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第一章
第二話「赭は、再会の色。」その陸
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和志は私に背を向けると、玄関から外へ出て裏の勝手口へと向かった。その慌てた様子が、小学生の頃と何も変わっていない感じがして、私はとても懐かしく心が落ち着いた。
そして私も和志の後を追うように家の裏手に向かい、台所から聞こえる和志とお祖母ちゃんの元気な声を聞きながら、武彦の待つ畑へと歩いて行った。
「おかあしゃん!」
私の姿を見つけた武彦が、大きな声で私を呼ぶ。あんな小さな体のどこから、あんな大きな声がでるのか本当に不思議だ。
彼が初めて発した言葉は『おかぁ』だった。私はそれを聞いた瞬間、それが『お母さん』の意味だと直感し号泣した。彼がこの世で初めて覚えた言葉、それが母親である私の呼び名なのである。それは今の私にとって、唯一の誇りであり、自信であり、自分が自分としていられる拠り所なのである。
武彦は畑のあぜ道を危なっかしい足取りで全力で駆けてきた。
「武彦、お母さんより早起きだね。お祖父ちゃんとの散歩楽しかった?」
武彦は私の問いに、満面の笑みで頷き答えると、手に持っていた花を私に差し出した。それは畑のそばに咲いている野花だった。
「花、きれい。花、きれい。おかあしゃん、きれい」
私は武彦を抱き上げると、武彦の頬に私の頬をギュッと押し付けた。私の腕の中で手足をバタバタさせる武彦を、私は強く強く抱きしめる。私の愛情に屈服したのか、武彦はおとなしくなり私を静かに力強く抱きしめた。
「綾瀬さん、なんだか本当にお母さんみたいね」
早坂先生の棘のある言い方を無視し、私は武彦の土まみれの顔を手で拭い綺麗にした。
「お祖父ちゃんのお手伝いをしてたの? こんなに顔を汚して」
私の笑顔に答えるように、武彦も楽しそうにケラケラと大きな声で笑った。
「悠希、先生がお前に大事な話があるげなぞ。武彦は俺が連れてくかぃ、お前は先生ん話を聞いてから来いて」
畑の奥から歩いて来たお祖父ちゃんがそう言った。お祖父ちゃんの肌は畑仕事で真っ黒に日焼けしている。ふと、和志はお祖父ちゃんとよく似てるなと思った。確かに、和志は私の従弟で、私の叔母さんの息子で、私の父と叔母さんは兄妹で、そして父と叔母さんはお祖父ちゃんの息子と娘で、そんな当たり前の事に改めて気がついた私は、武彦を再び力強く抱きしめていた。
「武彦、お母さん大事な話があるから、お祖父ちゃんと先に家に戻っていて」
武彦に私がそう言うと、お祖父ちゃんは私から武彦を取り上げるように抱き抱え、私と早坂先生を残し家に戻っていった。武彦が少し寂しい顔をするかと思ったが、お祖父ちゃんに抱かれる武彦はとても嬉しそうだったので、私の方が少し寂しい思いをした。
「私の実家も田舎だけど、ここはただの田舎っていう感じじゃなくて、なんか海も山も特別に綺麗で、特別な自然に囲まれた特別な田舎っていう感じよね」
確かに、私も同じことを感じていた。名古屋の近くにも知多半島とかあって、海とか山を近くに感じない訳ではない。しかしそれは、ここ宮崎の日向市の海や山の美しさとは次元が違うのだ。
ただ、それを早坂先生に指摘されることが、無性に腹立たしく思えた。
「先生、大事な話って何ですか?」
私の言葉に、早坂先生はすぐに答えようとはせず、しばらく、朝陽に輝く青緑の畑を眺めていた。
「綾瀬さん、私が貴女と榊原さんを見捨てたと、榊原さんを見殺しにしたと、そう思っている?」
今度は私が何も答えず、私はお祖父ちゃんの作った青々とした野菜畑に目を移した。
私は早坂先生の問いに答えるつもりは少しもなかった。今さら早坂京子という女に関わりたくないと思っていたからだ。
私達二人は無言になり、やがて私は海からの風の音に耳を澄ませていた。それは、まるで音楽のように私を優しく包んでくれる。
「綾瀬さん、私がここに来たのは、榊原さんの事を伝えるためだけじゃないの。貴女のお母さんとお父さんともお話をしたのだけれど、綾瀬さん、貴女、通信高校へ通ってみる気はない?」
私が武彦の母親になった時、榊原史恵の死は予測できたことだったのかもしれない。いや、あの時、すでに史恵は私の中で死んでいたのだ。
だから今さら、私は榊原史恵と過ごした日々を思い出したくはないし、過去と向き合うことで、それが今を生きる私の足枷となるぐらいなら、私は全てを忘れ明日のためだけに生きたいと強く願っていた。
もし過去を振り返れば、私はまた実態の判らない虚無のような暗闇に包まれ、蝕まれ、明日に何の期待や希望も持てなくなってしまうと分かっていたからだ。
だから私は、あえて何も考えなかった。
早坂先生の偽善も、私が失った父と母に対する信頼も、そして史恵と過ごした日々も、何も考えずに、私は武彦との将来だけを考え答えた。
「武彦の母親として、高卒の資格は最低限欲しいです。だから、その話、詳しく聞かせてください」
そして私も和志の後を追うように家の裏手に向かい、台所から聞こえる和志とお祖母ちゃんの元気な声を聞きながら、武彦の待つ畑へと歩いて行った。
「おかあしゃん!」
私の姿を見つけた武彦が、大きな声で私を呼ぶ。あんな小さな体のどこから、あんな大きな声がでるのか本当に不思議だ。
彼が初めて発した言葉は『おかぁ』だった。私はそれを聞いた瞬間、それが『お母さん』の意味だと直感し号泣した。彼がこの世で初めて覚えた言葉、それが母親である私の呼び名なのである。それは今の私にとって、唯一の誇りであり、自信であり、自分が自分としていられる拠り所なのである。
武彦は畑のあぜ道を危なっかしい足取りで全力で駆けてきた。
「武彦、お母さんより早起きだね。お祖父ちゃんとの散歩楽しかった?」
武彦は私の問いに、満面の笑みで頷き答えると、手に持っていた花を私に差し出した。それは畑のそばに咲いている野花だった。
「花、きれい。花、きれい。おかあしゃん、きれい」
私は武彦を抱き上げると、武彦の頬に私の頬をギュッと押し付けた。私の腕の中で手足をバタバタさせる武彦を、私は強く強く抱きしめる。私の愛情に屈服したのか、武彦はおとなしくなり私を静かに力強く抱きしめた。
「綾瀬さん、なんだか本当にお母さんみたいね」
早坂先生の棘のある言い方を無視し、私は武彦の土まみれの顔を手で拭い綺麗にした。
「お祖父ちゃんのお手伝いをしてたの? こんなに顔を汚して」
私の笑顔に答えるように、武彦も楽しそうにケラケラと大きな声で笑った。
「悠希、先生がお前に大事な話があるげなぞ。武彦は俺が連れてくかぃ、お前は先生ん話を聞いてから来いて」
畑の奥から歩いて来たお祖父ちゃんがそう言った。お祖父ちゃんの肌は畑仕事で真っ黒に日焼けしている。ふと、和志はお祖父ちゃんとよく似てるなと思った。確かに、和志は私の従弟で、私の叔母さんの息子で、私の父と叔母さんは兄妹で、そして父と叔母さんはお祖父ちゃんの息子と娘で、そんな当たり前の事に改めて気がついた私は、武彦を再び力強く抱きしめていた。
「武彦、お母さん大事な話があるから、お祖父ちゃんと先に家に戻っていて」
武彦に私がそう言うと、お祖父ちゃんは私から武彦を取り上げるように抱き抱え、私と早坂先生を残し家に戻っていった。武彦が少し寂しい顔をするかと思ったが、お祖父ちゃんに抱かれる武彦はとても嬉しそうだったので、私の方が少し寂しい思いをした。
「私の実家も田舎だけど、ここはただの田舎っていう感じじゃなくて、なんか海も山も特別に綺麗で、特別な自然に囲まれた特別な田舎っていう感じよね」
確かに、私も同じことを感じていた。名古屋の近くにも知多半島とかあって、海とか山を近くに感じない訳ではない。しかしそれは、ここ宮崎の日向市の海や山の美しさとは次元が違うのだ。
ただ、それを早坂先生に指摘されることが、無性に腹立たしく思えた。
「先生、大事な話って何ですか?」
私の言葉に、早坂先生はすぐに答えようとはせず、しばらく、朝陽に輝く青緑の畑を眺めていた。
「綾瀬さん、私が貴女と榊原さんを見捨てたと、榊原さんを見殺しにしたと、そう思っている?」
今度は私が何も答えず、私はお祖父ちゃんの作った青々とした野菜畑に目を移した。
私は早坂先生の問いに答えるつもりは少しもなかった。今さら早坂京子という女に関わりたくないと思っていたからだ。
私達二人は無言になり、やがて私は海からの風の音に耳を澄ませていた。それは、まるで音楽のように私を優しく包んでくれる。
「綾瀬さん、私がここに来たのは、榊原さんの事を伝えるためだけじゃないの。貴女のお母さんとお父さんともお話をしたのだけれど、綾瀬さん、貴女、通信高校へ通ってみる気はない?」
私が武彦の母親になった時、榊原史恵の死は予測できたことだったのかもしれない。いや、あの時、すでに史恵は私の中で死んでいたのだ。
だから今さら、私は榊原史恵と過ごした日々を思い出したくはないし、過去と向き合うことで、それが今を生きる私の足枷となるぐらいなら、私は全てを忘れ明日のためだけに生きたいと強く願っていた。
もし過去を振り返れば、私はまた実態の判らない虚無のような暗闇に包まれ、蝕まれ、明日に何の期待や希望も持てなくなってしまうと分かっていたからだ。
だから私は、あえて何も考えなかった。
早坂先生の偽善も、私が失った父と母に対する信頼も、そして史恵と過ごした日々も、何も考えずに、私は武彦との将来だけを考え答えた。
「武彦の母親として、高卒の資格は最低限欲しいです。だから、その話、詳しく聞かせてください」
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