京に忍んで

犬野花子

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第一章

前触れ

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 文子が東宮妃の候補として入内してから、はや一月が過ぎた。
 それなのに東宮の気配を一度も感じることがなかった。

 反対に内大臣はことあるごとに「その後どうだ」とばかりに文を送りつけてくる。女房達は圧力を感じて日々辟易していた。
 少しの救いがあると言えば、もうひとりの妃候補である梨壺にも東宮のお渡りがない、ということだ。


 ところが一気に状況が変わる事件が起きた。
 ある日、文子の髪を梳く為に櫛などが入った箱を棚から持ってきたひとりの女房が悲鳴をあげた。

 音を立てて落ちたその打乱筥うちみだりのはこからヒラヒラと舞い落ちたのは、人形ひとがたに型どられた白い紙だった。
 女房達は文子をそれから遠ざけるように下がり、他の女房も怖がり裾で顔を覆う。
 タキは構わず、その筥を落として腰を抜かしたままの女房の元へ行き、しゃがんでソレを手にする。

「小滝! 危ないですわ!」
「大丈夫です、ただの懐紙です」
 ひっくり返してみたり透かして見たが、形が奇妙なだけで、呪いの言葉も対象者となる名も書かれてはいなかった。

 小滝の落ち着きぶりに、平常心を素早く戻した古参の小留も近づいて覗きこむ。
「……なんと気味の悪い……なぜこのようなものがここへ」
「悪戯にしては……いえ、このようなこと悪戯でするものではないですね」
 タキは眉根を寄せた。
「お、小滝……もう、よいですわそのようなものいつまでも持っていては危のうございますよ」
 文子もさすがに怖いのか声が震えていた。
「はい、大丈夫ですよ文子様。わたくしすぐ燃やして参ります」
 そう言うとタキは皆の目に触れぬよう懐にしまい桐壺の北にある淑景北舎まで足を運んでから、燈台の火で燃やしたのだ。

 しかし、それは1度では終わらなかった。
 ある時は御簾に差し込まれた状態。ある時は水を貯め入れる角盥つのだらいの中と、気味の悪い日々が続いた。
 さすがの文子も段々と気が滅入ってしまったようで、前のように楽しく過ごすことが難しくなってきた。

 反対に、最年長の小留は恐れよりも怒りが勝ったようで、ドスドスと貴族の女房らしからぬ足音を立てて、東宮坊に物言いへと向かった。

 そしてその翌日、なんとその東宮坊の長官である東宮大夫から文が届いた。なんと、慶時親王が文子姫を心配して話をしたい、という内容だった。
 予期せぬ流れからの東宮との顔合わせが決まった。


 知らせを受けた翌日、タキを含めた女房達で念入りに文子を仕上げた。
 なぜか文子のお供にと小留が小滝を使命したので、苦手な女房装束を再び着込み付け髪をつける。好機なんだか災難なんだかタキは項垂れた。

 東宮が居住するのは、この桐壺の真西にある宣耀殿せんようでんである。
 文子を連れて渡殿を渡っていると、ふと視線を感じて見やる。南に位置する梨壺にかかる渡殿で、あちらの女房らしき者達がこちらを見ながらヒソヒソとしていた。

 向こうにとっては面白くないだろう。理由はどうであれ、こちらが先に東宮と会うことになったのだから。

 宣耀殿の東側の孫廂まごひさしにて頭を下げたまま待機すると、軽やかな足音達が近づく。

「どうぞ顔をあげてください文子姫、そして女房方」
 優しげな声がかけられ文子、小留、小滝はしずしずと頭をあげた。
 座る前にわかっていたことだが、御簾は降ろされていたので東宮の顔を拝見することは叶わなかった。
 だがその無念さを大いに吹き飛ばす事実に、タキは隠しもできず顔をポカンとさせた。

 御簾の側に控えた侍従と思われる中に、あの月夜に現れた男、小波に通っていたという忠明がいたのだ。

 最初から気付いていたのか向こうはタキが顔を上げ視線が合うと、あの時のように妖しく美しく唇に弧を描いた。

「この度は文子姫に怖い思いをさせてしまい、申し訳なく思う。大切な姫ぎみを預かる身としてこんなに不甲斐ない事態を起こしてしまいました。ご気分のほうは大事ないでしょうか?」
「……はい。御心配頂き痛み入ります」
 文子はさすがに緊張しているのか心もとない声色でなんとか答える。
 それを組んでか東宮は女房達にも声をかける。
「女房方にも大変な思いをさせてしまいましたね。まだ、続いているのですか?」
 小留は「はい」と答えた。
「ほぼ、毎日、どこかに忍ばせてあったり簀子すのこに置かれたままであったり、それはもう……酷いもので」
「そうですか……。わかりました。こちらで手を打つようにいたしましょう、忠明よいか?」
「はい」

 今日はあの時と違って直衣をキッチリと着て正装している。
 その姿は堂々としていて凛々しく美しい。それがなぜかタキには苛立ちを覚えさせる。

「その人形のものには、何か特徴的なものはありましたでしょうか? 呪や名が書かれていたりはしましたか?」
 忠明の問いに、タキは小留から発言許可の目配せを受け、口を開いた。
「いいえ、なにもございませんでした。白い懐紙を切り抜いたものでございます。不吉なゆえ、その場で燃やしておりますので、今持ってはおりません」
「わかりました」

 ずっと見つめられていて居心地悪かったその忠明の視線は外され、文子へと向き直る。
「それでは本日より、わたくしを含める何人かの者で交代に桐壺周囲を当たろうと思います。姫様、お許し願いますでしょうか?」
 文子は驚いたようだが、小留に促されて頷いた。
「はい、宜しくお願い致します」


 桐壺に戻ると、待ちきれなかったとばかりに女房達がワラワラと3人を囲んだ。
「どうでした? どうなりました?」
「ええ、東宮の侍従の方が調べてくださることになりました」
 小留が答えるが、女房達はそれだけでは足らないらしい。
「東宮様と文子様はどうでした? 文子様、東宮様はどのようなお方でした?」
 誰もが思っていたであろうこの好機に、女房達は期待を寄せていたようだ、だが。
「きっとあのお方は、わたくしにはまったく興味がないのですわ。ていうよりも、その……」
 珍しく言葉を濁す文子に皆が前のめりで耳を傾ける。

「東宮様は、きっと、女性そのものに興味がおありではないのですわ」
 聞いていた女房達も驚いたが、タキも驚いた。

(同じように面会していたのに、どこでそのような考えに?)

「ねえ、小滝」
 急に話を振られて驚くが、文子は続ける。
「侍従の方々の男ぶりの華やかさといったら、でしたわよね?」
「え?」
 思わずすっとんきょうな声が出てしまったが、文子が言わんとしていることが理解できた。

 あの忠明は断トツではあったが、確かに他の侍従達も粒揃いであったのだ。そして東宮付きの女房の姿は見られなかったのだ。

「ですが文子様、東宮様がその……まさか……」
 タキは自分の仕事的にもそうであってはならないことを祈るのみだが、ここでまさかの古参の小留までもが文子に同意した。
「東宮様は『大切な姫ぎみを預かっている』と申されました。男色かどうかは置いても、今までのことから妃を娶る気はないようですわ。大殿様には申し訳ございませんけど」

 なぜか文子が元気になった。
「そうね、そのうち帝様もお父様も諦めて、屋敷に戻れるかもしれませんわね。さあそうと決まれば小滝」
「は、はいっ?」
「また持風様のお話聞かせてちょうだい」



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