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第一章
第三話「牡丹は、心花の色。」その伍
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駅前のバスターミナルでバスを待ちながら、私はベンチに座り、夕暮れの空に輝く一番星をぼんやり眺めていた。心地好い疲れが眠気を誘う。
今日は早起きてして市場の買い出しに付いていったり、恭司君の言う通り少し疲れが溜まっているのかもしれない。無意識に頑張り過ぎているのかな。
「悠姉ちゃん、仕事ん帰りか?」
突然、ジャージ姿の和志が私に話しかけてきた。
「もう、和志か。驚かさないでくんない」
「ごめん、驚かしたつもりはねえちゃ。悠姉ちゃんが勝手に驚いたっちゃが」
笑いながら答える和志の元気な顔に、私は疲れが吹き飛ぶのを感じる。
「その背中にかけてる長い筒、それ野球のバットのケース?」
「よう分かったね。今日は月に数回の貴重な野球の練習やったんだ」
そう言いながら、和志は私の隣に座った。
汗臭い、男の子の匂い。
「和志、子供の頃は野球が大好きだったもんね。高校でも野球部なん?」
「いいや。俺がやっちょるんは草野球ちゃ。高校では部活は何もやっちょらん」
和志の顔が一瞬曇ったが、すぐに太陽みたいな笑顔を私に向けた。
「家ん仕事を手伝わんといけんかぃ、部活なんかやっちょる暇はねえっちゃ」
その太陽の様な笑顔が、とても悲しく切なく感じた。
「和志は、変わらんね。いつも元気で笑顔やなあ」
私の言葉に和志は何も答えず、ただ笑っている。
辰巳叔父さんは、和志のお母さんである玲子叔母さんの旦那さん。つまり和志のお父さん。その辰巳叔父さんは五年前に失踪した。
当時、玲子叔母さんは警察に捜索願いも出したが、事件性がないと判断され、辰巳叔父さんは家出人扱いとなった。
辰巳叔父さんは賭け事やお酒、女遊びや浮気など全くしていなかったから、絶対に何かの事件に巻き込まれたのだと、玲子叔母さんは懸命に警察や周りの友人、知人に狂ったように捜索を依頼したらしい。
それでも、辰巳叔父さんは帰ってこなかった。
和志が親戚の集まりに五年前から顔を出さなくなったのは、それが理由だ。
辰巳叔父さんが、どんな理由で、玲子叔母さんと和志を置き去りにして何処かへ行ってしまったのか、その本当の理由は誰にも分からない。けど、もし、その理由を知らされたら、私はきっと納得して許してしまうんじゃないのかなと思った。
だって、私も今、似たような事をしている。
でも和志は、和志は違う。和志は違うはずなのに、和志は……。
「どんげした。なんで泣いとるん。悠姉ちゃんは昔からすぐに泣くっちゃかぃ」
和志の話す宮崎の言葉が、とても優しく、とても懐かしく私を包み込む。難しいことなど何も考えず、ただ楽しく毎日を過ごしていた無邪気な日々。
そう言って、和志は私の肩にそっと手をかけると、私の体をぐっと自分の方に引き寄せた。
「武彦君、悠姉ちゃんにそっくりやな。笑ったときん表情なんて、悠姉ちゃんと全く同じちゃ」
そうか、武彦の笑った顔は私にそっくりか。
それは、嬉しいなぁ。
「名古屋で何があったかは知らんけんど、悠姉ちゃんはよう頑張っちょる」
和志は、私がまだ知らない男の子の匂いがする。でも和志のそれは、とても懐かしい心が落ち着く匂いだった。
「悠姉ちゃん、子供の頃ん約束、まだ覚えちょる?」
和志の声が、甘い蜂蜜の様に私の心に溶け込む。
「どんな約束やった」
「悠姉ちゃんが、俺んお嫁さんになるっちゅう約束」
和志の言葉に、心の中に溶け込んだ蜂蜜が一気に爆発して、私の身体中が蜂蜜で満たされとろけてしまいそうになった時、ふと、恭司くんの顔が思い浮かんだ。
そして、和志の顔を見る。
和志の身長は私よりも大きく、その体も匂いも、もう子供の頃とは違う立派な男の子なのに、和志は顔を真っ赤にし、恥ずかしさを隠す子供の様に下を向いていた。
何も変わらない。懐かしい、愛しい時間。
「そんな約束、もう覚えちょらん。それに、私はもう誰のお嫁さんにもならんちゃ」
私は大声で叫んだ。
海に届きそうな私の大声は、きっと、この宮崎の日向の海に届き、そして海の底に沈んでいったのだと思う。
そんな私の大声に和志は大笑いをし、肩に置いていた手で、私の背中を元気に叩いた。
「悠姉ちゃんは、何も変わっちょらんな。まこち、悠姉ちゃんは悠姉ちゃんのまんまちゃ」
そう言って笑う和志の手が、私の背中を叩き、私はその手から、たくさんの優しさや勇気を貰っていた。
和志、ありがとう。
私と和志は、バスに乗り家路にとつく。私はお祖父ちゃんとお祖母ちゃん、そして武彦の待つ家に。そして和志は、辰巳叔父さんが残した小さな農園と玲子叔母さんのもとへ。
_____
土曜日の夜、私は服と睨めっこをしていた。そんなに沢山持っているわけではないけど、なるべくお洒落な格好で恭司君に会いたい。最終的に選ばれたのは、黒のノースリーブと水色のロングスカートだった。子供を連れてきてもいいと言っていたけど、どうしようか。もし店長や恭華さん達にバレたらなんて言おう。そんな事を考えていた。楽しみで寝れないかも、という心配とは裏腹に、武彦を寝かしつけていたら自分もいつの間にか寝ていた。
今日は早起きてして市場の買い出しに付いていったり、恭司君の言う通り少し疲れが溜まっているのかもしれない。無意識に頑張り過ぎているのかな。
「悠姉ちゃん、仕事ん帰りか?」
突然、ジャージ姿の和志が私に話しかけてきた。
「もう、和志か。驚かさないでくんない」
「ごめん、驚かしたつもりはねえちゃ。悠姉ちゃんが勝手に驚いたっちゃが」
笑いながら答える和志の元気な顔に、私は疲れが吹き飛ぶのを感じる。
「その背中にかけてる長い筒、それ野球のバットのケース?」
「よう分かったね。今日は月に数回の貴重な野球の練習やったんだ」
そう言いながら、和志は私の隣に座った。
汗臭い、男の子の匂い。
「和志、子供の頃は野球が大好きだったもんね。高校でも野球部なん?」
「いいや。俺がやっちょるんは草野球ちゃ。高校では部活は何もやっちょらん」
和志の顔が一瞬曇ったが、すぐに太陽みたいな笑顔を私に向けた。
「家ん仕事を手伝わんといけんかぃ、部活なんかやっちょる暇はねえっちゃ」
その太陽の様な笑顔が、とても悲しく切なく感じた。
「和志は、変わらんね。いつも元気で笑顔やなあ」
私の言葉に和志は何も答えず、ただ笑っている。
辰巳叔父さんは、和志のお母さんである玲子叔母さんの旦那さん。つまり和志のお父さん。その辰巳叔父さんは五年前に失踪した。
当時、玲子叔母さんは警察に捜索願いも出したが、事件性がないと判断され、辰巳叔父さんは家出人扱いとなった。
辰巳叔父さんは賭け事やお酒、女遊びや浮気など全くしていなかったから、絶対に何かの事件に巻き込まれたのだと、玲子叔母さんは懸命に警察や周りの友人、知人に狂ったように捜索を依頼したらしい。
それでも、辰巳叔父さんは帰ってこなかった。
和志が親戚の集まりに五年前から顔を出さなくなったのは、それが理由だ。
辰巳叔父さんが、どんな理由で、玲子叔母さんと和志を置き去りにして何処かへ行ってしまったのか、その本当の理由は誰にも分からない。けど、もし、その理由を知らされたら、私はきっと納得して許してしまうんじゃないのかなと思った。
だって、私も今、似たような事をしている。
でも和志は、和志は違う。和志は違うはずなのに、和志は……。
「どんげした。なんで泣いとるん。悠姉ちゃんは昔からすぐに泣くっちゃかぃ」
和志の話す宮崎の言葉が、とても優しく、とても懐かしく私を包み込む。難しいことなど何も考えず、ただ楽しく毎日を過ごしていた無邪気な日々。
そう言って、和志は私の肩にそっと手をかけると、私の体をぐっと自分の方に引き寄せた。
「武彦君、悠姉ちゃんにそっくりやな。笑ったときん表情なんて、悠姉ちゃんと全く同じちゃ」
そうか、武彦の笑った顔は私にそっくりか。
それは、嬉しいなぁ。
「名古屋で何があったかは知らんけんど、悠姉ちゃんはよう頑張っちょる」
和志は、私がまだ知らない男の子の匂いがする。でも和志のそれは、とても懐かしい心が落ち着く匂いだった。
「悠姉ちゃん、子供の頃ん約束、まだ覚えちょる?」
和志の声が、甘い蜂蜜の様に私の心に溶け込む。
「どんな約束やった」
「悠姉ちゃんが、俺んお嫁さんになるっちゅう約束」
和志の言葉に、心の中に溶け込んだ蜂蜜が一気に爆発して、私の身体中が蜂蜜で満たされとろけてしまいそうになった時、ふと、恭司くんの顔が思い浮かんだ。
そして、和志の顔を見る。
和志の身長は私よりも大きく、その体も匂いも、もう子供の頃とは違う立派な男の子なのに、和志は顔を真っ赤にし、恥ずかしさを隠す子供の様に下を向いていた。
何も変わらない。懐かしい、愛しい時間。
「そんな約束、もう覚えちょらん。それに、私はもう誰のお嫁さんにもならんちゃ」
私は大声で叫んだ。
海に届きそうな私の大声は、きっと、この宮崎の日向の海に届き、そして海の底に沈んでいったのだと思う。
そんな私の大声に和志は大笑いをし、肩に置いていた手で、私の背中を元気に叩いた。
「悠姉ちゃんは、何も変わっちょらんな。まこち、悠姉ちゃんは悠姉ちゃんのまんまちゃ」
そう言って笑う和志の手が、私の背中を叩き、私はその手から、たくさんの優しさや勇気を貰っていた。
和志、ありがとう。
私と和志は、バスに乗り家路にとつく。私はお祖父ちゃんとお祖母ちゃん、そして武彦の待つ家に。そして和志は、辰巳叔父さんが残した小さな農園と玲子叔母さんのもとへ。
_____
土曜日の夜、私は服と睨めっこをしていた。そんなに沢山持っているわけではないけど、なるべくお洒落な格好で恭司君に会いたい。最終的に選ばれたのは、黒のノースリーブと水色のロングスカートだった。子供を連れてきてもいいと言っていたけど、どうしようか。もし店長や恭華さん達にバレたらなんて言おう。そんな事を考えていた。楽しみで寝れないかも、という心配とは裏腹に、武彦を寝かしつけていたら自分もいつの間にか寝ていた。
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