名前のないその感情に愛を込めて

にわ冬莉

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唐突な涙

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 鳥居の前、佇む人影。
「……だから、ここには来るなとあれほどっ、」
 仁王立ちで待ち構えていた雪光が苦情を述べようとするも、それを遮ってあずさは雪光に突進していた。まさに『突進』という言葉がぴったりな動きだった。早歩きでずんずんと進み、雪光の体にそのままぶつかるようにして頭をぐりぐり押し付けたのだから。

「お、おい、なんの真似だっ」
 戸惑う雪光にはお構いなしに、あずさは雪光の腕のあたりに頭をぐりぐりこすりつけた。
「ちょ、おま……あずさっ」
 あずさの肩に手を置き引き剥がそうとするが、あずさは雪光の腰に手を回し引っ付こうとする。
「わー! なんなんだよ、もーっ!」
 いつの間にか胸に顔を埋められ、雪光は両手を上げ降参の構えを取った。

「雪光、私に何かできること、ない?」
 顔を埋めた状態のまま、くぐもった声であずさが言った。
「は? 勝手に押し掛けた挙句、なんだその質問はっ」
「いいからっ、私にできること、ないっ?」
 声の調子から、あずさがふざけているのではないとわかった雪光が、優しく声を掛ける。

「……なにがあった? 俺でよければ話くらいは聞いてやるぞ?」
 そう言ってあずさの頭を撫でる。
 あずさは抱きついたままの状態で顔だけを上げ、雪光を見つめた。
「私、お見合いした」
「……おお、そうか」
 困った顔で返答する雪光。かまわず続ける。
「お見合いした相手、私の後輩が思いを寄せてる人だった」
「な、なるほど。それはちと面倒だな」
「私、結婚したくない」
「誰か好きな男でもいるのか?」
「違う。結婚を、したくない」
「は?」
「家の事情で好きでもない男と結婚することにも抵抗あるし、そもそも結婚したいと思ってない。まだ仕事頑張りたいし、自由でいたい」

 一度口にしてしまえば、言葉などスルスルと出てくるものだ。今まで溜まっていた鬱憤を晴らすかのように、あずさは喋り続けた。

「運命は最初から決まってるって言われた。だから逆らって生きるのは愚かだと。言われた通り、決められた運命に乗って生きていればそれでいいんだって。ほんと? ほんとにそう? だとしたら『私』って、なに? 今ここにいる自分が、なんだか藁で出来た人形みたいに思える。雪光のことも、可哀想って思っちゃ駄目なんだって。連れて行かれちゃうから駄目だって。私、雪光にだったら連れて行かれてもいいかもしれない」
「なっ、バカなこと言ってるんじゃないぞっ」
 肩を掴まれ、今度こそ引き剥がされる。

「連れて行かれてもいいなんて軽々しく口にするなっ!」
 険しい口調で、怒鳴られる。
「お前は今、生きてるんだろ? ちゃんとここにいて、意思があって、明日があって。目の前の困難くらい、どうとでも出来るだろうがっ」
 雪光の言葉に、あずさは顔を歪ませた。泣く気などなかったのに、涙が溢れてくる。

「お、おいっ、泣、」
 明らかに狼狽え始める雪光に、あずさは涙を拭いながら、
「ごめ、泣くつもりはなかったんだけど」
 と口にする。だが、一度溢れ出した涙はなかなか止まることがなく、あとからあとから泉の如く湧き出てくる。そのうち、泣いている自分がなんだかおかしくなって、くつくつと笑い始める。泣きながら、笑ってしまう。
 その様子があまりにも異質だったのか、雪光があずさの手を取り、
「おい、しっかりしろよっ」
 と、真剣な眼差しで顔を覗き込む。

 あずさはそんな雪光の顔を見て、よくわからない感情に支配された。
(なんだろう、これは、)
 考えるより先に、動いてしまう。
 自分を見つめる眼差し。目の前にある雪光の顔にそっと触れ、そのまま唇を重ねた。

 目を見開いた雪光は、今自分が何をされているのか理解するのに時間を要していた。なにしろ赤ん坊のころに捨てられてから、こんなことは今まで一度もなかったのだから。しかしこの行為がなんであるかくらい、知っている。これは、つまり、
「っ!」
 驚いて体を離そうとするが、頬に触れていたあずさの手は雪光の首へと絡みついている。がっちりホールドされていた。
「んっ、」
 少し離れては、またくっつく。まるで唇を食むように繰り返されるキス。頭の奥がふわふわして力が抜け始める。快楽などというものを知らない雪光にとっては、初めてのことである。

 気付けば、あずさを抱き締めていた。互いに、求めあうようなキスを交わす。何度も、何度も。
 だが、それは許される行為ではなかったのだ。

パンッ、パシッ

 何かが破裂するかのようなラップ音。それを聞いた雪光が慌ててあずさから離れる。
「……雪光?」
 名を呼ぶあずさに向かって、言い放つ。
「俺はもう、お前の前に姿を現すことはないっ。一刻も早くここを去れ! そして二度と、ここに来るな!」
「……え?」
 驚くあずさをその場に置き去りにし、雪光は鳥居の向こう側に姿を消した。そしてその瞬間、鳥居が、消えたのだ。

 そこはただの山の景色。
 屋敷にほど近い、林道だったのである。
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