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31 逃避行
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(初めてかもしれない。太陽が昇っているこんな明るい日中に、ここへ来るなんて)
リリアナは目の前の、想像以上にボロく今にも自然解体してしまいそうな小屋をボンヤリと眺めた。
掃除の前に倒壊するんではないのかと思いつつも、手のひらでしっかり握りしめていた鍵を、目の前に掲げた。
「皮肉なもんだ。初めて好きになった人からのプレゼントが、小屋の鍵……」
きっと彼が一番大切にしている空間。自分の世界だけにしているその場所への鍵を、渡されたことの意味。
そして、そんな彼を裏切る為に鍵を手に入れた自分。
知らず溜息が漏れる。
初恋とは、楽しいものだと思っていた。何もかも見えなくなってその人のことだけでいっぱいになって、世界の中心が自分であるものだと。そんな簡単に味わえることのない“無我夢中”に浸れるものだと思っていた。
だけど実際は、恋心なんてもたないほうがよかったとさえ思う。そうすればずっと、ずっといれたのだ、あの楽しくて穏やかで変なところで真面目で、なのに傲慢なフリをする魂まで綺麗だった人のそばに。
「よし、やるか」
リリアナは、足元に置いていたバケツと雑巾、箒を持って小屋の扉前まで進み、ジルベルトから貰った鍵を錠前に差し込んだ。
ガチャリと立派な音が鳴り、錠前のフックが持ち上がった。
「おお、ジルベルト様、ちゃんと鍵出来上がってましたよ」
ギシギシ揺らしながら木戸を開き小屋の中へ入れば、発光石の時よりもしっかり部屋が見えた。
四方の棚一面には、製作品という名のガラクタと図面や資料が突っ込まれている。見た目はぐちゃぐちゃだが、どうやらジルベルトの頭の中では何がどこにあってとか、種類分けされ置いてあるらしく、そこは触らないことにした。
籠や木箱などをずらしては床を箒で掃いて、雑巾で綺麗に拭き取りをしていく。
小屋は狭く、机など置いてないのでいつもジルベルトは床に座り込んで作業をしていた。
「いやー、あんな見た目キラキラの人が、こんなボロボロの小屋で座り込んでるとか、面白いしかないな……」
ジルベルトがよく座る位置を念入りに拭きながら、俯いているせいか涙がこぼれてしまう。それをまた拭いては、ポタリと落ちる雫に「もうっ」とリリアナは顔を上げて、別のことを考えることにした。
酒場の女将と主人には手紙を書いている。数日後には届くだろう。心配させるかもしれないが、城に永久就職するので帰れないと、口裏を合わせてもらう約束を手紙に書いて部屋に置いてきた。テレーザやヴェラ、チェルソンへの詫びと感謝も。
だけど最後まで、ジルベルトへの手紙は真っ白のままだった。なんて書けばいいのかわからなかった。言葉にも文字にもできなかった。形にすることがすごく難しかった。
だから別のもので伝えることにした。
リリアナはポケットから、何枚ものメモ用紙を取り出す。思い出せるかぎりの前世の便利グッズや電化製品などを書き出したものだ。
それを床のジルベルトの定位置に置くと、ひとつの籠に向かった。
黒い布の塊が入った籠を引っ張り出し、想像よりも重たかったその塊を両手でそっと持ち上げ床に置いた。慎重に布を捲っていけば、つるりとした大きく丸い石が出てきた。
「これだ……」
以前、ジルベルトが見せてくれた不思議な石。小屋の出入り口から差し込む光に照されよく磨かれている表面は輝いているが、黒いような紫がかっているような不気味さえ感じるまだらな模様のもの。
これに触れた時にものすごいエネルギーを受け、前世の記憶を取り戻したのだ。
注意深く観察してみても、それ以外に不思議なことも怪しいこともない石だ。
だけど知っている。
一瞬でも指先が直に触れただけで、身体が吸い込まれそうな力と、またそれとは真逆に頭に入り込んでくる力を。
ロレットは本気なのか冗談なのか「元の世界に戻れ」と言った。いや、半ば彼自身もあり得ないと思っているのかもしれない。彼がどこまでこの石の事を知っているかもわからないし。だから暗に、この城から立ち去れという意味あいだったかもしれない。
だけどリリアナは、以前触れたあの一瞬で感じていた。この石の力で『あの世界に行くことが出来る』と。
城を出て酒場に戻ることは簡単で。もっとどこか遠くの地に逃げることだって出来る。だけど、この城からどんなに離れた場所にいたって、育ってしまった想いは簡単には消せないだろう。
マルクレン国の王太子であるがゆえに、どこの地に逃げたって、彼がどこの令嬢と婚姻し祝福され家族を持つその過程、すべてが届いてきてしまう。
こんなに貪欲に強欲になるなんて思ってもなかったのだ。
自分だけが知る彼のくたびれた態度や、綺麗な顔を目一杯しかめて文句を言ってくる子供っぽさや、ボロボロの小屋で作業に集中しすぎて小さく背中を丸めて、それでもキラキラと瞳を輝かせるその横顔や、時々目新しい食材をフォークで刺してイタズラっぽい顔して口に運んでみせたり。
そんな彼のすべてが、他の誰かの特別になることを、ただの女官としても、ただの国民としても、手離すことが出来そうにない。
だったら、私はこの世界から逃げ出し、何も届かない、そして自分も簡単に戻ってこれないところへ。
「生まれ変わるのかな、それともこのままかな」
怖くてなかなか触れるのに勇気が持てない。まったく知らない世界に飛ばされる可能性だって、ゼロではない。
「一番いいのは、あの事故に合う前後かな。このままの私があっちにいったら、どう生活していけばいいのかわかんない」
リリアナは両手を合わせて「どうか、元の世界に! 出来れば、こちらでの記憶も消してください!」と祈って大きく息を吸い込んだ。
瞼を強く閉じたまま両手で石に触れる。触れた手のひらがビリビリとしたかと思うと、閉じているはずの視界が真っ白な光線に埋め尽くされ身体が気持ち悪いほどに浮遊していく。
ガンガンと耳鳴りがしてグニャリと身体が歪むような感覚を必死で耐え、やがて浮遊感がなくなり目映い光線がおさまっていくのを感じて、恐々と瞼を押し上げる。
どうやら小さく踞っていたようで、視界には地面があった。その地面に違和感を感じる。
ゆっくりと頭をあげると、見慣れない景色が広がっていた。
(いや違う。これは、以前私のいた世界だ)
二車線の道路を車やトラックが行き交い、人々が時間に追われるように足早に通りすぎる。踞っているリリアナに、誰もたいして反応するでもなかった。大きな建物が四方から空へと伸びていて、目の前にはバス停がある。
(ああ、ここは、あの場所だ)
どうやら、転生直前の、銀髪の少年を助けようとしたあの場所に、戻ってきたようだった。
バッと立ち上がって自分の服装をみれば、残念ながらリリアナはいつもの女官の制服を着ていた。両手で頭を探れば、いつものおさげの髪型だった。前世の姿に戻った訳ではないようだった。
「そっか」
何も考えずに逃げ出した罰だと、リリアナは納得した。いつまで経っても、よく考えるより先に行動してしまうところは直らないものだと。
(ジルベルト様もそりゃ心配するよ)
ふと浮かんだその自分の言葉に、ぶわりと涙が膨れ上がってどんどんこぼれていく。
一番望んでいたのに、彼の記憶はしっかり自分の中に残されていた。
彼の怒った顔すら簡単に浮かんでしまう。
『なんでもかんでも飛び込むな』『お前はほんと……』『誉めてないからな』
今ごろ涙と一緒に想いが溢れて止まらない。
どこかでずっとずっと暴走しそうな気持ちを抑え込もうとしてたのを知る。
彼のいないこの世界にきて、やっと気持ちが素直に噴き出したのだ。
どんなにワンワンと泣いても、通行人達は遠巻きにして流れていく。ポツンと世界の果てに取り残されたように、ここはお前の居場所ではないぞ、とでもいうように。
涙の向こうの、記憶の中のジルベルトだけが『だから言っただろ』と困ったように自分を見つめてくれていた。
リリアナは目の前の、想像以上にボロく今にも自然解体してしまいそうな小屋をボンヤリと眺めた。
掃除の前に倒壊するんではないのかと思いつつも、手のひらでしっかり握りしめていた鍵を、目の前に掲げた。
「皮肉なもんだ。初めて好きになった人からのプレゼントが、小屋の鍵……」
きっと彼が一番大切にしている空間。自分の世界だけにしているその場所への鍵を、渡されたことの意味。
そして、そんな彼を裏切る為に鍵を手に入れた自分。
知らず溜息が漏れる。
初恋とは、楽しいものだと思っていた。何もかも見えなくなってその人のことだけでいっぱいになって、世界の中心が自分であるものだと。そんな簡単に味わえることのない“無我夢中”に浸れるものだと思っていた。
だけど実際は、恋心なんてもたないほうがよかったとさえ思う。そうすればずっと、ずっといれたのだ、あの楽しくて穏やかで変なところで真面目で、なのに傲慢なフリをする魂まで綺麗だった人のそばに。
「よし、やるか」
リリアナは、足元に置いていたバケツと雑巾、箒を持って小屋の扉前まで進み、ジルベルトから貰った鍵を錠前に差し込んだ。
ガチャリと立派な音が鳴り、錠前のフックが持ち上がった。
「おお、ジルベルト様、ちゃんと鍵出来上がってましたよ」
ギシギシ揺らしながら木戸を開き小屋の中へ入れば、発光石の時よりもしっかり部屋が見えた。
四方の棚一面には、製作品という名のガラクタと図面や資料が突っ込まれている。見た目はぐちゃぐちゃだが、どうやらジルベルトの頭の中では何がどこにあってとか、種類分けされ置いてあるらしく、そこは触らないことにした。
籠や木箱などをずらしては床を箒で掃いて、雑巾で綺麗に拭き取りをしていく。
小屋は狭く、机など置いてないのでいつもジルベルトは床に座り込んで作業をしていた。
「いやー、あんな見た目キラキラの人が、こんなボロボロの小屋で座り込んでるとか、面白いしかないな……」
ジルベルトがよく座る位置を念入りに拭きながら、俯いているせいか涙がこぼれてしまう。それをまた拭いては、ポタリと落ちる雫に「もうっ」とリリアナは顔を上げて、別のことを考えることにした。
酒場の女将と主人には手紙を書いている。数日後には届くだろう。心配させるかもしれないが、城に永久就職するので帰れないと、口裏を合わせてもらう約束を手紙に書いて部屋に置いてきた。テレーザやヴェラ、チェルソンへの詫びと感謝も。
だけど最後まで、ジルベルトへの手紙は真っ白のままだった。なんて書けばいいのかわからなかった。言葉にも文字にもできなかった。形にすることがすごく難しかった。
だから別のもので伝えることにした。
リリアナはポケットから、何枚ものメモ用紙を取り出す。思い出せるかぎりの前世の便利グッズや電化製品などを書き出したものだ。
それを床のジルベルトの定位置に置くと、ひとつの籠に向かった。
黒い布の塊が入った籠を引っ張り出し、想像よりも重たかったその塊を両手でそっと持ち上げ床に置いた。慎重に布を捲っていけば、つるりとした大きく丸い石が出てきた。
「これだ……」
以前、ジルベルトが見せてくれた不思議な石。小屋の出入り口から差し込む光に照されよく磨かれている表面は輝いているが、黒いような紫がかっているような不気味さえ感じるまだらな模様のもの。
これに触れた時にものすごいエネルギーを受け、前世の記憶を取り戻したのだ。
注意深く観察してみても、それ以外に不思議なことも怪しいこともない石だ。
だけど知っている。
一瞬でも指先が直に触れただけで、身体が吸い込まれそうな力と、またそれとは真逆に頭に入り込んでくる力を。
ロレットは本気なのか冗談なのか「元の世界に戻れ」と言った。いや、半ば彼自身もあり得ないと思っているのかもしれない。彼がどこまでこの石の事を知っているかもわからないし。だから暗に、この城から立ち去れという意味あいだったかもしれない。
だけどリリアナは、以前触れたあの一瞬で感じていた。この石の力で『あの世界に行くことが出来る』と。
城を出て酒場に戻ることは簡単で。もっとどこか遠くの地に逃げることだって出来る。だけど、この城からどんなに離れた場所にいたって、育ってしまった想いは簡単には消せないだろう。
マルクレン国の王太子であるがゆえに、どこの地に逃げたって、彼がどこの令嬢と婚姻し祝福され家族を持つその過程、すべてが届いてきてしまう。
こんなに貪欲に強欲になるなんて思ってもなかったのだ。
自分だけが知る彼のくたびれた態度や、綺麗な顔を目一杯しかめて文句を言ってくる子供っぽさや、ボロボロの小屋で作業に集中しすぎて小さく背中を丸めて、それでもキラキラと瞳を輝かせるその横顔や、時々目新しい食材をフォークで刺してイタズラっぽい顔して口に運んでみせたり。
そんな彼のすべてが、他の誰かの特別になることを、ただの女官としても、ただの国民としても、手離すことが出来そうにない。
だったら、私はこの世界から逃げ出し、何も届かない、そして自分も簡単に戻ってこれないところへ。
「生まれ変わるのかな、それともこのままかな」
怖くてなかなか触れるのに勇気が持てない。まったく知らない世界に飛ばされる可能性だって、ゼロではない。
「一番いいのは、あの事故に合う前後かな。このままの私があっちにいったら、どう生活していけばいいのかわかんない」
リリアナは両手を合わせて「どうか、元の世界に! 出来れば、こちらでの記憶も消してください!」と祈って大きく息を吸い込んだ。
瞼を強く閉じたまま両手で石に触れる。触れた手のひらがビリビリとしたかと思うと、閉じているはずの視界が真っ白な光線に埋め尽くされ身体が気持ち悪いほどに浮遊していく。
ガンガンと耳鳴りがしてグニャリと身体が歪むような感覚を必死で耐え、やがて浮遊感がなくなり目映い光線がおさまっていくのを感じて、恐々と瞼を押し上げる。
どうやら小さく踞っていたようで、視界には地面があった。その地面に違和感を感じる。
ゆっくりと頭をあげると、見慣れない景色が広がっていた。
(いや違う。これは、以前私のいた世界だ)
二車線の道路を車やトラックが行き交い、人々が時間に追われるように足早に通りすぎる。踞っているリリアナに、誰もたいして反応するでもなかった。大きな建物が四方から空へと伸びていて、目の前にはバス停がある。
(ああ、ここは、あの場所だ)
どうやら、転生直前の、銀髪の少年を助けようとしたあの場所に、戻ってきたようだった。
バッと立ち上がって自分の服装をみれば、残念ながらリリアナはいつもの女官の制服を着ていた。両手で頭を探れば、いつものおさげの髪型だった。前世の姿に戻った訳ではないようだった。
「そっか」
何も考えずに逃げ出した罰だと、リリアナは納得した。いつまで経っても、よく考えるより先に行動してしまうところは直らないものだと。
(ジルベルト様もそりゃ心配するよ)
ふと浮かんだその自分の言葉に、ぶわりと涙が膨れ上がってどんどんこぼれていく。
一番望んでいたのに、彼の記憶はしっかり自分の中に残されていた。
彼の怒った顔すら簡単に浮かんでしまう。
『なんでもかんでも飛び込むな』『お前はほんと……』『誉めてないからな』
今ごろ涙と一緒に想いが溢れて止まらない。
どこかでずっとずっと暴走しそうな気持ちを抑え込もうとしてたのを知る。
彼のいないこの世界にきて、やっと気持ちが素直に噴き出したのだ。
どんなにワンワンと泣いても、通行人達は遠巻きにして流れていく。ポツンと世界の果てに取り残されたように、ここはお前の居場所ではないぞ、とでもいうように。
涙の向こうの、記憶の中のジルベルトだけが『だから言っただろ』と困ったように自分を見つめてくれていた。
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