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黄昏の吸血鬼

80.乗り越えるべきもの

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「“ベルエの箱”――それなりに長く生きたなら、お前もその名くらいは聞いたことがあるだろう」

 ミライアがアンセルム達にその話を聞かせている。ジョシュア達にも聞かせた問題の遺物の話だった。
 アンセルムとラザールは、ヴェロニカのように元々はただの協力者という位置付けだった。吸血鬼達の中でも事実を知る者の少ないベルエの箱、その話を伝えるつもりなどなかったのだ。

 だがそれが、アンセルムの能力発覚と共に変わってしまった。ミライアが唐突にその話をし出したのはつまり、そういう事なのである。
 アンセルムとラザール、そしてついでにヴェロニカもまとめて、これで晴れて正式なミライアの仲間なのである。信用できる者だとしてそう彼女は判断した。

「ああ、あの例の。入れたものの時を止める箱、とか僕は聞いたよ。でもあれってただの噂でしょ? 本物なんてどこにもないって」

 ミライアに問われたアンセルムが、眉間にうっすらと皺を寄せながら答えている。
 そういう表情をしていると吸血鬼にはまるで見えないな、なんて、そんな事を思いながらジョシュアはその様子を眺めていた。

「あれはただの噂ではない。“ベルエの箱”は実在する」
「実在するって……」
「錬金術を操る吸血鬼の話も、時を止めるという箱も事実だ。いくら嘘のように聞こえてもな」
「……」

 思わず声を失ったアンセルム達三人を見ながら、ジョシュアはヴィネア達と一線を交えたあの日の事を思い出していた。
 あの時はジョシュアも無我夢中だった。
 初めてヒト魔族を手にかけようとした。結局アレが死ぬことはなかった。だからその時、エレナの命を奪ったその仇をいつか必ず討ってみせると、ジョシュアは心に決めたのだ。

 アンセルム達はそんなジョシュアの気も知らないだろうけれど、彼らの持つそれぞれの能力が、ジョシュア達の役に立つのである。罪悪感を感じている暇はもうなかった。

「管理者が殺されて持ち出された。それをやらかしたのが、恐らくあの魔族らだ。吸血鬼も関わっている」
「……」
「箱の中にあれば時が止まる、……つまり、不老不死を実現させる事もできなくはないのだ」
「……ん?」
「分からんか? 急所となる心臓を入れれば良い。箱は決して壊す事が出来んからな。鍵をかけておけば万全だ」
「……は? え? ……それが本当ならどうやって……」
「それをどうにかするのが我らの役目だ」
「どうにかって――」

 呆然とミライアの話を聞く彼らを眺めながら、そのを考える。もし本当にそうであるなら、箱と鍵の在り処を探さなければならない。
 安全を期すならばきっと、箱や鍵は手元に置いておくはず。肌身離さずにずっと、誰の手にも触れない処へ。

「だからこそお前の協力を必要としている。あれらの膝元にこちらから出向けばボロを出すかもしれん。魔王だと名乗る存在の事も気になる」
「……そう」
「そこの下僕が聞いた話では、あれらは配下も集めていたようだ。ただの道楽で済むようには思えん。何かしらの企みはあるのだろう」

 ミライアがそう言葉を切って、初めてそう聞かされたアンセルム、ラザール、そしてヴェロニカの三人の反応を窺う。眉唾物、そう称されるようなそんな代物について突然聞かされて彼らがどう思うのか。ジョシュアも口をはさむようなことはせず、ただジッとその様子を眺めていた。

「その箱が本物で、あの魔族らが使用しているとなぜ分かったのです?」

 ヴェロニカが真っ先に問うた。人間である彼女たちにとって、そんな箱の存在は耳にした事もないだろう。疑うのも無理はなかった。実際ジョシュアですら、その光景を目の当たりにするまでは信じなかっただろうから。
 
 そうやって疑問の声を上げたヴェロニカに向かって、ミライアが口を開く。何故だか意味深にジョシュアの方へと視線をやりながら、彼女は高らかに言った。

あの魔族ヴィネアは心臓を貫かれても死ななかった。そうだったのだろう? 下僕よ」
「「「‼︎」」」

 ミライアがそうジョシュアを呼んだ瞬間、ハッと息を呑む声が三方から聞こえてくる。まさかジョシュアがそれをやっただなんて夢にも思わないだろう。だからジョシュアは少し遠慮しがちに説明してみせた。あわよくば、知られずにいたいだなんて甘い事を考えながら。

