鬼の瞳

〆鯖

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第十三話

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「……申し訳御座いません……。不躾な問いをお許し下さい……」


「ああいや、気にしてませんから!む、昔の事ですし!」


 落ち込んで俯く黒絹を見て、久野は慌てふためく。何とかして元気付けようとするが、思うように言葉が出ないので慌てるしかなかった。とても情けない。


「……ホタル様のお陰で、久野様は心を取り戻した」


「あ、はっはい。……へ?」


 唐突に、阿夜は呟く。久野に対する言葉ではなく、自分に言い聞かせるように。


「……久野様」


「は、はい?」


「ワタクシにホタル様は見えません。しかし、尊くも力強い感覚はしかと刻みました。その時の久野様の心情が今ならよくわかります。ですから、ワタクシも決心が付いたので御座います。聴いて、いただけますか――」

















 ――その少女は真っ暗な洞窟の中、独りだけで正座をしていた。背筋を伸ばして指を慎ましく大腿の上で重ねて、瞼を閉じたまま不動を保つ姿は、奉られた生き人形を思わせる。

 空気の薄いこの空間は息苦しく、朝は蒸した様に熱く、夜は閉ざした様に寒い。様々な蟲が好き好んで徘徊し、時折着物の中に潜り込んでは肌の上を蠢く。まるで外と断絶されたかの様なこの場所が、少女の部屋だった。


 物心が付いた頃から、少女はその中で過ごしていた。最初は森の奥地ではあったが、赤子の時の意思は曖昧であるから記憶にもならない。故に初めての世界がその洞窟。そして、そんな環境が当たり前だったので、四肢に繋がれた鎖も苦とは感じていなかった。


 何故少女が洞窟に、潜む様に身を寄せているのか。簡単だ。そうしなければならないからだ。


 少女は同族から怖れられる個体だった。真祖と呼ばれる先祖返り――鬼という種族の本来の姿であり、今の時代にとってあってはならない存在。

 人が治めるこの世に、少女という生き物を許容できる余裕など無い。ただでさえ迫害されている種族なのだ。そこから更にかけ離れてしまっては拍車をかけてしまう。故に、存在させてはならない、のだが。


 暫く経つと、足音と共に好物である熊鍋の匂いが近付いてきた。少女はそれに反応して頭を上げる。

 母上様、と本当に嬉しそうな顔をして呼びかけた。答えるように、相手はなぁに、と慈愛に満ちて言った。


 少女が生きている事は誰も知らない。真祖は産まれた時点で殺せという掟を破った、母親しか知らない。

 赤子の時に森の奥地で、今では洞窟で、隠れた様に過ごしてきたのはこの為だ。せめて自分だけで始末すると言った母親は、皆を騙していた。


 しかし……。産まれたばかりの我が子を易々と殺せようか。やっと誕生してきた命を直ぐ様に奪えようか。心と感情がある限り、惑うのは必然だ。

 一族を裏切る罪悪、我が子を殺す背徳、血の涙を流すほどの葛藤に苦しみ悶えた彼女は、最終的には、母親である事を選択した。

 夫と仲間を裏切った罪の重さは重々承知している。けれど娘の顔を見ると心が落ち着く自分がいる。間違いと正しさ、ひっくるめて全てを受け入れて、今を続けた。


 そうして十数年をかけて、朝と夜だけの食事を届けては、僅かな時間を縫って知識を与えては育て続けてきた。そして少女もまた、母親の気持ちを汲んで外への憧れを殺してきた。食事の後に聞かされる外の世界の話だけで、彼女は満足していた。


