1 / 1
2019春節企画『猪は走るべきか』
しおりを挟む
駅裏の、古びた雑居ビルの2階。
年季の入った小さなエレベーターの自動扉が開く。
1歩を踏み出すと、昔ながらの居酒屋に繋がった。
懐かしい香りが広がる。
時間の巻き戻ったような感じがある。
何だか切なくて、一瞬だけ家に帰りたくなった。
でも、今日は帰れない。
いらっしゃいませ、と。
作務衣を着た店員が、明るい声で迎えてくれた。
かわいらしい笑顔……。
意に反して、ふつふつと私の中に醜い感情が沸く。
同じ女性としての、嫉妬心の現れだった。
——人生ベリーイージーモードって顔だなぁ。
青々と繁った隣の芝生が、羨ましくなるなんて。
今日の私は絶不調かもしれない。
アイボリーのコートを脱ぎながら、そう思った。
こぢんまりとした店内は質素なカウンター席のみ。
正面に壁がある1番手前の席を選んでみたものの。
安らぐ空間を間借りしているような気持ちがした。
ちょっとだけ落ち着かない。
出入り口に近いこともあって、底冷えがする。
おしぼりで手を温めて、ひとまず熱燗を注文した。
店員が離れてから、心の中で重たい溜め息をつく。
でも、思考は何も続かない。
待つほどもなく、お通しと徳利が机上に置かれた。
定番の白磁。
お猪口の底に、藍色の蛇の目模様が描かれている。
見開かれた瞳の中心は乾ききっていた。
目薬を点すようにして、無色透明な清酒を注ぐ。
耳に心地の良い音がした。
ほんのりと湯気が立ちのぼる。
細かな気泡が表面で消えていく。
揺らいでいた瞳の色が潤って、濃くなる。
奥行きのある表情は凛として、澄んでいく。
両手で囲った杯を私は、ゆっくりと傾けた。
シャープな香りを含む、まろやかな味わいが深い。
渦巻く想いを丸めて、沈ませるような甘みがある。
だから。
だからこそ、急に目頭が熱くなった。
鼻の奥が、つーんとする。
喉が詰まる。
歯を無意識のうちに食いしばっていた。
こめかみが、じんじんと痛む。
ぎゅっと拳を握った。
——自分は、いったい何をしているのだろう。
例えてみると。
ただ、坂の上を転がるような恋だった。
ブレーキも効かず、曲がることもできない。
まるで猪突猛進。
一直線にスピードが増していく。
いや、自分の足で走るだけ猪の方が遥かにマシだ。
ごろん、ごろん。転がり続けて傷だらけ。
挙げ句の果てに、泥にまみれて砂を噛んだ。
それでも2番めでいいと言ったのは、どの口かな?
夜の闇に紛れて、必死に自分の目を探す。
止まない雨の中で熱燗に口をつけた。
あぶくをすするだけだった私は、もういない。
年季の入った小さなエレベーターの自動扉が開く。
1歩を踏み出すと、昔ながらの居酒屋に繋がった。
懐かしい香りが広がる。
時間の巻き戻ったような感じがある。
何だか切なくて、一瞬だけ家に帰りたくなった。
でも、今日は帰れない。
いらっしゃいませ、と。
作務衣を着た店員が、明るい声で迎えてくれた。
かわいらしい笑顔……。
意に反して、ふつふつと私の中に醜い感情が沸く。
同じ女性としての、嫉妬心の現れだった。
——人生ベリーイージーモードって顔だなぁ。
青々と繁った隣の芝生が、羨ましくなるなんて。
今日の私は絶不調かもしれない。
アイボリーのコートを脱ぎながら、そう思った。
こぢんまりとした店内は質素なカウンター席のみ。
正面に壁がある1番手前の席を選んでみたものの。
安らぐ空間を間借りしているような気持ちがした。
ちょっとだけ落ち着かない。
出入り口に近いこともあって、底冷えがする。
おしぼりで手を温めて、ひとまず熱燗を注文した。
店員が離れてから、心の中で重たい溜め息をつく。
でも、思考は何も続かない。
待つほどもなく、お通しと徳利が机上に置かれた。
定番の白磁。
