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第5章 この腕に帰るまで
151 静かな怒り
しおりを挟む一瞬、リクは転んで人の波に飲まれたのかと思った。
だが違う。
違うと直感が告げた時には探索の魔法を放っていた。既に意識は臨戦態勢で、皮膚に触れるかすかな違和感に僕は祭壇を飛び下りる。すぐ後ろで異変を察した騎士ナジームが声を上げた。
「全員その場を動くな、魔法を禁ずる!」
突然の騒ぎに戸惑っていた人々は、ナジームの威圧魔法を含んだ声に動きを止めた。走るのは僕と、すぐに行動を起こし後ろについたザックのみ。
突然、リクの姿が消えた。
本人自ら姿を消す理由は無く、何者かが手を下したことは間違いない。
しかも、僕の探索にリクの気配は触れない。
強力な幻視の魔法をかけたのだ。あの場に居た全員に。もしくはリクの姿が見えないようにと。この巧妙な隠し方は並みの術師では無いことを現している。
「くそっ!」
思わず声が漏れる。
この僕ですから視認できないほどの魔法を操れる者は、わずかしかいない。その一番の容疑者の姿は無く、今は刻一刻と薄れる魔法の気配――残滓を逃さないように辿るだけで精一杯だ。
その気配の先に、信じられない動きを感じた。
「――っ! まさか……」
転移魔法。
国内では定められた場所にしか設置を許されず、無許可で魔法円を構築、起動させた場合は重罪となる。だがその魔法の気配と、不自然に開いた空間を目にして僕は愕然とした。
一見して何も無い、ただの石の床だ。
息を切らせ、屋上庭園の一角を前に立ち止まると同時に、目くらましを破る魔法を叩きつける。
幻視の術はあっさりと、まるで薄紙を剥がすかのように解けた。
と同時にたった今、何者かが転移した気配を色濃く残す、魔法円が浮かび上がる。リクの気配は、無い。
奪われた。
リクを……奪われた。
伸ばせば手が届く距離にいながら。
ほんの一瞬、目を反らした隙に、あっさりと奪っていった。その手際。使用した魔法の技術。犯人は疑いようもない。疑いようもないというのに、何も出来なかった僕がいる。
「おのれぇぇえ!」
叫び、拳を石の床に叩きつけた。
骨がみしりと音を立てる。
使用は一度限りで、転移先は分からないように細工されている。
時間をかければ解読はできるだろうが……それでは、間に合わない。既に現時点でも、転移先から別の場所に移動しているだろう。
この場所から祭壇までの距離はわずか。
数段高くなった儀式の場の、立つ位置によってはいくらでも目に入る場所だ。そんな場所に、このようなものが造られていたことに気づけなかった。
……気づかず、この六夜を過ごしていた。
口の端をわずかに上げ、嘲笑う顔が脳裏に浮かぶ。
奴は――ストルアンはずっとこの瞬間を狙っていたのだ。ジャスパーもいない、僕のコンディションが厳しい、一番能力が発揮できないタイミングを狙ってリクを奪う。
計画的に。じっくりと……機を、伺っていたのだと。
僕の斜め後ろで、ザックが息を飲み崩れ落ちる気配があった。
騎士を伴い駆けつけたナジームが、目の前に広がる魔法円に言葉を失う。
「奴……か。まさか、ストルアンがしでかしたと?」
あやしい行動があった。
もう来年は無いと、ナジームを始め儀式に携わる高位の者たちは思い始めていても、ストルアンは魔法院の中で最高権力に準ずる地位にあったのだ。むしろ僕の祖父、グラハムと共に大結界の基礎を築いた者の一人でもある。
アールネスト王国を守るために。
僕と同じく長い間、毎年、この大結界再構築に従事していた。
だからこそ、こんなあからさまな反逆行為など、ただの思いつきでできることではない。
国を捨てるという意思が無ければ。
――捨てるのだろう。
奴は、アールネストを捨てて祖国に牙を剥き始めた。その奥にどんな野望を隠しているのかは知らないが、その道具の一つとしてリクを狙った。
奪っていった。
ゆらり、と僕は立ち上がる。
怒りは僕の腹の底で灼熱の溶岩のように煮えたぎり、ゆっくりと、深く、呼吸を繰り返す。
魔法酔いからくる身体の痛みは感じない。
全ての音が遠く、霞んでいく。
「アーヴァイン!」
「離せ」
肩を掴む、ナジームの手を弾き飛ばした。
リクを取り戻す。
……殺してでも、取り返す。
一歩、踏み出す僕の腕をナジームが掴んだ。
再び弾き飛ばそうとする魔法をナジームは相殺して、低く呻いた。
「奴の罠だ」
「……だから、何だと?」
きっと僕は嗤っているだろう。
僕の大切な宝石を奪った。
そんな奴らに何の手加減がいるものか。僕が手加減をしないということは、僕を知る人物ならどのようなことになるか、十分に分かっているはずだ。
「行かせられない」
「許可は求めていない」
「お前には、まだ一夜、仕事が残っている」
「そんなもの――」
「言うな」
振り払おうとする腕を更に強く掴まれた。
「言うなよ、アーヴァイン」
ナジームが呻く。
「奴は、ストルアンはきっともう戻らない。ここでお前も消えたなら大結界は完成せず、六夜かけて再構築した術は決壊する。そうなればこの国がどうなるかは、お前もよく分かっているだろう」
国内で湧く脆弱な魔物とは比べものにならない、兇悪で狂暴な魔物が押し寄せ多くの民が命を失う。
この国に、平穏という言葉は無くなってしまう。
……だから、何だと言うのだ。
「リクがいないのに、国が残ろうと……」
「取り戻した後に暮らす場所を、お前は、捨てるつもりか?」
ナジームの指に力が入る。
「ただリクを閉じ込めて置くだけならば、地の果てでも行くがいい。だが、お前はこの世界……しいてはこの国の全てを、あの愛し子に与えたかったのだろう?」
僕の心の底を見透かすように、ナジームが言う。
リクの笑顔が脳裏に浮かぶ。
大きな馬に驚き、小さな子供たちと笑い、街の人たちと楽しそうに語らう姿。護衛の従者すら友人のように大切にして、小さな店の中で穏やかに過ごす。
その全ては……この国があってこそなのだと。
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