19 / 53
2章 四度あることは五度ある
11
しおりを挟む均衡を破ったのは、美琴だった。
「当矢!」
美琴の凛とした声が緊迫した空気を切り裂き、当矢はびくりと肩を震わせた。
「……当矢、あなたは本当に平気なの? 私が他の方の元に嫁いでも、他の方に触れられても、他の誰かと幸せになっても本当に平気なの?」
そして美琴は当矢につかつかと歩み寄り、その前に立った。
「……美琴お嬢、様?」
頭ひとつ大きいはずの当矢がなぜか美琴よりも小さく見えた気がして、椿は目をこする。
美琴は真っ直ぐに当矢へと視線を向け、凛とした声で言った。
「……当矢。私は、あなたが好き。あなたのことが物心ついた頃からずっとずっと好きだった。あなた以上にありのままの私のことを知っている人はいないわ」
美琴の気迫に圧されるように、当矢は困惑しつつうなずいた。
「大人になればいつかは誰かと結婚しなければならないと、ずっと思ってきたわ。たとえそれが好きな人でなくても、家のためにそうすべきなんだって。……でも私、あなたとじゃなきゃ絶対に幸せになんかなれない」
「美琴お嬢様……。ですが自分は……」
一瞬当矢は泣きそうな表情を浮かべ、何かを言いかけようとして言葉を飲み込んだように見えた。
「……私は、幸せになれないの? この先ずっと叶えられなかった思いを後悔しながら、悲しみながら生きていかなくてはならないの? ……私は、あなたと幸せになりたいわ。ありのままをわかってくれるあなたと、二人で幸せになりたいの。当矢。あなたは違うの?」
問いかけた美琴の目から、大粒の涙がぽろりと零れ落ちた。
当矢は身じろぎもせず、それを見つめていた。一瞬美琴の涙を拭うようなそぶりを見せたけれど、その腕は途中で固まったまま動かない。
「……私は」
この場にいる者全員が息をのんで、当矢の反応を待った。
一瞬の静寂のあと、声を振り絞るように、当矢が叫んだ。
「私は……、私も美琴お嬢様のことを誰よりも大切に思っております。本当は誰にも渡したくない……! 誰にも触れさせたくなどありませんっ! 私はあなたが欲しいのです。あなたの心も未来もすべて……! けれどそれにふさわしい資格が今の自分にはないのです。こんな自分があなたを欲しいなど、言えるはずがないのです」
遠くで木々に止まっていた鳥たちが羽ばたく音がする。
ふいに一陣の風が吹き抜けて、見つめ合う美琴と当矢の髪を揺らした。
目を見開いて信じられないと言った表情で見つめ合う二人に、和真が少し呆れたような色をにじませて口を挟んだ。
「資格なら、今からでも身につければいいじゃないか。その覚悟とやる気さえあるなら、死ぬ気でやれば手に入るんじゃないか? それとも挑みもせずに尻尾を巻いて逃げ出すのか?」
その辛辣な言葉に、当矢は鋭い視線を向ける。
「しかし私はただの使用人で……一体何をすれば認めてもらえると? 生まれは変えられない。それに雪園家には大恩だってある。あの屋敷を出ることなど……」
「遠山家が、いや。俺が手を貸すと言ったらどうする? 自分の力を認めさせるだけの努力をする覚悟が、お前にはあるか?」
和真は、真正面からじっとその心の奥底を探るような目で当矢を見すえた。
その強い視線に、当矢はしばし黙り込んだ。
「覚悟なら、ある。いくらでも、この命でも人生でもなんだって懸ける覚悟はある! 美琴お嬢様とともに生きていけるのなら、なんだってやってみせる!」
当矢の声が、静かな湖畔に響き渡った。
その言葉に和真は満足そうな笑みを浮かべ、そして美琴は信じられないといった表情でそっと当矢へ歩み寄った。
「本当……? 本当に? 当矢、ならば私をあなたの妻にしてください。きっとどんなことも乗り越えてみせますから。どんな時でもあなたと一緒にいると誓うから。だから……」
「……美琴お嬢様、本当にいいのですか? 私があなたにしてあげられることなど、何もないのですよ。贅沢な暮らしも大きな屋敷も与えてはやれません。私の命と人生くらいしか、あげられるものなんて」
苦しげな当矢の言葉に、美琴が小さく笑った。
「馬鹿ね。私だってあなたにあげられるものは、この命と人生だけよ。でもあなたがそばにいてくれるなら、それだけでいいの。あなたと一緒に生きられるのなら、それだけで」
当矢の視線が美琴に真っ直ぐに注がれ、二人は見つめ合った。そして当矢はその場に膝をついた。
「美琴お嬢様、どうかあなたの残りの人生と命を私に預けてください。今は未熟でも、必ず……必ず幸せにしてみせますから! だからどうか、私の妻になってください」
当矢の力強い求婚に、美琴の目から大粒の涙がこぼれた。
「……はい。謹んでお受けいたします。私はあなたとどこまでも一緒に、決して離れることなくともに生きてまいります」
「美琴お嬢様っ……!」
二人の心が結び合った瞬間だった。