「ああ。それは確かだ。アイツは……、胸を突き破られても動いてた。生きてた。あれは普通じゃあない」

 あの時、ジョシュアはとどめを刺したと思ったのだ。だから油断した。それがまさか再び動き出すだなんて夢にも思わなかった。頭の中が真っ白になるような、絶望感にも似た焦りを覚えた。あの状況で仕損じただなんて、ジョシュアが忘れられるはずもなかった。
 今でもその感覚が腕に残っているようで、ジョシュアは無意識にその腕を左手で擦った。

「……それは咄嗟に心臓を外してしまったのではなくて?」

 ふと硬い声でヴェロニカがそう聞いた。この時唐突に、ヴェロニカにもこの話はしていなかった事を思い出した。彼女は未だ人間だった頃のジョシュアしか知らない。だからきっと、ジョシュアがヴィネアの身体に風穴を開けたという事実も一番信じられないのかもしれない。
 けれどジョシュアは確かに、エレナの仇を討とうとしたのだ。

 ヴェロニカの顔も見ず、静かに右腕を上げながらジョシュアは言った。

「貫いたのは剣やナイフじゃあない。……俺の腕ごと突っ込んで胸部をぶち抜いた。外す訳がない」
「……」
「あるべき場所に心臓がなかった。そう考えれば辻褄が合う」

 その瞬間、まるで時が止まってしまったかのような錯覚を覚えた。誰も身動きすらしない。
 それからしばらくの間、誰一人として口を開かなかった。

「……そういう訳だ。どれ程厄介かはお前達にも理解できたろう」

 ミライアがそう言った事で皆の金縛りが解けたのか。強張った表情はそのままに、全員が彼女を仰ぎ見た。

「このまま野放しにはできん。何かが起こる前に早急にカタを付けたい。でなければ、この街のような事がより大規模に各地で起こっても不思議ではない。今秘密裏に食糧を集めているのだとしたら……次は何がくると思う?」

 まるで兵糧でも集めているかのよう、そう思ったのはきっとジョシュア達だけではないはず。このまま放置していてはいずれもっと酷い事になる。そう思うのは当然の流れだった。

 誰も軽口を叩かなかった。アンセルムがヴィネアの居場所に見当をつけ、幾つか都市の候補を上げた。その中から拠点として相応しい条件を導き出し、その場で向かうべき次の街を決めた。

「――ならば次はここだ。絡繰りからくりの街ガレディ」

 そんなミライアの言葉を最後に、ここ最近でも特に重要な集会は終わりを告げた。
 そしてその日から再び、ジョシュアには試練が訪れる事になる。

「ラザールと一緒なのが僕ってのは逆に不安だから、同室ペアの変更をお願いしたいかな」

 そう提案したアンセルムの言葉は、確かにジョシュアにも理解できるようなものだった。

「僕って隠れるのは上手いけれど戦うのはからきしでね。そういう経験もほとんどないんだ。頭脳派でね。心配だから、ひとペアに一人ずつがほしいよ」
「アンセルム! 言い方!」

 ラザールに速攻で叱られるが、アンセルムは全く悪びれる様子もない。彼のマイペースすぎる性格が羨ましくもあるが。ジョシュアは地味に傷付いていた。

「俺はそっち戦闘狂の括りなのか……」
「ん? 自覚がないのかい? あの方の首を締めたって話は僕も聞いてたよ。まさか、素手でハート心臓もぶち抜いていたとは……良い歳して酷い無自覚だよ」
「アンセルム‼︎」

 こうしてジョシュアは、皆の前でジョシュアを扱き下ろしたアンセルムとペアを組む事になった。またしてもしばらくはイライアスとのあれこれはお預けになる事が決定して少しばかり寂しくなる。自覚してこれからという時にコレとは。アンセルムの厳しい指摘も素直に受け止めなければならないようだと思った。
 それ以降もジョシュアは、アンセルムの鋭い言葉にグサグサと刺されながら大人しく決定に従うのだった。

 イライアスは最後までミライアに対してゴネていたようだが、彼女に一度ガツンと叱られるとそれっきり何も言わなくなった。表情は不満たらたらでジョシュアにも絡んできたが、状況的に仕方がないのだと諭せば彼もようやく大人しくなった。
 大きな子供のようで手がかかるが、イライアスがこんな風にゴネるのは、本当に信頼する者の前でのみだと気付いてしまってからは、そう悪くないと思えてしまうジョシュアだった。


