上 下
39 / 53
4章 嫉妬と独占欲

10

しおりを挟む
 椿は、その涙をそっと拭った。

「そうだったの。そんなことがあったとは知らずに、ごめんなさい。あなたたちをびっくりさせようと思って急に予告もなしに美琴様を連れて行った私にも、責任はあるわ」
「椿姉も美琴様も悪くないよ。ただ、私が勝手に思い込んで美琴様に八つ当たりしただけだから……。私が悪かったの。本当にごめんなさい」

 吉乃の小さな胸の痛みを思うと、苦しかった。ずっと吐き出せずにため込んでいた苛立ちや苦しみを、分かってやれなかったことが悔しくもある。
 それに。

「……でも、あなたの言葉を聞いて私もはっとしたの。もしかしたら私もあなたたちの気持ちを分かってなかったのかもって。私があなたたちにこれまでしてきたことは、ただの自己満足なのかもしれないって……」

 今まで子どもたちのためになればとあれこれとやってきたけれど、それがすべてぬくぬくと守られて生きている人間の自己満足だったのだとしたら? 
 自分の中にある罪悪感をごまかすための、ただの欺瞞だったとしたら?

「ずっと……後ろめたかったの。自分がこんなに幸せをもらっていることが申し訳なくて、ずるい気がして。人の幸せを取り上げた私が、幸せになっていいはずないのにって。だから私がしてきたことなんて、本当はあなたたちのためになんて何一つなっていなかったのかもしれない……」

『あなたったらまるで、無欲な振りして自分を戒めているみたい。欲しいものを欲しいということは別に罪じゃないわ。欲があるから、人は生きていけるんだもの』と言った、エレーヌの声がよみがえる。

 エレーヌの言う通りだ。
 望んではいけないと思っていた。幸せになってはいけない、なる資格がない。人の幸せを奪い取った自分にはこれ以上の幸せを望む権利もないし、誰かのために役に立つことでしか、恩を返していくことでしか、きっと罪を払拭できないと。ずっとそう思っていた。

 だから必死だった。恩を返さなきゃ、役に立たなくちゃ、誰かのために何かしていなくちゃといつだって思っていたのだ。両親へも、和真へも、孤児院の子どもたちへも。
 でももしそれが全部、心の中に暗く巣食った罪悪感を打ち消したくてしてきたことなのだとしたら――。

 自分の中にある暗く澱んだずるい感情に気がつき、深くうなだれる。
 自分の浅ましさが恥ずかしく、情けなかった。

「違う! 違うよっ。椿姉、それは違うよ!」

 叫ぶような吉乃の声に弾かれたように頭を上げる。
 吉乃はぎゅっと椿の手を握ると、ぶんぶんと大きく首を振った。

「椿姉、それは絶対に違うよ。そんなこと、思ったことない。椿姉のしてくれたことをそんなふうに思ったこと、一度だってないよ。椿姉、椿姉はさ。手を握ってくれるの。汚れていてもボロボロの服を着ていても、気にせずただ優しくぎゅっと握ってくれる。抱きしめてくれるんだよ。それがどんなに嬉しいか、わかる?」

 吉乃の表情が、ふと柔らかくなった。

「椿姉は、どんな時も私たちをちゃんと見てくれる。目を見てちゃんと話を聞いてくれて、一緒に悩んだり考えたり喜んだりしてくれるの。私たちは、それが嬉しいの。椿姉がいてくれて、私たちがどんなに嬉しいかわかる? 私たち、椿姉からいっつもたくさん幸せをもらってるんだよ」

 吉乃の目が、椿を真っ直ぐに強くとらえる。その揺るぎなさに、椿の視界が大きくにじんだ。

「本当に……? 私、ちゃんとあなたたちのこと思えてる? 傷つけたり、苦しめたりしていない? 私のしてきたことで、あなたたちを嫌な気持ちにさせたり傷つけたりしていない? 一度も?」

 つい、声が震えた。
 こんなこと、病床にいる吉乃に言うべきではないのに。

 でも自分にはもう誰も幸せにできない、そんな気持ちにかられていた。和真のことも、両親のことも、誰一人自分が役に立つことも恩を返すこともできないのではないかと。こんな浅ましいずるい人間に、誰かを幸せにできるはずないとそう思えて。

