夜明けが告げるもの

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後編

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 ブンちゃんが売れっ子ホステスになるまでにそう時間はかからなかった。
 さすがにナンバースリーとまではいかなかったが、由梨江は路傍の石の如く追いやられた。
 認めたくはなかったが、ブンちゃんは雑学に長けていて、話がうまかった。場を盛り上げる術も心得ていた。加えて、オネエ口調も客の受けがよかったようだ。
 ブンちゃんの存在は、店の在り方を変えつつあった。
 例えば、常連の客はお気に入りの女の子とブンちゃんをセットで指名することが増えた。
 ブンちゃんが加わることで盛り上がり、接待がうまくいったり、お目当ての女の子との距離が縮まったりするのだという。
 また、佐伯だけでなく、キャストに囲まれて居心地悪そうにしていた客たちからもブンちゃんは好評だった。
 だが、何よりいたたまれないのは、リサたち若手のホステスたちの態度だ。
 あれだけ毛嫌いしていたくせに、いつの間にか、みんなブンちゃん、ブンちゃんとやけに懐いている。若い女なんて勝手なものだ。
「ブンちゃん、明日同伴なの。あたし頭悪いから、ざっと今週のニュース教えて。そうだなあ、一分くらいで!」
 以前は由梨江を頼っていたリサがブンちゃんに教えを乞いている。
「アンタってば、ほんとにバカね。一分でなんて無理に決まってるじゃない。スマホでゲームばっかりしてないで、たまには新聞でも読みなさいよ」
 呆れたように言うが、ブンちゃんはまんざらでもなさそうだ。もともと面倒見がいいのかもしれない。
 政治がどうの言っている合間に、リサの小声が耳に届いた。
「そういえば、最近ユリさんヒマそうだから、ブンちゃんヘルプで呼んであげなよ」

 もはや我慢の限界だった。



 お先にと言いながら、次々と女の子たちは店を後にしていく。中には、客とのアフターに出かける子もいる。そんな中、由梨江は力尽きたように控室でぼんやりしていた。先ほどのリサの声が頭から離れない。
 ふと、鏡ごしにブンちゃんの姿が見えた。腕組をして、由梨江を睨んでいる。
「なにか用?」
「アンタ、ひどい顔してるわよ。すごいブサイク」
「ほっといてよ。あんたには関係ないでしょ」
 ブンちゃんはやれやれといった風に、わざとらしく息を吐いた。
「アンタさあ、アタシに言いたいことがあるなら、はっきり言えば? この際だから言うけど、いっつもそんなジトジトした目で見られてるとこっちだって気分が悪いのよ」
 由梨江の肩がぴくりと動いた。それから緩慢な動作で立ち上がり、ふらふらとブンちゃんの前に出た。
「なによ?」
 怪訝な目つきで、由梨江の顔色を窺おうとする。
「言いたいことですって?」
「そ、そうよ」
「あんたに言いたいことなんて」
 由梨江は息を吸い込んだ。幸い、今は誰もいない。冷静になんかなれない。
「たくさんあるに決まってるじゃない! あんた他人ひとの客取ってんじゃないわよ! うちの若い子たちに取り入ってるんじゃないわよ!」
 ブンちゃんが目を丸める。
他人ひとの客って……それってまさか佐伯さんのこと? 冗談でしょう? アンタ、佐伯さんに指名されたことあるわけ?」
「うるさいっ!」
 勢い掴みかかると、ブンちゃんのシルクのシャツの第二ボタンが弾け飛んだ。驚いたブンちゃんが声を上げ、由梨江に何か言おうとしたが、その先は続かなかった。
 由梨江の目には薄い膜が張っていた。目尻で食い止められていたそれは由梨江の意志とは関係なく、頬から顎へと伝い、床へと落ちていく。やがて嗚咽が漏れ始めた。
「……あーあ、女のヒステリーはほんと嫌だ。めんどくさいったらありゃしない」
 心底呆れたようにブンちゃんは大きくため息を吐いた。



 ビールを一気に半分ほど飲み、由梨江はピーナッツを齧った。スツールをひとつ挟んだ隣では、ブンちゃんが甘ったるそうなカクテルを飲んでいる。
 ブンちゃんに掴みかかり、喧嘩になると思った矢先、店を閉めるからとふたりは店長に追い出された。
 由梨江は化粧崩れした顔のまま、うつむき加減に夜道をとぼとぼ歩いた。このまま、誰もいない真っ暗な部屋に帰るのが嫌で、足は自然と霧島のもとへ向かっていた。そこになぜかブンちゃんが勝手についてきて今に至る。

「今夜はえらくご機嫌ななめだね。そちらの彼女と何かあった?」
「別に」
 彼に嘘は通じない。だけど、それが嘘だと気付いても、それを見逃してくれることは知っている。
「ユリは、ここの常連?」
 ブンちゃんの問いに、霧島が「贔屓にしてもらってます」と答える。
「アンタさあ、いくら常連だからって、そんな顔してたら店から追い出されるわよ。ほかのお客の迷惑になるからって」
「彼はそんなことしない。ビールおかわり」
「はい、ビール。散々仕事で飲んでるんだから、飲みすぎるなよ。体にも美容にも悪い」
「うん、ありがと」
 言いながら、また一気に半分ほど飲み干してしまう。
 霧島の目が困ったように笑っている。それが妙に心地いい。彼を困らせていることが悦なのかもしれない。
「で、あんたはなんでここにいるわけ?」
 横目でブンちゃんを見た。
 訊ねてはみたが、本当は心配してくれていることはわかっていた。だが、傷つけられたプライドと、大泣きした恥ずかしさから、素直に向き合うことはできそうになかった。
 ブンちゃんはカクテルグラスの足を弄んでいる。変なメイクなのに、時折女らしい仕草をする。

「アタシ、オンナって嫌いなのよね」
 ため息まじりに呟かれたその言葉に、由梨江はブンちゃんのほうへ顔を向けた。
「女なのに?」
「あらあ。ちゃんと女だって認めてくれてるの。嬉しいわね」
 言うほど嬉しくはなさそうだ。由梨江は肯定も否定もしなかった。
 ブンちゃんはフンと鼻を鳴らして、煙草に火をつけた。面倒くさそうに白い煙を吐き出す。
「女が嫌いな理由はふたつあるの。ひとつは、女の上にあぐらをかいてることよ。女であることが当たり前であることよ。アタシたちが女であるためには並々ならぬ努力があるの。アンタだってホルモン注射くらい聞いたことがあるでしょ?」
 横目でぎろりと由梨江を睨む。
「女だって、女を磨くのにいつも必死よ。美容院だの、エステだの、ネイルだの。女の上にあぐらなんてかいていないわ」
「だけど、アンタたちは、オネエのアタシに負けるわけがないって、そう思ってたでしょ?」
 返す言葉がなかった。確かにブンちゃんが入ってきた時、誰もが彼女の存在を異端と感じ、客にだって受け入れられるはずがないと決めつけていた。
「それに、ここのマスターに追い返されたりしないっていう自信だって、アンタが女だからじゃないの? 仮に男だったとして、そんなふうに思えるものかしら」
 由梨江は黙ってビールグラスに視線を戻した。ブンちゃんの言っていることは、なんとなく理解できた。女であることに、甘えていないとは言い切れない。
 これまで意識したことはなかったが、日々生きていく中でサービスされるのも、ご馳走してもらうのも、優しくされるのも、送ってもらうのも、いつしか当たり前になっていた。
 だけど、もし私が男だったら、きっとそれらは当然のことではなかったはずだ。
 由梨江は複雑な思いでビールを飲み干した。
「ふたつめは、嘘をつくことよ」
「私は、嘘なんかつかない」
「そう。アンタみたいなことを言う女が最悪なのよ」
 ブンちゃんはカクテルのチェリーをいやらしく口に運んだ。
「本人たちは嘘をついている自覚すらないんだからね」
「どういうことよ?」
「おもしろそうな話をしてるね。はい。これは、俺のおごり」
 霧島がビールとカクテルのおかわりをカウンターに置いた。
「ありがと。だけど、別におもしろくなんかないわ。さっきから散々なこと言われてるんだから」
「へえ。その割には結構真剣に聞いてるよね。案外、的を得てるのかな」
 にっこりと笑って、ナッツのおかわりの皿も差し出してくれた。
「で?」
 由梨江はブンちゃんに続きを促す。
「アンタたちはさ、嘘で身を固めるあまり、嘘が本当になっちゃってるのよ。だから、嘘をついている自覚すらない。つまりね、自分にすら正直じゃないわけよ。アタシからすれば、それってすごく怖いことよ」
 ブンちゃんが大げさに身震いするフリをする。
「ちょっと待ってよ。そういうのは嘘とは言わないでしょう? 社会で生きていくためのマナーみたいなものよ。誰もがあんたみたいに自由気ままに生きられるわけじゃないんだから。それに、それが嘘つきと言うなら、男だってそうじゃない」
「まあ、一理あるわね。だけど、男は嘘だと自覚していることが多いわ。ねえ、マスター?」
 突然の問いかけに、霧島が首をかしげると、ブンちゃんはもう一度説明した。
「男は嘘に自覚があるかって? そうだね、あるかもしれない」
「たとえば?」
 由梨江が口を挟む。霧島は顎に手を添え、少しだけ考えてから口を開いた。
「たとえば女の子を口説く時、かわいくない子にかわいいねって言ったとする。だけど、そう口にしたとしても、かわいいと錯覚することはない。そういうことかな?」
「当たり」
 ブンちゃんが手を叩いた。
「マスターってば、さすがね。アタシ惚れちゃいそうよ。これからも、ここ、通わせてもらうわね」
「それはどうも」
 端に座るOL二人組に呼ばれた霧島の背中を目で追っていると、ブンちゃんの視線を感じた。由梨江は居心地悪く顔を背ける。
「アンタさあ、マスターのこと好きなんでしょ?」
「へ?」
「へ? じゃないわよ、もう」
「やめてよ。そんなわけないじゃない。彼は友達、ううん、戦友みたいなものだもの」
 グラスを口に運ぶ。どうしてか今夜は口の中に苦みが広がる。
 わかってる。たぶん、これはビールのせいじゃない。



 気がつくと、由梨江はブンちゃんに支えられ、足を引きずるようにして夜が明け始めた街を歩いていた。
「ブンちゃん?」
 口を開きかけた途端、急に胃から迫り上がってくるものを感じ、その場にしゃがみこむとブンちゃんがコンビニのレジ袋を口元に当ててくれた。
「まったく、女の酔っ払いはサイテーね」
 背中をさすりながらブンちゃんはぶつくさ言っている。

「私ね、前に彼を誘ったことがあるの」
 ブンちゃんは黙っていた。
「彼がまだホストだった頃よ。すごく喜んでくれたわ。ユリと一緒なら何でも楽しいけど、せっかくだからちゃんとプランを立てようって言ってくれた。どこへ行って何をしようかって、ふたりでたくさん、たくさん考えたわ。楽しかった。だけど、結局実現はしなかったの」
 仕事帰りの風俗嬢っぽい女の子が、由梨江たちには一瞥もくれず疲れ切った顔で通り過ぎていく。酔っ払いが倒れこんでるのなんてたいして珍しくもないのだろう。ここはそういう街だ。
 由梨江は袖口で口元をぬぐった。
「まあ、お互いに仕事が忙しかったし、仕方ないって思った。だけど、そんなんじゃないってことは私が一番よくわかってたの」
 目頭がつんとして、喉の奥が震えた。
 ずっと認めたくなかったことを、今、認めようとしている。由梨江はまだ少しひんやりとした空気を吸い込んだ。
「だって、当然でしょ? 私も同じ仕事してるんだから」
「もういいわよ」
 ブンちゃんが頭を撫ぜる。ごついのに優しい手だ。
「穂高は決して店の外で私と会おうとはしなかったの」
 ブンちゃんの長いツメが耳をかすめた。
「それを認めたくなくて、それでも諦めきれなくて、だけど他の女みたいに貢ぐだけのバカにはなりたくなくて、私は勝手に戦友なんて言葉で逃げていたの。ブンちゃんの言う通りよ。私はずっと自分を騙してきたんだから」
 ぽとりと、涙が落ちた。
 言葉にしてしまえば、どれほどお粗末なプライドだったかが身に染みる。
 結局のところ、自分は他の女とは違うと思いたかっただけだ。自分は特別だって思いたかっただけだ。それも霧島のためじゃない。自分のためにだ。
 ただ、みじめになりたくなかったから。
「アンタ、本当にバカね。水商売のくせに、真面目すぎなのよ。まっとうすぎなのよ。アタシのぼやきなんて適当に聞き流せばいいのに。これじゃまるでアタシがあんたを泣かせたみたいじゃない」
 差し出されたハンカチで涙をぬぐう。
「だけどさ、アタシはアンタのこと、そう嫌いじゃないわよ。たまには、アンタみたいなまっとうなホステスも悪くないわ。指名率は悪くてもね」
「うるさい」
 余計なひとことを付け足され、由梨江はブンちゃんの腕を思いきり叩いた。



 その夜、由梨江はブンちゃんのヘルプについた。佐伯のテーブルだ。
 つい先ほどまで二日酔いで死にそうだったが、ドレスに着替えてしまえば自然と気合が入る。
 ブンちゃんは変わらずのテンションで佐伯だけでなく、同席している彼の上司とマナミを楽しませていた。
 由梨江も胸のつかえが少しとれて、いつもよりリラックスしている。

『ホステスっていうのはお客様を楽しませるだけじゃない。その楽しい時間をお客様と共有するの』ふと、新人の頃に先輩から聞かされた話を思い出した。
 大切な事なのに、いつの間にか忘れていた。そうして、まるで作業を繰り返すかのように客と接していた自分こそホステスの矜持に欠けていたのかもしれない。そう考えるといたたまれず、由梨江は小さく首を振る。
「ウイスキー、薄めに作りますね」
 グラスが空きかけているのを見て、由梨江がそっと佐伯に耳打ちすると、見覚えのあるネクタイであることに気づいた。
 ヘンテコな柄のやつだ。そのくせ、よほど大切なのか由梨江が触れることを極端に嫌がっていた。
 彼女からのプレゼントなのだろうか。だとしたら、その彼女のセンスを疑ってしまう。
「前にそのネクタイよくお似合いです、って言ったの覚えてます?」
「覚えてる」
「ごめんなさい、それ、ウソです。その、申し訳ないんですけど、ちょっとその柄は・・・・・・」
「おかしいだろう?」
 佐伯がくっと笑いをこぼした。
「え?」
「ほら、田中さん。やっぱりネクタイ変ですって!」
 佐伯が彼の上司に食いついた。
 聞けば、そのネクタイは上司からのプレゼントだったらしい。といっても、ジョークでだ。同僚の間でも笑いダネになって、仕事でミスをしたらそのネクタイをするというローカルルールができたのだという。
 由梨江は思わずおなかを抱えて笑ってしまった。
 いつも真面目そうな佐伯がミスをするということも、嫌々同行しているのかと思っていた上司とじつは仲が良いことも、涙が出るほどおかしかった。
 そして、客の一面しか見ようとしてこなかった自分のことも。
「ごめんなさい、笑いすぎですよね?」
 佐伯に見つめられていることに気づいた由梨江は慌てて笑いを引っ込めた。指先で涙のにじんだ目じりをぬぐう。
 佐伯はふっとほほ笑んだ。はじめて向けられる彼の笑顔に胸が音を立てる。
「ユリさんって、そんなふうに笑う人だったんだね」
 そのことばに、由梨江は声をつまらせる。

 本当の意味で、はじめて自分の仕事に誇りを持てたような気がした。
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