「――君は随分とあの方のお気に入りのようだ。僕はそんな話をしてもらった事がないよ。それに、血も分けてもらってもぶち抜いたんだろう?」
「……」
「どうだった? 僕も分けて貰ったけれどあの方は――」

 体の大きな子供はもう一人居たらしかった。
 同室となったアンセルムのおしゃべりは、就寝のため部屋に入った途端に止まらなくなった。ほとんど口を挟まないジョシュアの相槌がいけなかったのか、彼の言葉はどんどん怪しい方向へと向かって行った。

「あの方の身体は暴いたのかい? 君、押せばきっとイケてしまう性質タチだろう――?」

 いつも穏やかなその口調が段々と強まってきている。
 部屋のソファへ腰掛けていたジョシュアに、アンセルムが詰め寄ってきていた。同じソファに片脚を乗り上げ、背もたれに手をついて上から見下ろしている。

 その目をジョシュアが見上げると、彼のものとは違う別の魔力の気配を感じた。それが意図的なものなのか、それとも後遺症によるものなのか、ジョシュアには分からなかった。けれど今のアンセルムが正気でない事くらいはすぐに分かった。

 ああきっと、ラザールの前ではこれを必死に我慢していたのだろう。そう思うとこれをただ放置しようとは思えなかった。同じくあの魔族ヴィネアの術に掛かった事のある者同士、抗いきれない誘惑に呑まれる苦しさを知っているから。

「アイツは俺に魅了を掛け損ねた。堕ちる寸前まではいったかもしれなかったが、時間が俺に味方をした」
「!」
「ほんの一年前までは人間だったんだ……化け物を狩るハンター、だった。魅了からくる欲を抑える術は多分普通よりは心得ている。そのおかげもあるんだろう。アイツは、幻術で誤魔化て俺を操っただけだった」
「……一体、どうやってあれを退けたんだい? あんな多幸感――」

 ヴィネアの魅了にかかると、その身を委ねるだけで幾重もの幸福感を覚えるようになる。それを何度も浴びている内に、そこから抜け出せなくなってしまうのである。新たな幸福感を得たくて、更に求めるようになる。ヴィネアの魅了は、そういう麻薬のようなものだった。

 ジョシュアはそこまで陥る事はなかったが、それが抗い難いという気持ちは十分に理解できた。ジョシュアでさえ――幸福な新たな生を手に入れたばかりのジョシュアでさえあの時、ヴィネアの手に堕ちそうになったのだから。
 満たされた幸福感を得る事のなかったヒトならばどうなるか。想像に難くなかった。

「あれ以上に幸せだと思える事を思い浮かべるんだ。乗り越えたらきっと、自分の求める最高の瞬間が待っていると。アイツには決して叶えられないと思うもの」
「そんなもの僕には何も」

 震える声で言ったアンセルムの顔は苦しそうだった。
 ジョシュアの出会った吸血鬼は皆同じような目をしている。戦いながら孤独に苛まれているような目。そこでふと、ジョシュアはイライアスの事を思い出した。初めて会ったあの日、彼もまた同じだった。
 人間が好きなのにハッキリとは皆に知覚されず、そんな人間達を影から支えながらも居ない者のように扱われる。そういう姿が、以前の自分とも重なったような気がした。だからなのか、ジョシュアの口はその時、勝手に思いついたことを言ってみせた。

「ラザールと共に過ごす事を考えたらどうだ? あそこまで言ってくれる人間、他に居たか?」
「ラザール……」
「そうだ。自分の身を危険に晒してまで付いてきてくれる人間なんてそう居ないぞ。ラザールと共に居れるんなら、アンタもあんな奴ヴィネア必要ないだろ」
「……」
「現実の方がより幸せに決まってる。アンタに掛かったそれは随分と根深そうだが……今はもう繋がりは切れてるんだろう? 放り出されたんならその内完全に断ち切れるはずだろうが。少しなら俺も手伝う」
「……」

 それからしばらくアンセルムは黙り込んだ。内心で葛藤しているのだろう。その目が揺れているのがジョシュアにも分かた。
 大切な人を傷付けたくない。その想いがあればきっと、アンセルムもこれを克服できるに違いない。いくら時間がかかってもいい。何者にも邪魔されず、本来の自分の姿で大切な人の側で過ごす。そういう二人の未来をジョシュアもいつか見てみたかった。
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