 でも、……今日は何故だか様子が違った。母の匂いと雰囲気がいつもより殺気立っている。外面は普段通りを保ってはいるが、内面はどこか騒々しい。

 小首を傾げる娘を見て、母はやはりと云った表情をした。視覚に頼らない感覚の前では筒抜け。

 だが、元から話す気ではいた為、世間話を省いただけで目的は構わず語った。


 村に人間が攻めてきた。途轍もない数だ。このまま我らが全滅するのも時間の問題。もし母が二度と此処に現れなくても、貴方は此処から出てはいけない、と。


 ……少女にはよく理解できなかった。


 唐突だった。ただ、二度と現れなくてもという部分が引っかかり、問いかけようとしたが……気配が遠ざかっていくのがわかった。また明日ね、といういつもの言葉が無かった。

 鎖が鳴る。必死に呼びかけても、母上様は止まってくれない。

 鎖が軋む。必死に体を動かすも、母上様には届いてくれない。

 少女の懇願も虚しく、母は洞窟から出て行った。そして二度と、少女の前には現れなかった――。

















 四日経つ。


 少女は空腹でやつれていた。手が届く範囲の蟲を喰らってはいたが、それだけでは腹の虫は収まってくれない。


 そんな彼女はいつしか、今まで考えもしなかった――外に行きたい、という思いが芽生え始めた。言いつけは守りたいのだが、空腹で自制心が薄れた事もあり、何より母の言葉が気になっていた。

 何故現れないのか、何故来てくれないのか、心の拠り所を失った少女は不安で仕方なかった。故に、外に出る事を決めた。


 立ち上がり、四肢に力を込める。どこで拵えてきたのか、少女の腕よりも太い鉄の鎖。先端は地中深くまで埋められていて引き抜くは不可能。

 なので力任せに引っ張る。歯を食いしばって踏ん張り、徐々に亀裂を生じさせていく。鬼に対する為の鎖なのだが、母は娘の身体能力を甘く見ていたようだ。

 程なくして、鎖は見た目に反して呆気なく千切れた。四日前は気が動転していただけで、実は、少女はいつでも自由になれたのかも知れない。


 少女は走った。


 長年、座った状態だけで過ごしてきた訳でもないので、華奢でも両の足は走る事が出来た。眼以外の感覚を研ぎ澄まし、初めての外を読み取り、懐かしい匂いを感じ取り、それに向かって走った。木の幹など関係ない。衝突する物は紙切れの如く破砕しながら、一直線に彼女は駆けていった。

















 ……黒ずみの村。


 燃え尽きた家屋。


 夥しく流れた血。


 倒れたまま動かない人型。


 ぐちゃ混ぜの異臭。


 見えない彼女に風景はわからない。死が蔓延しているのが視えるだけ。けれども知識だけの死に初めて直面した彼女は、どんな顔をしていいのかわからず、ぼんやりとしていた。


 歩く。足の踏み場を探して黒い液体の上を歩く。とても嫌な臭いが充満していたが、懐かしい匂いは確かにした。


 それの前まで来て、しゃがみ込んで横たわる手に触れた。この手の感触は確かに母のもの、撫でてくれた時と繋いだ時の感触は忘れる筈がない。嬉しくなって触っていく内、肘から先が無い事に気付いた。

 不思議に思って周りを探すも、懐かしい匂いはソレしか無い。母はコレだけでは無いと、名前を呼んだが……返事は当然返ってこない。


 ―――――――――――――――探した。


 いなくなってしまった母を探した。また話をしたいが為に探した。名前を叫んでは辺りを手探りし、邪魔な遮蔽物は殴り飛ばしてはまた手探りした。

 それで此処にはいないとわかって、少女は走った。どこかに消えてしまった母を早く見つける為に、少女は走った。


 ――母が死んだとわからなかった訳ではない。認める事を、したくなかった。




















「――じゃあ、探してる人って、まさか」


「はい。母上様の事です。……ふふ、可笑しなもので御座いますね。死人を探すなど、何を考えていたのやら」


 くすっ、と憫笑。黒絹から覗かせる横顔は、困ったように苦笑い。


「ワタクシにとって、母上様が全てで御座いました。ですから、いない筈が無いと信じておりました。でも本当はわかっていて、それが信じられなかっただけなので御座います。ホタル様を感じた今では、正しく逆しまとなりました」


 瞼を閉じながらも、淡い緑の光を見つめる。色はわからない。だがわからないからこそ、存在の尊しさがよくわかる。今を健気に生きている姿に、今までの自分が馬鹿馬鹿しく思えてくる。


「………母上様も、会った事の無い父上様も、里の皆様も、もうこの世にはいない。探しても見つからない。ワタクシだけ、もう……ワタクシだけなので御座い――」


「待った、阿夜さん」


 諭す言葉を遮る。きょとんとした鬼は、不思議に思って顔を横に向けた。


「自分だけだなんて寂しい事を言わないで下さい。ボクがいます」


「…………え」


「奈津もいるし村長もいるし村のみんなだっています。阿夜さんだけでは無いんです。そりゃあ、鬼だって事を隠してはいますけど……でも少なくても、ボクと奈津は傍にいます。独りになんかさせません」


 ――真剣に、本気で、久野はそう言った。眼差しも顔つきも阿夜には見えないが、言葉だけでも十分に彼女の心にまで浸透した。


 彼は鬼の傍に居続けると言う。誰もが恐れ罵る闘争の化身から離れないと言う。


 何とも浅はかで軽率な告白。その場の感情に流されての同情など、状況によってはただの暴力でしかない。一人で粋がって勝手に英雄でも気取ろうと云うのだろうか。

 全く持って無責任で、それでいていい加減。そんな言葉は、


「――――久野様……」


 その実、誠の心から出た言葉。


 人間とは自己を尊重して自身の得しか考えない。だが久野の人間性は異例である。視覚に頼らず内面までも読み取れる少女は、素直に彼の言葉に心を輝かせられた。あまりにも屈託のない本心を聞かされて。


「――は、はは。何を二枚目みたいな事言ってるんだろ、ボク」


 立ち上がって、頭を掻いて誤魔化す久野は実に恥ずかしそうだった。触発されたとはいえ、似合いもしない格好の良い事を言ってしまったと。


「……本当に…本気で仰っておられるので御座いますか、久野様」


 見下げると、真剣な顔をした阿夜が此方を向いていた。


「ワタクシが鬼だと知られ、御二人にも危害が及んだとしても、それでも……ワタクシの傍に居て下さるのですか」


「――えぇ。勿論ですよ。阿夜さん」


 答え、久野は微笑む。


 毅然とした様に振る舞っていても、どこか懇願する幼子に見える。それが可愛らしかったので、久野は優しく笑いかけた。

 そして幼子という表現は正しかったようで、阿夜は途端に泣き出してしまった。


「うぇえ!えっちょっと、阿夜さんどうしたんですか!?何かボク、変な事でも……!」


「……ち、違うっ、ので御座います……。久野様っ……のお優しさが、嬉しいので御座いますっ!」


「どぉわあ――?!」


 再び膝をついて心配する久野に向かって阿夜は飛び付き、押し倒した。奈津と同じ目に遭う事となった彼だが、頬擦りは無かった。彼女は胸にうずくまったまま、子供みたいに泣きじゃくるばかりだった。


「久野様は、何故こんなにもお優しいので御座いますかっ……。ワタクシのような鬼をっ……鬼にも恐れられるワタクシを何故……」


「――はは、やだなぁ阿夜さん。あなたに恐い所なんて無いじゃないですか。あなたはただの、優しくて綺麗な女の子ですよ」


「――――!」


「うわぁ……ボクまた二枚目みたいな事を――うあわっ!?」


 阿夜は更に力を入れてしがみついた。久野の着物に顔を埋めて大声で泣く。おしとやかな普段とは正反対の、むしろそうしてため込んでしまったものを吐き出す様に、感情に任せるだけの慟哭。


 それを見ていて唖然とする久野は、無意識に周りを確認して、意を決して彼女を抱いた。頬はこれでもかと云うくらいに赤く、抱くといっても肩に手を置く程度が限界。しかし初な彼にしては、上々と言えるのかも知れない。


 ――森の中に木霊する。とても悲しくて、とても哀しい泣き声。でも可愛らしくて、守りたくなってしまう泣き声。静かに見守る様に、風の無い森は、少女の声だけを孕んでいた――。

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