お猪口の底に、藍色の蛇の目模様が描かれている。
見開かれた瞳の中心は乾ききっていた。
目薬を点すようにして、無色透明な清酒を注ぐ。
耳に心地の良い音がした。
ほんのりと湯気が立ちのぼる。
細かな気泡が表面で消えていく。
揺らいでいた瞳の色が潤って、濃くなる。
奥行きのある表情は凛として、澄んでいく。
両手で囲った杯を私は、ゆっくりと傾けた。
シャープな香りを含む、まろやかな味わいが深い。
渦巻く想いを丸めて、沈ませるような甘みがある。
だから。
だからこそ、急に目頭が熱くなった。
鼻の奥が、つーんとする。
喉が詰まる。
歯を無意識のうちに食いしばっていた。
こめかみが、じんじんと痛む。
ぎゅっと拳を握った。
——自分は、いったい何をしているのだろう。
例えてみると。
ただ、坂の上を転がるような恋だった。
ブレーキも効かず、曲がることもできない。
まるで猪突猛進。
一直線にスピードが増していく。
いや、自分の足で走るだけ猪の方が遥かにマシだ。
ごろん、ごろん。転がり続けて傷だらけ。
挙げ句の果てに、泥にまみれて砂を噛んだ。
それでも2番めでいいと言ったのは、どの口かな?
夜の闇に紛れて、必死に自分の目を探す。
止まない雨の中で熱燗に口をつけた。
あぶくをすするだけだった私は、もういない。
0
お気に入りに追加
1
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
あの日、さようならと言って微笑んだ彼女を僕は一生忘れることはないだろう
まるまる⭐️
恋愛
僕に向かって微笑みながら「さようなら」と告げた彼女は、そのままゆっくりと自身の体重を後ろへと移動し、バルコニーから落ちていった‥
*****
僕と彼女は幼い頃からの婚約者だった。
僕は彼女がずっと、僕を支えるために努力してくれていたのを知っていたのに‥
好青年で社内1のイケメン夫と子供を作って幸せな私だったが・・・浮気をしていると電話がかかってきて
白崎アイド
大衆娯楽
社内で1番のイケメン夫の心をつかみ、晴れて結婚した私。
そんな夫が浮気しているとの電話がかかってきた。
浮気相手の女性の名前を聞いた私は、失意のどん底に落とされる。
美を孕む少女たち
美夜
現代文学
見慣れた街中の喧騒にて、とある女子高校生の一団と偶然、遭遇した。
彼女達は白い制服を着、楽器を持ち、秩序そのものと同化するように整列していた。
そこで見舞われた美の賛歌に、僕は眼を見張るのであった。
この前街で見かけた光景を、即興的に書き表した短編小説です。
ふと目にした女子高校生たちの美しさにたまらず、書きたい衝動に駆られましたw
初の文学的小説の投稿になります。
【完結】「どうせあいつは俺と離婚できない」と浮気相手に言っているらしいけど、離婚して困るのはあなたですよ?
まきじた
大衆娯楽
隠すつもりがないのか、矛盾だらけの言い訳をしながら浮気をする夫。
「今夜、ゴルフ行ってくる。泊まって明日はそのまま仕事行ってくるから。明日の夕飯は用意しとけよ。それじゃ」
…ゴルフバッグも持たずにどこへ行くのかしら。丁寧に結婚指輪まで外して。
どうやら「俺に惚れたあいつは浮気されても離婚できない」と思っているようだけど……その自信はどこから来るの?
私の貴重な20代を奪った罰、受けて頂きます。
※カクヨムにも掲載しました
懐妊を告げずに家を出ます。最愛のあなた、どうかお幸せに。
梅雨の人
恋愛
最愛の夫、ブラッド。
あなたと共に、人生が終わるその時まで互いに慈しみ、愛情に溢れる時を過ごしていけると信じていた。
その時までは。
どうか、幸せになってね。
愛しい人。
さようなら。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる