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2.子供の話
しおりを挟む銀鉤はその日から、赤子の世話に奔走されていた。病気をすることもあったけれども、赤子は順調に成長していった。
老いで死ぬことのない、何百年と生きた鬼にとってはわずかな時だった。それでも赤子と過ごした時間は今までの何倍も長く、そして楽しいものとさえ彼には思われていた。それほどに孤独というのは退屈なものだったのだ。退治に来る者さえ現れない、特殊な彼にとっては。
獣の乳を飲み川の魚を食べ、すくすくと少しずつ大きくなっていく子供に、銀鉤は何故だか妙な心地を覚えた。できるはずもないのに、このままずっと子供のままで自分と共にいてくれたらどんなに良いことだろうかと。らしくもなくそんな事を思った。
彼が喋らずともそれでよかった。このままこうして共にいてくれるだけで、銀鉤は退屈を忘れられた。
銀鉤はその男児を金霞と名付けた。
空が黄金色に輝くその一時をそう言うのだと、小耳に挟んだ事があった。
闇の中でしか生きられぬ自分とは違い、この子供は人として生きることができる。青く冴えた空の下、彼が他の者たちと同じように人間として生きるその時を銀狗は想像した。
朝焼けに見える黄金色の空のように、この子には人間としての明るい未来が約束されている。それを思って付けた名だった。
「私の名は銀鉤だ。金霞、言うてみろ。ギ、ン、コ、ウ」
銀鉤は自分を指さしながら言った。
それをまん丸な目でジッと見たかと思うと、金霞は嬉しそうに声を上げ、銀鉤を見上げながら真似するように言った。
「ギンコ! ギン!」
「……少し違うが、まぁ、それでよい。お前の名は金霞だ。言うてみろ。キ、ン、カ」
褒めるように頭を撫でてやってから同じように金霞を指さし、ゆっくりと言って見せる。すると金霞は銀鉤の方を指さすと、キャッキャと笑いながら言ってみせた。
「ギンコ! ギン! ギン!」
余程頭を撫でられたのが嬉しかったのか、何度も何度も繰り返し銀鉤の名前を呼ぶ。それに苦笑しながらも、銀鉤は再び金霞の頭をぐりぐりと撫でてやった。
「……お前にはまだ早かったな。――どれ、そろそろお前のために魚を採ってこよう。昼にお前が食えるように用意しておかねば。ついてきなさい」
「ギン! たかな!」
「ああ、そうだ。お前の好きな魚だ」
「あかな! しゅき!」
子が少しずつ人間らしく成長していく内、彼がとても輝かしい容姿に恵まれ、聡明で吞み込みの早い子供だというのが分かってきていた。
この分だと、自分を育てているのが同じ人間ではないのだといつかは必ず気付いてしまうだろう。
銀鉤はそれを、どうしてだか少しずつ恐れるようになっていった。自分が金霞と同じ人を喰らう異形の者だと知った時。この子供は一体、何を思うのか。
金霞が成長してしっかり言葉を話すようになると、昼時に人里へ行かせては買い物の遣いをさせるようになった。
金霞は人間だ。いつかは人里に下りて暮らすことになるに違いない。だとすれば、人としての知識もそれなりに持っているべきなのであって。これはその訓練でもあるのだ。
「おじさん、これちょうだい!」
「おや坊主、お前さんそんな小さいのに偉いなぁ。お使いかい」
「そう! にぃちゃんがかってこいって」
「よしきた、お前さんには特別にでかいのをやろう」
「やったー! おじさんありがとう」
「いいやいいや、また、ごひいきにな」
「あらやだお前さん、かわいい子にでれでれしちゃって」
「うるせいやい! てめぇこそ――」
「またねーおじさん!」
「……おう、気を付けてけぇれよ!」
「はぁい!」
「あらかわいい、あの面相で男の子なのねぇ……ちょっとわたしあの子送っていくわ、心配だもの」
ああしていつまでも野山を駆け回っていては、いつか自分のような鬼になってしまうのではないか。そもそもあの輝くような美しさが損なわれてしまうのではないか。銀鉤のこれは、それらに対する危惧からくるものだった。どちらかといえば後者の思いの方が強かったが。
銀鉤は腐っても元は貴族筋の男だ。美醜に対する思考もそれなりにまともなのだ。もし万が一そうなっては親としては見過ごせない。金霞にすっかり毒されていた銀鉤は、親バカ的な思考でもってそんな事を定期的にさせるようになった。
金霞が何者かに絡まれぬよう、影に潜み見守りながらその様子を盗み見た。決して他の者に見られぬよう細心の注意を払う必要があったが、ずっと使わずにいた鬼の能力が役に立った。
鬼は人に憑くことができる。影に潜むことができる。
なるべく死んでもかまわないような粗暴な男を探し、取り憑き、その子の様子を見守った。眠気を我慢しながらの観察は骨が折れたが、金霞の安全と将来のためだ。人を食う鬼が人の成長のために様子を見守るだなんて、何とも奇妙な心地ではあったが、不思議と苦痛には感じられなかった。
巷では鬼を見破る術師の類いがいるともっぱらの噂だが。そんな術師すら銀鉤の姿を見てしまったら、きっと自らその身を捧げるに違いない。
この世に銀鉤を殺せる者がいるとしたら。それは、銀鉤の姿を美しいと思わず、この姿に少しも魅了されない特異な者なのだろう。そんな者、この世にいるとは思えない。それは彼の確信だった。
隣に先程の店の女を連れながら、金霞は笑いながらてくてくと歩いている。
願わくばこの子供が、鬼の事など何も知らずに大きく成長するようにと。鬼らしからぬ思考でもって、銀狗はそんなことを思った。
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