その様子を、椿はじんと熱くなる思いで見つめていた。
心が通じ合う瞬間と言うのは、なんて美しいものだろう。必死で少し格好悪くて、けれどとても真っ直ぐにひたむきで。
「ようやくまとまったみたいだね」
気づけば隣に和真が並んでいた。
「そうね。二人とも嬉しそう。……でも、一時はどうなるかとハラハラしたわ。殴り合いにでもなるのかと」
美琴と当矢はすっかり二人の世界に入り込んでいる様子で、椿と和真がすぐそばにいることなど忘れてしまったようである。
友だちの幸せそうな姿は涙がこぼれるくらいに嬉しくはあるけれど、少々視線のやり場に困ってしまう。
椿は二人から視線を外し、そっと和真の横顔を盗み見た。
先ほどの甘い表情などどこかへいってしまったかのように、今はいつも通り飄々とした余裕ありげな表情を浮かべている。いつも通りの、子供の頃から見慣れた弟の顔だった。
けれどどうしても、さっき見たまるで自分の知らない和真の表情や声が脳裏から離れない。
「ねぇ、さっきのあれ……」
「ん? 何だい?」
椿は、続く言葉をのみ込んで慌てて首を振った。
何を聞こうとしたのか自分でもよく分からない。
でも美琴に向けたあの甘い言葉や態度が当矢に覚悟を決めさせるための振りであったことに、どこか安堵していた。
と同時に、これまで他の女性にあんなふうに甘い言葉をささやいたり触れたことはあるのだろうか、という疑念が沸き上がる。
そして、和真が他の女性に優しく触れて甘い言葉をささやいたり、たとえば抱きしめたりしている姿はできれば見たくないな、とも思うのだった。
6
お気に入りに追加
69
あなたにおすすめの小説
帰らなければ良かった
jun
恋愛
ファルコン騎士団のシシリー・フォードが帰宅すると、婚約者で同じファルコン騎士団の副隊長のブライアン・ハワードが、ベッドで寝ていた…女と裸で。
傷付いたシシリーと傷付けたブライアン…
何故ブライアンは溺愛していたシシリーを裏切ったのか。
*性被害、レイプなどの言葉が出てきます。
気になる方はお避け下さい。
・8/1 長編に変更しました。
・8/16 本編完結しました。
挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました
結城芙由奈
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】
今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。
「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」
そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。
そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。
けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。
その真意を知った時、私は―。
※暫く鬱展開が続きます
※他サイトでも投稿中
多産を見込まれて嫁いだ辺境伯家でしたが旦那様が閨に来ません。どうしたらいいのでしょう?
あとさん♪
恋愛
「俺の愛は、期待しないでくれ」
結婚式当日の晩、つまり初夜に、旦那様は私にそう言いました。
それはそれは苦渋に満ち満ちたお顔で。そして呆然とする私を残して、部屋を出て行った旦那様は、私が寝た後に私の上に伸し掛かって来まして。
不器用な年上旦那さまと割と飄々とした年下妻のじれじれラブ(を、目指しました)
※序盤、主人公が大切にされていない表現が続きます。ご気分を害された場合、速やかにブラウザバックして下さい。ご自分のメンタルはご自分で守って下さい。
※小説家になろうにも掲載しております
6年後に戦地から帰ってきた夫が連れてきたのは妻という女だった
白雲八鈴
恋愛
私はウォルス侯爵家に15歳の時に嫁ぎ婚姻後、直ぐに夫は魔王討伐隊に出兵しました。6年後、戦地から夫が帰って来ました、妻という女を連れて。
もういいですか。私はただ好きな物を作って生きていいですか。この国になんて出ていってやる。
ただ、皆に喜ばれる物を作って生きたいと願う女性がその才能に目を付けられ周りに翻弄されていく。彼女は自由に物を作れる道を歩むことが出来るのでしょうか。
番外編
謎の少女強襲編
彼女が作り出した物は意外な形で人々を苦しめていた事を知り、彼女は再び帝国の地を踏むこととなる。
私が成した事への清算に行きましょう。
炎国への旅路編
望んでいた炎国への旅行に行く事が出来ない日々を送っていたが、色々な人々の手を借りながら炎国のにたどり着くも、そこにも帝国の影が・・・。
え?なんで私に誰も教えてくれなかったの?そこ大事ー!
*本編は完結済みです。
*誤字脱字は程々にあります。
*なろう様にも投稿させていただいております。
婚約者が他の女性に興味がある様なので旅に出たら彼が豹変しました
Karamimi
恋愛
9歳の時お互いの両親が仲良しという理由から、幼馴染で同じ年の侯爵令息、オスカーと婚約した伯爵令嬢のアメリア。容姿端麗、強くて優しいオスカーが大好きなアメリアは、この婚約を心から喜んだ。
順風満帆に見えた2人だったが、婚約から5年後、貴族学院に入学してから状況は少しずつ変化する。元々容姿端麗、騎士団でも一目置かれ勉学にも優れたオスカーを他の令嬢たちが放っておく訳もなく、毎日たくさんの令嬢に囲まれるオスカー。
特に最近は、侯爵令嬢のミアと一緒に居る事も多くなった。自分より身分が高く美しいミアと幸せそうに微笑むオスカーの姿を見たアメリアは、ある決意をする。
そんなアメリアに対し、オスカーは…
とても残念なヒーローと、行動派だが周りに流されやすいヒロインのお話です。
【完結】生贄になった婚約者と間に合わなかった王子
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
フィーは第二王子レイフの婚約者である。
しかし、仲が良かったのも今は昔。
レイフはフィーとのお茶会をすっぽかすようになり、夜会にエスコートしてくれたのはデビューの時だけだった。
いつしか、レイフはフィーに嫌われていると噂がながれるようになった。
それでも、フィーは信じていた。
レイフは魔法の研究に熱心なだけだと。
しかし、ある夜会で研究室の同僚をエスコートしている姿を見てこころが折れてしまう。
そして、フィーは国守樹の乙女になることを決意する。
国守樹の乙女、それは樹に喰らわれる生贄だった。
初夜をボイコットされたお飾り妻は離婚後に正統派王子に溺愛される
きのと
恋愛
「お前を抱く気がしないだけだ」――初夜、新妻のアビゲイルにそう言い放ち、愛人のもとに出かけた夫ローマン。
それが虚しい結婚生活の始まりだった。借金返済のための政略結婚とはいえ、仲の良い夫婦になりたいと願っていたアビゲイルの思いは打ち砕かれる。
しかし、日々の孤独を紛らわすために再開したアクセサリー作りでジュエリーデザイナーとしての才能を開花させることに。粗暴な夫との離婚、そして第二王子エリオットと運命の出会いをするが……?
【完結】殿下、自由にさせていただきます。
なか
恋愛
「出て行ってくれリルレット。王宮に君が住む必要はなくなった」
その言葉と同時に私の五年間に及ぶ初恋は終わりを告げた。
アルフレッド殿下の妃候補として選ばれ、心の底から喜んでいた私はもういない。
髪を綺麗だと言ってくれた口からは、私を貶める言葉しか出てこない。
見惚れてしまう程の笑みは、もう見せてもくれない。
私………貴方に嫌われた理由が分からないよ。
初夜を私一人だけにしたあの日から、貴方はどうして変わってしまったの?
恋心は砕かれた私は死さえ考えたが、過去に見知らぬ男性から渡された本をきっかけに騎士を目指す。
しかし、正騎士団は女人禁制。
故に私は男性と性別を偽って生きていく事を決めたのに……。
晴れて騎士となった私を待っていたのは、全てを見抜いて笑う副団長であった。
身分を明かせない私は、全てを知っている彼と秘密の恋をする事になる。
そして、騎士として王宮内で起きた変死事件やアルフレッドの奇行に大きく関わり、やがて王宮に蔓延る謎と対峙する。
これは、私の初恋が終わり。
僕として新たな人生を歩みだした話。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる