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序章 ~お姫さまが旅立つまでのお話~
洗濯係の下級使用人
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「なにやってんだい、アリッサム! 遅い仕事なら誰だって出来るんだよ!」
「はっ、はい! すみません!」
まだ陽が昇るよりも早い洗濯場の朝は、まさに戦場だ。この城で生活している者たちすべて、五百人以上分の洗濯物を決められた時間までに片づけなければならない。大勢のメイドたちが、額の汗もそのままに、せわしく無我夢中で働いていた。
「謝ってる余裕があるなら、さっさと手を動かす!」
別の洗濯係からも、アリッサムの薄い背中に向けて激が飛ぶ。
「す……」
口癖になっている謝罪の言葉が出てきそうになり、すぐにそれを飲み込む。
謝ってもまた怒られるだけだろうし、実際にそうであった。おとなしくて内向的な性格のアリッサムは、ほかの洗濯係たちのストレスの捌け口になっていたのである。
「あいよ。これもおまえがやりな、うすのろちゃん」
「……ありがとうございます」
自分の作業分ではない洗濯物まで押しつけられるのも、また彼女の日課となっていた。追加された近衛兵団の汗と脂で汚れた肌着を泡まみれになりながら、無言で洗濯板にこすり続ける。先輩の分を優先して終わらせなければならないからだ。
アリッサムの美しくて澄んだ碧眼に涙がにじんでいたのは、強烈な悪臭のせいだけではなかっただろう。
きょうもまた、こうして彼女の長い一日が始まった。
*
同日のお昼頃──。
燦々と降りそそぐ陽光の下、アリッサムは、風通しがよい中庭の一角で洗濯物の向きをひとりぼっちで変えていた。
もちろん、これは複数名で行う作業なのだが、ほかの洗濯係たちは彼女ひとりに任せ、きょうも勝手に休憩をとっていたからである。
けれども、アリッサムはくじけない。
どんなに辛く、過酷な状況であろうと、任された仕事は完璧にこなす。たとえ涙を流しても、心は決して折れない。それがアリッサム・サピアだ。
そんな彼女に、背後からひとりの人影が近づいて来る。
足音は聞こえない。無音のリズムが芝生に刻まれていた。
「アリッサム」
「はっ、はい!」
不意に名前を呼ばれ、慌てて振り返れば、メイド長が神妙な面持ちでこちらに歩いてくるではないか。
高級管理職の彼女が、末端の自分に挨拶以外で話しかけるのは非常にめずらしい。
小柄なアリッサムよりもニ十センチ以上背の高いメイド長が、すぐ手の届く距離で立ち止まる。
嫌な予感がする。
必然的に見下ろされるかたちになり、アリッサムの小さな胸は不安でいっぱいになって、今にも弾けて壊れそうで苦しくなった。
「アリッサム、毎日とてもよく頑張っていますね。あなたならきっと、そう遠くない将来、上級使用人になれるでしょう」
まさかの労いの言葉に、アリッサムは一瞬なにを言われたのかを理解が出来なかったが、その表情をすぐ太陽に負けないくらいの輝いた笑顔に変える。そして、メイド長に感謝の返事を述べようとした、まさにそのとき──。
「…………それだけに、とても残念です」
メイド長は、瞼を閉じて深いため息をつくと、威圧的な空気をかもし出しながら、腕を組んで目の前の下級使用人を睨みつける。
「アリッサム……あなた、メイドや侍女たちが脱いだ洗濯物の下着のにおいを嗅いでいますね?」
鋭い眼光が、瞬時に汚物を見るような冷たい目つきに変わる。
嫌な予感が的中した。
すべて、見られていた。
アリッサムは〝においフェチ〟で、しかも、若い同性の下着がとくに大好きだった。
日頃のストレス解消だけではない。この仕事を選んだのは、自らの性的嗜好を満足させる目的が多いにあったからである。
常に細心の注意をはらって行為に及んでいたのだが、それでも誰かに見られてしまったようだ。
「……えっと、それは……あの……えーっと、そのう……」
頬が一気に紅潮して、額から次々と汗が噴き出る。
もう視線は合わせられない。
弁明の言葉は、なにひとつ思い浮かばなかった。
「反論も釈明もしないということは、すべてを認めるのですね?」
「……はい……認めます……」
メイド長は目を閉じると、そのまま右手の人差し指と親指で鼻の付け根を摘む。そしてもう一度また、深くため息をついた。
「きょうまでの頑張りに免じて、大臣にこの件は報告しません。ただし、速やかに荷物をまとめて夜までにはこの城から出ていきなさい」
「そっ、そんな……! 後生です、メイド長! 仕事だけは、どうかクビにはしないでください! わたし、帰る実家もないんです! 天涯孤独なんです!」
「なら、愚かな過ちを犯しましたね。修道院にでも入って、その穢れきった魂を神に浄めてもらいなさい」
なんの言葉も返せないまま、アリッサムは足もとの青々とした芝生をじっと見下ろす。
さて、いったいこれからどうする?
