教師の子

黒羽ひなた

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エピソード3

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 深夜1時に家を抜け出した。私の家では夜出かけるなんてことが許されていなかっただけに、罪悪感が体を支配して、冷静に判断するだけの心の余裕はなかった。いつばれてしまうか怖い。けれどこれで逃げられるのなら。この生活からさよならを言えるなら――。
 
 夜の町はあまりに静かで、それもまた恐怖心を煽り立てた。靴の音が響き渡る。この町の人はみな私と同じように生気を失ってしまったのだろうか。夏とはいえこの時間は流石に寒い。着こんできたのは正解だった。少しの物音にも、吹きつける風にも怯えながら、しかし足は無意識にも目的の場所に向かっていた。

 昨日の雨のせいで水流は激しくなっていた。ここまで近くに来てようやく、勢いよく流れる川の力強い声が意識される。私がこの流れに飲み込まれる前に私の心は既に飲み込まれてしまった。いざこうして死を目前にすると暫く何も浮かばない。死ぬ前はこういうものなのだろうか。それとも思い出すような記憶などなかっただけなのだろうか。

 ここから飛び降りれば――。飛び……降りれば……。
 
 

 川を見下ろしながら私は泣いていた。頑張って飲み込もうとした本心は突然溢れ出し、止まることを知らなかった。
 
 やっぱり怖い。こんなことしたくない。
 
 ここから飛び降りればもうこんな縛られた生活からも解放されるだろう。でも頭から血を流し、冷え切った川に流され続ける……。経験したことのない恐怖に満ちた苦しみを想像するだけで、それくらいなら生き続ける方がまだましなのかもしれないと思うようになっていた。いつの間にか、あれほど抱いていた死への願望はすっかり陰に隠れてしまっていた。
 
 私は結局逃げることなんて出来なかった。死ぬことなんて到底出来はしなかった。

 少しの間粘って川を見つめていたが、ここに飛び込もうと思うようになった瞬間は一度も来なかった。怖い、という言葉が口から零れるたびに涙は加速し、遂には、もうこんなところにいちゃだめだと公園に逃げてきていた。

 本末転倒じゃないか。どうして私は何をするにもこんなに弱いのだろう。ぎゅっと目をつぶる。さっき流しきれなかった涙が少し滴る。後悔の印か。

 ――瞼の奥のあの人はこんな時も優しく私を包み込んでくれるのだろうか。
 
 ……おばあちゃん……ごめんなさい。こんな孫で。こんな不孝者に育ってしまって。瞼の奥に必死に語り掛けるも、おばあちゃんはもういない。本当の意味で。

 今さっき死ぬことができれば、私はあの頃に、幸せなあの頃に戻れたのかもしれない。再び会えたのかもしれない。でもそれっておばあちゃんが望んでいることなのかな――。私の足を引き留めていたのは恐怖心ではなく、この心残りだったのかもしれない。怖いだけで引き返すような甘い悩みではないのだから。

 こんな時間だし公園にだって誰もいなかった。けれど明かりは灯っている。暗闇に放り出された私に光を与えてくれるかのように。今日終えられなかった人生の続きを、これからの人生を、照らしてくれるかのように。

 濫立する木々は昼間に見るよりもずっと落ち着いていて、生命力にあふれていた。風に揺られる葉はどれも鮮やかな緑色を輝かせている。生命力を滲ませながらゆっくりと休んでいるかのような佇まいに私は思わず言葉を失う。木をまじまじと見ることはこれまであまりなかった。いつも勉強ばかりで、そもそも外に出ることすら少なかった。

 自然にここまでの力があるとは思っていなかった。今思えばあんな時間に一人で何をしているのか、と思うが10~15本程ある木のふもとから見上げては生気を分けてもらってを繰り返していた。

 死ねないのならばこれからの人生は楽しく生きよう。そうじゃなきゃ私が戻ってきた意味はない。そうとまで思えるようになっていた。

 この経験は決して無駄ではなかったのかもしれない。人は失敗を通して成長していくように、死の淵に立とうとしてそこから戻ってくれば、生への渇望は再び潤されるのだろう。

 死ぬことはできなかった。あのままの生活が続くのは嫌だと思っていた。だから死んで逃れたかった。しかし、生きてしまった。死ぬことはできなかった。

 それでも私は解放された――。

 ――

 あれ以来学校には通わなかった。通信制の高校に切り替え、大学まで一応進学できた。そしておまけも。

 「小学校教諭一種免許状 取得」
 
 詩織ちゃんも小学校の先生になったと虫の知らせに聞いた。けれど彼女が責任を感じる必要はない。

 私は逃げることで立ち直ることができると分かった。逃げたままになってしまっては、人として堕落の道を走ることになるが、逃げた先を目の当たりにすることで再起の契機を獲得することができる。だから辛くなったら逃げたっていい。

 大切なことを教えてくれてありがとう。

 私は母の二の舞にはならない。母にお手本を見せてやるんだ。私の強い姿を。私の生まれ変わった姿を。
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