上 下
1 / 1

ミント・ジュレップ のなりわい

しおりを挟む
 駅の路地裏にある隠れ家的な雰囲気のバー。ゆるくカーブしたカウンター席の1番奥に座ることが、最近の私のお気に入りだった。

 丸くて脚の長い椅子に座ると、もうどこへも行きたくなくなる。磨かれた床につかない足は、勝手に歩くことがないので妙な安心感があった。

 金色のミラーボールを目で追いながら、思いがけず引っ込み思案な「私」は「私」の方を、愛想の良いバーテンダーさんが見てくれるのを待つ。人懐っこい笑顔が向けられてから私は目を伏せて、カクテルを1杯だけ注文した。

 ミント・ジュレップ 。尖ったバーボンに、生命力の強いミントの葉が散りばめられたお酒。それは人波に流されながら生きる私と、非常によく似ていた。

 爽やかな香りの中で弾けるソーダには清涼感があって、いつも目の覚めたような気分になる。とても重要なことだ。

 ひと口だけ含んでから、私は両耳にイヤホンをつけた。周囲の色彩がセピア色に変わって、舌の上の味わいを深くする。研ぎ澄まされていくような感覚があった。

 今日は3ヶ月後にライブハウスで演奏予定のカバー曲を聴くと、あらかじめ決めていた。この場所は歌い慣れた箱に似ているにも関わらず、箱にはない何かを確かに有している。

 1つの小さな音をキッカケにして、一斉に音が鳴り出す。おもむろに私は瞳を閉じて、両耳を狭い手のひらで塞いだ。

 最初はギター2本が同じ旋律を4回、同時に響かせる。厳密に言えば、旋律の音は4回とも違う。音程の移り方は同じだ。

 背景のドラムは2回、同じ音を繰り返す。後の2回は全く異なる音だった。ベースは他の楽器よりも音が長い。2回だけで同じ音を繰り返している。

 他の楽器は音程が上から下へと向かっていくのに対して、ベースだけは下から上へと向かっていく。縁の下の力持ち的な役割を担っている。次の、ギター2本が下から上へ向かう音を自然な形で奏でられるようにしていた。

 次の、ギター2本が下から上へ向かう音はサブドミナントで終わっていて、曲の始まりを期待させている。刹那、ギター1本が走り出すように2回だけ同じ旋律を奏でる。ドラムはずっと同じ音を同じリズムで刻み続けた。

 もう1本のギターとベースが旋律と同じリズムで歌う。もう1本のギターは旋律と3度の違いしかないため、響きはやわらかい。トニックで音が終わり、ヴォーカルが入って曲が始まる。

 ヴォーカルが入ると、楽器がヴォーカルを引き立たせるようにして小さくなった。ギター1本が旋律から運動に変わる。もう1本のギターがリズムを刻みながら進み、時折1つの音を同じ高さで響かせる。

 旋律はA・A'、B・B'、C・C'、D・D'、E・E'、F・F'と対応しながら進む。A、B、C、D、は音程の差がないため、ほぼ印象の差もない。

 部分的に低音で同じ音が続いていく、という曲が数年前から増えた。統一感があるのは良い。でも、どこか淡白な印象を受けてしまう。

 A・A'、B・B'の背景の音は同じであり、Cになるとベースが入る。D'になるとドラムが入って、ギターが和音の役割を果たすようになる。E・E'の背景は同じでドラムの音数が少しだけ多いものの、全ての楽器が同じようにリズムを刻む。

 FはEのアレンジになっていた。F'になるとギターが旋律を追うようにして、低音から徐々に高音へと向かう。サビに入る前段階として音を盛り上げていく。

 サビはベースと1本のギターが和音を奏でる。もう1本のギターは和音の後、余韻を残すように1音ずつ弾かれる。ドラムのリズムの刻み方に、あまり変化はない。

 とりあえず1番だけ、何度も繰り返して聴いた。そして楽器の構成の仕方、演奏の仕方、和音の繋ぎ方、異なる響きのための創意工夫について考える。

 音楽は不可思議だ。同じことを繰り返さないと印象に残らない。同じことを繰り返すと、意味を感じなくなる。

 だから、旋律や背景を少しずつ変えて異なるものになろうとする。でも、それすらも聴くという行為によって繰り返されてしまう。

 首を傾げながら、私はイヤホンを外した。途端に周囲の鮮やかな色合いが戻ってくる。ミントの葉が先程よりもさらに青々として見えた。

 ミント・ジュレップを口に含む。グラスに氷が当たる。日常的な空間の中で。繰り返される日々の涼しげなカランという音を、私は聴いたような心地がした。
しおりを挟む

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

懐妊を告げずに家を出ます。最愛のあなた、どうかお幸せに。

梅雨の人
恋愛
最愛の夫、ブラッド。 あなたと共に、人生が終わるその時まで互いに慈しみ、愛情に溢れる時を過ごしていけると信じていた。 その時までは。 どうか、幸せになってね。 愛しい人。 さようなら。

美を孕む少女たち

美夜
現代文学
見慣れた街中の喧騒にて、とある女子高校生の一団と偶然、遭遇した。 彼女達は白い制服を着、楽器を持ち、秩序そのものと同化するように整列していた。 そこで見舞われた美の賛歌に、僕は眼を見張るのであった。 この前街で見かけた光景を、即興的に書き表した短編小説です。 ふと目にした女子高校生たちの美しさにたまらず、書きたい衝動に駆られましたw 初の文学的小説の投稿になります。

妊娠中、息子の告発によって夫の浮気を知ったので、息子とともにざまぁすることにいたしました

奏音 美都
恋愛
アストリアーノ子爵夫人である私、メロディーは妊娠中の静養のためマナーハウスに滞在しておりました。 そんなさなか、息子のロレントの告発により、夫、メンフィスの不貞を知ることとなったのです。 え、自宅に浮気相手を招いた? 息子に浮気現場を見られた、ですって……!? 覚悟はよろしいですか、旦那様?

せめく

月澄狸
現代文学
ひとりごと。

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

【完結】義兄に十年片想いしているけれど、もう諦めます

夏ノ宮萄玄
BL
 オレには、親の再婚によってできた義兄がいる。彼に対しオレが長年抱き続けてきた想いとは。  ――どうしてオレは、この不毛な恋心を捨て去ることができないのだろう。  懊悩する義弟の桧理(かいり)に訪れた終わり。  義兄×義弟。美形で穏やかな社会人義兄と、つい先日まで高校生だった少しマイナス思考の義弟の話。短編小説です。

【完結】亡くなった人を愛する貴方を、愛し続ける事はできませんでした

凛蓮月
恋愛
【おかげさまで完全完結致しました。閲覧頂きありがとうございます】 いつか見た、貴方と婚約者の仲睦まじい姿。 婚約者を失い悲しみにくれている貴方と新たに婚約をした私。 貴方は私を愛する事は無いと言ったけれど、私は貴方をお慕いしておりました。 例え貴方が今でも、亡くなった婚約者の女性を愛していても。 私は貴方が生きてさえいれば それで良いと思っていたのです──。 【早速のホトラン入りありがとうございます!】 ※作者の脳内異世界のお話です。 ※小説家になろうにも同時掲載しています。 ※諸事情により感想欄は閉じています。詳しくは近況ボードをご覧下さい。(追記12/31〜1/2迄受付る事に致しました)

処理中です...