汚名をかぶった自分が、なんの後ろ盾もなしに、貴族や豪商の屋敷でメイドとしてやり直せないのは明白だ。
考えろ、アリッサム──どんな苦境も、どんな困難も、今まで自分ひとりでうまく切り抜けてこれたじゃないか。
このとき、アリッサムの美しい碧眼は、澄んだ輝きから妖しい光へと変わっていた。
「はっ、はい! すみません!」
まだ陽が昇るよりも早い洗濯場の朝は、まさに戦場だ。この城で生活している者たちすべて、五百人以上分の洗濯物を決められた時間までに片づけなければならない。大勢のメイドたちが、額の汗もそのままに、せわしく無我夢中で働いていた。
「謝ってる余裕があるなら、さっさと手を動かす!」
別の洗濯係からも、アリッサムの薄い背中に向けて激が飛ぶ。
「す……」
口癖になっている謝罪の言葉が出てきそうになり、すぐにそれを飲み込む。
謝ってもまた怒られるだけだろうし、実際にそうであった。おとなしくて内向的な性格のアリッサムは、ほかの洗濯係たちのストレスの捌け口になっていたのである。
「あいよ。これもおまえがやりな、うすのろちゃん」
「……ありがとうございます」
自分の作業分ではない洗濯物まで押しつけられるのも、また彼女の日課となっていた。追加された近衛兵団の汗と脂で汚れた肌着を泡まみれになりながら、無言で洗濯板にこすり続ける。先輩の分を優先して終わらせなければならないからだ。
アリッサムの美しくて澄んだ碧眼に涙がにじんでいたのは、強烈な悪臭のせいだけではなかっただろう。
きょうもまた、こうして彼女の長い一日が始まった。
*
同日のお昼頃──。
燦々と降りそそぐ陽光の下、アリッサムは、風通しがよい中庭の一角で洗濯物の向きをひとりぼっちで変えていた。
もちろん、これは複数名で行う作業なのだが、ほかの洗濯係たちは彼女ひとりに任せ、きょうも勝手に休憩をとっていたからである。
けれども、アリッサムはくじけない。
どんなに辛く、過酷な状況であろうと、任された仕事は完璧にこなす。たとえ涙を流しても、心は決して折れない。それがアリッサム・サピアだ。
そんな彼女に、背後からひとりの人影が近づいて来る。
足音は聞こえない。無音のリズムが芝生に刻まれていた。
「アリッサム」
「はっ、はい!」
不意に名前を呼ばれ、慌てて振り返れば、メイド長が神妙な面持ちでこちらに歩いてくるではないか。
高級管理職の彼女が、末端の自分に挨拶以外で話しかけるのは非常にめずらしい。
小柄なアリッサムよりもニ十センチ以上背の高いメイド長が、すぐ手の届く距離で立ち止まる。
嫌な予感がする。
必然的に見下ろされるかたちになり、アリッサムの小さな胸は不安でいっぱいになって、今にも弾けて壊れそうで苦しくなった。
「アリッサム、毎日とてもよく頑張っていますね。あなたならきっと、そう遠くない将来、上級使用人になれるでしょう」
まさかの労いの言葉に、アリッサムは一瞬なにを言われたのかを理解が出来なかったが、その表情をすぐ太陽に負けないくらいの輝いた笑顔に変える。そして、メイド長に感謝の返事を述べようとした、まさにそのとき──。
「…………それだけに、とても残念です」
メイド長は、瞼を閉じて深いため息をつくと、威圧的な空気をかもし出しながら、腕を組んで目の前の下級使用人を睨みつける。
「アリッサム……あなた、メイドや侍女たちが脱いだ洗濯物の下着のにおいを嗅いでいますね?」
鋭い眼光が、瞬時に汚物を見るような冷たい目つきに変わる。
嫌な予感が的中した。
すべて、見られていた。
アリッサムは〝においフェチ〟で、しかも、若い同性の下着がとくに大好きだった。
日頃のストレス解消だけではない。この仕事を選んだのは、自らの性的嗜好を満足させる目的が多いにあったからである。
常に細心の注意をはらって行為に及んでいたのだが、それでも誰かに見られてしまったようだ。
「……えっと、それは……あの……えーっと、そのう……」
頬が一気に紅潮して、額から次々と汗が噴き出る。
もう視線は合わせられない。
弁明の言葉は、なにひとつ思い浮かばなかった。
「反論も釈明もしないということは、すべてを認めるのですね?」
「……はい……認めます……」
メイド長は目を閉じると、そのまま右手の人差し指と親指で鼻の付け根を摘む。そしてもう一度また、深くため息をついた。
「きょうまでの頑張りに免じて、大臣にこの件は報告しません。ただし、速やかに荷物をまとめて夜までにはこの城から出ていきなさい」
「そっ、そんな……! 後生です、メイド長! 仕事だけは、どうかクビにはしないでください! わたし、帰る実家もないんです! 天涯孤独なんです!」
「なら、愚かな過ちを犯しましたね。修道院にでも入って、その穢れきった魂を神に浄めてもらいなさい」
なんの言葉も返せないまま、アリッサムは足もとの青々とした芝生をじっと見下ろす。
さて、いったいこれからどうする?
汚名をかぶった自分が、なんの後ろ盾もなしに、貴族や豪商の屋敷でメイドとしてやり直せないのは明白だ。
考えろ、アリッサム──どんな苦境も、どんな困難も、今まで自分ひとりでうまく切り抜けてこれたじゃないか。
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