「ちょっとっ……、椿姉。泣かないで? 椿姉は何も悪くない。悪いのは私で、美琴様だって悪くない。私、椿姉だから、椿姉の連れてきたお友だちだからあんなふうにイライラをぶつけちゃったの。椿姉なら許してくれるって思ったから。椿姉ならあやまったら許してくれるって、きっと甘えちゃったから……。だから」

 吉乃がひくっとしゃくり上げるのを聞いて、慌ててその小さな汗ばんだ背中をさする。

「私こそ、おかしなことを言ってごめんなさい。忘れてちょうだい。これは私の問題で、あなたたちにこんなこと言うべきじゃないのに……。ごめんなさい、吉乃。あなたの気持ちはよく分かったわ。美琴様も怒ってなんかないわ」
「……本当? 本当に?」
 
 励ますように大きくうなずくと、吉乃の顔に安堵の色が広がった。

「良かったぁ。美琴様には、あとでちゃんと謝る。大丈夫、もうあんなひどいこと言ったりしない。それに本当は、椿姉の友だちなら、いい人に決まってるもんね!」

 吉乃の表情が明るくなった気がする。

 胸の中にため込んでいた気持ちを吐き出して、楽になったのかもしれない。思わず吉乃に気持ちを吐露して困らせてしまったことを悔やみながらも、吉乃に笑顔が戻ったことが嬉しかった。

「でもさっき言ったこと、椿姉は忘れないでね。ちゃあんと分かっててよ。私たちがどんなに椿姉が大好きか、いてくれて嬉しいか。いっぱい私たちに幸せをくれてるよ、椿姉は。だからそんな悲しいこと言わないで。ずっと、一緒にいてね? 椿姉がいてくれたら、きっと頑張れる気がするから」

 胸にほんのりとあたたかい灯がともった気がした。
 心の中の闇を明るく照らしてくれる、そんなあたたかな光。

「うん……、ありがとう。吉乃。絶対に忘れないわ。ずっと皆のそばにいるって約束する。……ありがとう。吉乃」

 頭をなでると、吉乃が少しはにかみながらあどけない顔で笑った。
 そして、吉乃は安心したようにすうっ、と安らかな寝息を立てはじめたのだった。
 




 椿と美琴は、懸命に子どもたちと院長の世話に明け暮れた。
 その甲斐あってようやく子どもたちの熱も下がり、肺炎を起こしかけていた院長の容体も落ち着いた頃。

 玄関から、来訪者を告げるベルが鳴ったのだった。


 
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました

結城芙由奈 
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】 今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。 「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」 そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。 そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。 けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。 その真意を知った時、私は―。 ※暫く鬱展開が続きます ※他サイトでも投稿中

多産を見込まれて嫁いだ辺境伯家でしたが旦那様が閨に来ません。どうしたらいいのでしょう?

あとさん♪
恋愛
「俺の愛は、期待しないでくれ」 結婚式当日の晩、つまり初夜に、旦那様は私にそう言いました。 それはそれは苦渋に満ち満ちたお顔で。そして呆然とする私を残して、部屋を出て行った旦那様は、私が寝た後に私の上に伸し掛かって来まして。 不器用な年上旦那さまと割と飄々とした年下妻のじれじれラブ(を、目指しました) ※序盤、主人公が大切にされていない表現が続きます。ご気分を害された場合、速やかにブラウザバックして下さい。ご自分のメンタルはご自分で守って下さい。 ※小説家になろうにも掲載しております

婚約者が他の女性に興味がある様なので旅に出たら彼が豹変しました

Karamimi
恋愛
9歳の時お互いの両親が仲良しという理由から、幼馴染で同じ年の侯爵令息、オスカーと婚約した伯爵令嬢のアメリア。容姿端麗、強くて優しいオスカーが大好きなアメリアは、この婚約を心から喜んだ。 順風満帆に見えた2人だったが、婚約から5年後、貴族学院に入学してから状況は少しずつ変化する。元々容姿端麗、騎士団でも一目置かれ勉学にも優れたオスカーを他の令嬢たちが放っておく訳もなく、毎日たくさんの令嬢に囲まれるオスカー。 特に最近は、侯爵令嬢のミアと一緒に居る事も多くなった。自分より身分が高く美しいミアと幸せそうに微笑むオスカーの姿を見たアメリアは、ある決意をする。 そんなアメリアに対し、オスカーは… とても残念なヒーローと、行動派だが周りに流されやすいヒロインのお話です。

