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第2章 届かない背中と指の距離
57 外の風
しおりを挟む誰だ? 足音から、ヴァンのものではない……気がする。
だとしても、こんな状態の自分を見られるわけにはいかない。
まだ疼きは残っている。けれど早く鎮めなければ……。
俺は慌てて周囲を見渡す。
涼を取るようにと溜めていた冷たい水の水甕に目を止めて、俺は手桶に手を伸ばす。そしてそのまま乱暴に汲んだ水を、頭からかぶった。
身を切るほどの冷たさでは無くても、一気に目が覚める。
「リク様ぁ?」
バスルームの半開きのドアの向こうで、護衛として付き従ってくれているマークの声がした。続く足音。ベルトに繋がる剣や装具の音から、いつも二人一緒にいる、兄ザックだろう。
「あれ、いないのかなぁ? こっちかな?」
不意に、バスルームのドアが開けられた。
瞬間……二人と視線が合う。息を飲む気配が伝わる。
「あっ! あぁっ! す、すみませんっ!」
目を見開く二人を見て、自分が裸だったと思い出した。
「あぁ……別に、大丈夫だよ」
「いやえっと……」
「ごめん、拭く物そっちに忘れてた、取ってくれる?」
あわあわしているマークの横をすり抜けて、無言のザックがタオルを取ってくれた。男同士だし、ゲイブの所で何度か汗を流したこともある。今さら隠さなきゃいけないものでもない。
「体調はもう大丈夫なのですか?」
無表情のまま手渡すザックの声は、少し緊張しているようにも聞こえた。
「うん、この間ジャスパーが来て調整してくれた。疲れが出ただけだろうてって……自分でも気づいていなかったけど、気を張っていたのかも」
髪と顔を拭く間に、呼吸を整える。
大丈夫だ。
二人の前でなら、普段どおりに振る舞える。
そう思いながらタオルから顔を出すと、まだ、呆然とした顔のマークがいた。
「ん……?」
「あ、いえ……その、今日のリク様、なんか色っぽい……ですね」
瞬間、首筋がカッっとなった。
全然……隠せてない?
「やめろよ!」
思わず吐き捨てた。
言ってから、ますます驚いた顔になったマークとザックに気がついて、俺はしまったと後悔する。
「あ……ごめん」
「リク様……」
「今のは俺の八つ当たり。ちょっとイライラしていた」
「あ、いえ、俺も言葉が悪かったです。申し訳ありません……」
マークがしゅんとした顔で謝罪した。
二人は立場上俺の護衛ではあるけれど、初めてできた同年代の友人として接してほしいと思っていたのに。いくら自分に余裕が無いからって、いきなり怒鳴るなんて……。
「リク様」
落ち込むマークの横で、黙って見ていたザックが声をかけて来た。
「外の空気を吸いに出ませんか?」
「えっ……?」
「歩けるぐらいの体調でしたら街を散歩しましょう。今日は良い風が吹いて、暑苦しさも落ち着いています」
「……でも、ヴァンは」
「アーヴァイン様からご許可は頂いております」
別に外出を制限されているわけじゃない。
それでもここ最近の俺の様子を心配して、魔法の練習も禁止、朝の水くみから家事も禁止と、とにかくベッドで横になっている以外のことはするなと言いつけられていた。
「そっ、か……ヴァンも一緒に?」
「いいえ。アーヴァイン様は来客があるとのお話でしたので、ご一緒しません」
「リク様、なんか美味い物でも食べにいきましょう!」
もう怒っていないと察したのか、マークが明るい声を上げた。
俺がいつも通りでなかったとしても、二人は普段通りに接してくれる。俺の魅了の影響を受けるかもしれないのに……大丈夫、だろうか?
「何か心配事でもありますか?」
「いや、俺また、さっきみたいにイラついて……二人に八つ当たりする……かも」
「リク様の八つ当たりなど可愛いものですよ」
ザックが笑う。
「可愛いとか言うなよ……」
今更気恥ずかしくなってきて、腰にタオルを巻きながら返す。
本当に、本当に大丈夫だろうか。少し二人と距離を離して歩けば、影響は抑えられるだろうか。魔法は夜に力が強くなると聞いている。今は昼過ぎだ。夕暮れまでに戻れば、問題ないだろうか。
「行きましょう! リク様!」
マークが俺の手を取る。
俺が「うん」と言うまで手を離さない勢いだ。たしかにずっと部屋にこもってばかりでもいけない。
「分かったよ、その前に服を着るからちょっと待っていて」
「あぁぁあっ! そ、そうでしたね!!」
慌ててマークが手を離した。
出かける準備を整えて一階の店舗に下りていくと、ヴァンがカウンターに座って本を読んでいた。
「ヴァン……」
「今日は少しいいのかい?」
久しぶりにヴァンの顔をちゃんと見たような気がする。
緑の綺麗な瞳を細めて柔らかな笑顔を向ける。俺がどんなにぎこちない態度で接しても変わらない。大人だな……と、思う。
「うん、大丈夫。……散歩、してくるよ」
「ゆっくりしておいで」
頷く俺の後ろで、ザックが「夕暮れには戻ります」と短く言った。
久しぶりに外へのドアを開ける。
元の世界のように息苦しいほどの湿度や熱気は無い。日差しは強くても、そよぐ風で初夏か晩夏のような心地よさがあった。
「久しぶりだな……」
「リク様、行きたいところありますか?」
マークがご機嫌な声でたずねる。
俺は首を傾げて返した。
ヴァンには、いろいろな場所に連れて行って貰った。けれどどれも生活に必要な場所で、ただあても無く街を歩く、ということはあまりしていなかった。
ベネルクは迷宮の上にできた街だと聞いている。観光名所のような所はあるのだろうか。
「どこ……というのも思い浮かばないな……。二人に任せるよ」
「でしたらお連れしたい所があるのです」
半歩後ろを行くザックが声をかけてきた。
「連れて行きたい所?」
「たぶん、リク様は初めて行くところだと思います」
「楽しみだ」
やっと自然な感じで笑い返しながら、俺は答える。
この異世界に来てから半年以上。……もうすぐ、一年になる。あの時はヴァンさえそばにいれば何も要らないと思っていたから、この街のことを深く知ろうともしていなかった。
浮足立つ気持ちを抑えつつ、二人の案内でゆっくりと街を行く。
石造りの建物、時代がかった服装の人々。馬車。
緑も多くてあちこちに季節の花も咲いている。
……爽やかな風が、気持ちいい。
「こっちです!」
二歩ほど先を行くマークが楽しそうだ。
どれほど歩いただろう。それほど長い時間ではないと思う。案内の先にたどり着いたのは、大通のから少し脇道に入った大きな店だった。
「飯屋?」
「どちらかというと食事や酒も飲める宿屋です。この街に訪れた商人や冒険者が泊まったり、情報交換に使う……庶民の溜まり場、みたいな場所ですよ」
確かにここは、ヴァンと来たことが無い。
呆けたように建物を見上げる俺に、マークはニヤリと笑って両開きのドアを豪快に開けた。
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