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第1章 廃ビルの向こうは異世界でした

21 柔らかな夢

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 ヴァンさんとの食事は、夢みたいなひと時だった。

 茜色に染まっていく空と街を眺める窓辺の席には、小さな炎がゆらめくランプが置かれている。まばらに入ったお客さんの話し声が、さざ波のようで耳に心地いい。

 テーブルに並べられた食事は野菜が中心の和え物やスープ、鶏みたいな味の肉の炒め焼きだった。ハーブなんかも使っているのか、香りがすごくいい。パンもふっくらしていて、香ばしくて、新鮮な果物も添えられていた。
 出された料理はどれも美味しくて、もくもくと食べていたらヴァンさんに笑われた。
 いや……笑われたというか、にこにこしながら俺のことを見ている。

「ヴァンさん……ずっと、笑ってる」
「美味しそうに食べているな、と思って」
「美味しいですよ! 家で食べたスープも美味しかったけど、お肉もパンも柔らかいし、いい匂いするし、野菜もたっぷりで体に良さそうだし! すごい、美味しいじゃないですか」

 前のめりになって言うと、ヴァンさんは口元に拳を当てて肩を震わせた。
 子供っぽくて笑っているんだ。いいよ、もぅ。

「ヴァンさんも食べて下さい」
「食べているよ」
「さっきから飲んでばかりです」
「美味しそうに食べるリクを、さかなにしているんだよ」

 またそういう冗談を言う。
 少し酔っているのかな。
 ヴァンさんが飲んでいるのは、きっとお酒なんだろう。いつもより頬の辺りが赤くなっているような気がする。それとも灯りのせいだろうか。

「ここも、よく来る所なんですか?」
「時々ね」
「静かで騒いでいる人とか、あまりいませんね」

 こういう上品な店は慣れないから、いつもならすごく落ち着かないだろうけど、目の前にヴァンさんがいるだけで安心していられる。不思議だ。

「騒がしい場所は苦手でね。リクは、賑やかな方が好き?」
「んん……居酒屋とかは、年齢的にまだ行けなかったからよくわからないけれど……酔っ払いが多いところは苦手です。よくからまれたから」

 ヴァンさんが心配そうに眉根を寄せた。

「危ないことはなかった?」
「時々は……あ、けど、俺、逃げ足は速いから大丈夫です」

 軽く笑って答えたのに、ヴァンさんは心配した顔のままだ。なんだかそんな風に気にかけてもらうことも無かったから、くすぐったいような、ふわふわした気持ちになってくる。

 うん、なんだか夢でも見ているようだ。

 温かくて柔らかなベッドで目覚めて、美味しい物を食べて、買い物をしたり友人の家を訪ねたり。そして今……大人びた雰囲気の店で、カッコイイ人と食事をしている。
 いいな、こういうの憧れる。
 俺も……ヴァンさんみたいな人になりたい。
 優しくて包容力がある。魔法も使えて、俺ぐらい簡単に担げるほど力もある。頼りがいのある……素敵な、大人だ……。

「眠くなってきたのかな?」
「え……いや、うん……」

 何だろう急に。
 今日一日、出歩いていて疲れたのかな……。
 まるで温かな腕に包まれてるような感覚で……ふっと、意識が遠のきそうになる。でもせめて家までは、しっかりしていないと、と思うのに、ふわふわした気持ちのまま身体の芯が溶けていきそうだ。

「おいで、そろそろ帰ろう」

 向かいの席を立ったヴァンさんが、俺の横に立って腕を伸ばした。
 ……そうだ、この腕だ……。
 不安になる度に俺を包み込む。やさしく背中を撫でてくれる、一番、安心できる場所。

 反射的に、何のためらいも無く俺も腕を伸ばした。伸ばしてそのまま、自然な動きで抱き上げられる。
 おかしいな……。
 恥ずかしいとか、申し訳ないとか、そんな気持ちまでもがとけて、ヴァンさんに吸い寄せられるような感覚だ。
 眠たくて、瞼を開けていられない。

「ヴァン……さん……」
「ゆっくりお休み、リク……明日の朝日が昇るまで」

 ヴァンさんの肩に額を預ける。耳元で囁く声がする。それはまるで魔法の呪文のようだ……と、消えゆく意識の中で、思った……。 


     ◇◇◇


 僕に何の疑いも持っていないリクは、あっけないほど簡単に眠りに落ちた。
 あちこち連れて歩くのが楽しくて、つい日暮れの時間まで出歩いてしまった。日が落ちれば魔物の動きが活発になってくる。簡易的に魅了を抑える術は施してあるが、それでも陽の光が無くなれば抑えきれなくなるだろう。
 一番安全なのは、リクを眠らせてしまうことだ。

「僕がそばにいる限り、何も心配はいらないよ」

 首元にかかるリクの穏やかな寝息が、胸に温かなものを生む。
 相手の腹を探るような、取りつくった笑いではない。素直な驚きと、そんな自分に気づいて気恥ずかしそうにする表情や仕草がたまらなく愛しくて、どんなことでもしてあげたくなってしまう。
 これが魅了の効果なのだとしたら、なんて幸せな呪いだろう。

 馬車に乗り、家までたどり着いてベッドに横たわらせる。
 誰にも触られたくなかったお気に入りのブランケットまで、リクを包むためなら惜しくないと思ってしまうなんて……。そんな気持ちが湧きあがる自分が、不思議でならない。
 安心しきった表情で眠るリクの、柔らかな唇や首元を見つめてから、僕は黒いまつげに縁取られた瞼に唇を落とした。

 今は……劣情れつじょうより、リクを大切にしたい、傷付けたくない気持ちが勝る。
 痛いほどに切ない思いを押し止め、かすかな気配が動く部屋を見渡し、声をかけた。

「ウィセルよ、そこにいるのならこの子を見守っておくれ。夜明け前には戻る」

 本や小物の向こうから、かすかに「キキッ」と鳴き声が聞こえたような気がしたが、姿までは見えない。それでもいい。
 僕は幾つかの魔法石を手にすると、コートの前を深く合わせ家を後にした。





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