【完結】生贄になった婚約者と間に合わなかった王子

ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
フィーは第二王子レイフの婚約者である。 しかし、仲が良かったのも今は昔。 レイフはフィーとのお茶会をすっぽかすようになり、夜会にエスコートしてくれたのはデビューの時だけだった。 いつしか、レイフはフィーに嫌われていると噂がながれるようになった。 それでも、フィーは信じていた。 レイフは魔法の研究に熱心なだけだと。 しかし、ある夜会で研究室の同僚をエスコートしている姿を見てこころが折れてしまう。 そして、フィーは国守樹の乙女になることを決意する。 国守樹の乙女、それは樹に喰らわれる生贄だった。

王命を忘れた恋

須木 水夏
恋愛
『君はあの子よりも強いから』  そう言って貴方は私を見ることなく、この関係性を終わらせた。  強くいなければ、貴方のそばにいれなかったのに?貴方のそばにいる為に強くいたのに?  そんな痛む心を隠し。ユリアーナはただ静かに微笑むと、承知を告げた。

初夜をボイコットされたお飾り妻は離婚後に正統派王子に溺愛される

きのと
恋愛
「お前を抱く気がしないだけだ」――初夜、新妻のアビゲイルにそう言い放ち、愛人のもとに出かけた夫ローマン。 それが虚しい結婚生活の始まりだった。借金返済のための政略結婚とはいえ、仲の良い夫婦になりたいと願っていたアビゲイルの思いは打ち砕かれる。 しかし、日々の孤独を紛らわすために再開したアクセサリー作りでジュエリーデザイナーとしての才能を開花させることに。粗暴な夫との離婚、そして第二王子エリオットと運命の出会いをするが……?

【完結】殿下、自由にさせていただきます。

なか
恋愛
「出て行ってくれリルレット。王宮に君が住む必要はなくなった」  その言葉と同時に私の五年間に及ぶ初恋は終わりを告げた。  アルフレッド殿下の妃候補として選ばれ、心の底から喜んでいた私はもういない。  髪を綺麗だと言ってくれた口からは、私を貶める言葉しか出てこない。  見惚れてしまう程の笑みは、もう見せてもくれない。  私………貴方に嫌われた理由が分からないよ。  初夜を私一人だけにしたあの日から、貴方はどうして変わってしまったの?  恋心は砕かれた私は死さえ考えたが、過去に見知らぬ男性から渡された本をきっかけに騎士を目指す。  しかし、正騎士団は女人禁制。  故に私は男性と性別を偽って生きていく事を決めたのに……。  晴れて騎士となった私を待っていたのは、全てを見抜いて笑う副団長であった。     身分を明かせない私は、全てを知っている彼と秘密の恋をする事になる。    そして、騎士として王宮内で起きた変死事件やアルフレッドの奇行に大きく関わり、やがて王宮に蔓延る謎と対峙する。  これは、私の初恋が終わり。  僕として新たな人生を歩みだした話。  

妹と旦那様に子供ができたので、離縁して隣国に嫁ぎます

冬月光輝
恋愛
私がベルモンド公爵家に嫁いで3年の間、夫婦に子供は出来ませんでした。 そんな中、夫のファルマンは裏切り行為を働きます。 しかも相手は妹のレナ。 最初は夫を叱っていた義両親でしたが、レナに子供が出来たと知ると私を責めだしました。 夫も婚約中から私からの愛は感じていないと口にしており、あの頃に婚約破棄していればと謝罪すらしません。 最後には、二人と子供の幸せを害する権利はないと言われて離縁させられてしまいます。 それからまもなくして、隣国の王子であるレオン殿下が我が家に現れました。 「約束どおり、私の妻になってもらうぞ」 確かにそんな約束をした覚えがあるような気がしますが、殿下はまだ5歳だったような……。 言われるがままに、隣国へ向かった私。 その頃になって、子供が出来ない理由は元旦那にあることが発覚して――。 ベルモンド公爵家ではひと悶着起こりそうらしいのですが、もう私には関係ありません。 ※ざまぁパートは第16話〜です

処理中です...