す覚悟が出来たというのに揺らいでしまうじゃないか」
「どうして、手放さければいけないの。わたしは貴方の妻だというのに――」
言いきって、自分の大胆な行動に顔から火が出るほど恥ずかしくて、顔を見られないように彼の胸に埋め混んだ瞬間だった。その途端、彼は突然わたしを押し倒し、彼の想いをぶつけてくるような深い口づけをされる。久しぶりに嗅ぐ白檀と煙草の匂いにわたしはうっとりと眼を閉じて彼の情欲を受け入れると、彼は感極まったかのように、もう一度わたしを抱きしめる。
「……あんまり大胆なことを言って、俺を煽らないでくれ。このまま抱いてしまいたくなるじゃないか」
大胆なことを言っているのはどちらなのだろうか。グラグラと揺れる脳内ではもう天秤に掛けることも出来やしない。耳まで赤くなったわたしを彼は面白そうに見つめ、そしておもむろにわたしを抱いたまま立ち上がる。
「今日は屋敷に帰ってそのまま貴女を抱いてしまいたい。良いだろうか?」
そんな破廉恥なことをわざわざ聞かないで欲しい。抗議の意味で涙目で睨んでやると彼は蕩けるような甘い眼差しでこちらを見ていて、もう頷くことがやっとであった。
そして彼は屋敷の中に向かう道中に教えてくれたのだ。
わたしを好きになったきっかけを――
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