お姫さんと呼ばないで

秋月朔夕

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十一

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言葉に出してすぐに自分でもなんて非常識なことを呟いてしまったのかと驚いた。一瞬の静寂の間、彼の震えがわたしに伝わる。

 「なにを、馬鹿なことを言っている……貴女は俺に買われたんだぞっ!」
  絞り出すように最後は大声でわたしを責め立てる彼はどこかいつもより余裕がない気がする。そのことに少しだけ悦びを感じる自分は歪んでいるのだろうか。
 「……分かっています」
  わたしが貴方にとって金で買える程度の女であることくらいは知っている。けれどそんなことわざわざ言わなくていいじゃないか。自分の存在価値がいかに小さいか自覚させる彼の言葉に腹が立ってそっけない返事をする。
 「いいや、分かっていない。貴方はどうやら俺の妻だという自覚もない。どうして俺という存在がありながら、他の男に贈るネクタイを握りしめて泣いて、あげく離縁をせがむか。これでは不貞があったと言われても納得してしまうぞ」

 (自分だって相手が居るくせに)
  早口にまくしたてる彼をどこか冷静に捉えていた――いや、違う。冷静なフリをして自分の嫉妬心を隠したのだ。だからこそ余計な爆弾を生む。
 「不貞なんてする時間もないことは貴方が一番ご存じでしょう」
 「……それは時間があれば不貞行為をするのだということか」
  わたしの嫌味を彼は言葉通りに受け取った。ギリギリと奥歯を噛みしめる音はそのまま彼の怒りを堪えている音だ。そのことに気付かないわたしはこの時かなり頭に血が上っていたのだ。
 「どう受け取って貰っても結構ですわ」
  少しはわたしのことを気にして欲しい。支配欲でもなんでも構わない。そう思うからわざと頑なな態度で彼を煽り、怒りの導火線に火をつける。
 「なぁ、お姫さん。アンタ少し俺を甘く見てねぇか」
  いきり立つさまが感じられるとわたしはほのかな悦びを覚えた。

  ――もっとわたしの言葉に煽られればいいのよ……


 こんなにも自分が汚い存在だと知ったのは今日が初めてだ。自分が自分でなくなりそうな――今まで築いてあったものが足元から崩れそうな恐怖も確かにある。けれど、そうさせたのは貴方だ。だからわたしは彼を挑発する。


 「甘く見ているのは貴方でしょう。だけど別に良いではありませんか。所詮わたしと貴方との関係は薄っぺらいモノなのですから」
  吐き捨てるように言い放つと彼はわたしを掴む力が強くなる。それはわたしの言動に反応している証拠であった。そして今まで握っていた主導権がわたしの手に入った瞬間でもある。
 (嗚呼、もっとわたしの言葉に反応して欲しい……!)
  そのために男の支配欲を引きずり出す言葉を選んだのだから。


 「――良く分かった」
  重い溜息を吐いた音が聞こえる。一拍の間を置いて、いつもより低い声で彼は呟いた。
 「アンタは俺のモノになる気はないのだな」
  自分に言い聞かせる彼はわたしの返事なんか求めていないようだった。わたしはそのことで一抹の不安が頭を過ぎる。
 (まさか……面倒になった?)
  駆け引きなんかしたことがないものだからやり過ぎてしまったのかもしれない。彼にとってわたしの存在価値なんて、家柄と子供が生める健康な身体のみである。強がろうとも替えのきく存在であるわたしは彼に見限られてしまえば、それで終わりなのだ。理解して今更手が震える。けれど、過ぎた時間は取り戻せない。わたしは彼の言葉を待つほかない――しかし思いやりのない言葉は、やはり自分に返ってくるもの。悪意をぶつけてしまった時点で、彼は自分の心をわたしにぶつけることを諦めたようだった。



 「……今まで悪かった」
  絞り出すような力のない声で彼は謝り、わたしを拘束していたものを解いて、静かに部屋から出ていく。扉が閉まる音だけがやけに大きく聞こえ、けれど呼び止める言葉も見つからないまま茫然と見送るしかできない。
 (嗚呼、わたしどうしてあんなこと言っちゃったのっ!)
  頭の中は自分に対する嫌悪感でいっぱいになり、肌蹴た着物を直す気力もない。無様に床に転がったままの状態で、自分を責め続ける言葉だけが思い浮かぶ。
 (わたしって本当に馬鹿ね)
  傷付けた相手に謝罪すら出来ないなんて幼子以下だ。
 (ちゃんと謝らなきゃ……)
  彼に許されなくても自分の言ったけじめをつけなければ、人の道にそがれてしまう。勢い良く立ち上がり、見苦しくない程度に着物を整え、彼の部屋へ急ぐ。
 (胸が苦しい……)
  全力で走るということをしたことがなかったわたしにとって、走るということは中々大変なのだと思い知る。足はもつれ、腕は不格好に宙を切り、それでも先に急ぐ――彼に自分の気持ちを伝えたくて。



  ――けれど、わたしの判断は遅かった。
  彼は既に屋敷を後にしていて、もう帰ってくることはなかったのだから。
  わたしに残るのは後悔だけだった。






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