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第三話 目覚め
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僕はまだ布団の上で、ぼんやりと寝室の天井を見上げたり、月光に照らされて薄っすら姿を見せている、どこか物寂しい道路や家々をカーテンの隙間から眺めていた。
意識が徐々にはっきりしてきたとはいえ、まだ眠気が僕にくっついて離れなかった。縛られるような緊張感から解き放たれたという安堵の気持ちと、その一方で当然疲れもあった。僕はまだ半透明の薄い膜を破り切れずに、ふわふわとして心地の良い、夢特有のあの状態から身を放てずにいた。それを擁護するかのようにして、温々とした布団は僕を眠りに誘って止まなかった。
そうぐずついていると、なにやら美味しそうな音が聞こえてきた。炒め物なのだろうか、小刻みに気持ちの良い音がする。
僕の父は早起きで、いつも4時には既に料理を始めている、と母から教えてもらったことがある。
……ということは、今はおおよそ5時くらいだろうか。いつもこんなに早く起きることもないから、やっぱり本気で焦っていたんだろう。敷布団が汗を吸って湿っぽい。つい先ほどまでを思い出すと、自分でもなんだか恥ずかしくなる。
一方の母はまだ下の部屋で寝ているはずだ。母はおしゃべり、悪く言えばいつもうるさくて、正直に言うと若干迷惑だなと思えてしまう。
今も父の存在はあるが家の中はどこか人気に欠け、炒め物の音はするものの、どこか静寂が漂っているように思えた。
心を落ち着かせて耳を澄ませてみると、家の前を流れる川のせせらぎが、そして遠くの方からは鳥のさえずりが聞こえてくる。のんびりとした朝の時間、朝のくつろぎを想起させるような優雅さがまた心地よかった。
ふと気がつけば、香ばしい匂いが僕の寝室にまで伝わってきていた。――やっぱり野菜炒めだ。そう思うのと同時に、今度は僕の空腹の音が野菜を炒める音を、そして室内にある音を、全て上書きしていった。
そういえば、昨日は夜ご飯を食べてなかったんだっけ。炎天下の長距離走で疲れ切った僕は、ご飯を食べる気力さえも出ず、倒れるようにして布団に飛び込んで、そのまま直ぐに眠ってしまったのかもしれない。そこにあの夢である。
――昨日は現実も、夢も、どちらも含めて厄日だった。
まだちょっと疲れてるし、あともう少しだけ……、あともう少しだけでいいからこのまま寝ていたかった。でも流石に空腹の衝動には抗えず、僕は渋々起きる覚悟を決めた。
覚悟――というのは少々大袈裟かもしれないが、朝が苦手な僕にとって起きるということはそれくらい億劫なことだった。ただ、今日は少し違う。今までもこんな夢を見ることはあったけれど、その都度謙虚な気持ちになれる。今日も例外ではなかった。
「夢でよかった。生きていて良かった。」
何気ないことで当たり前のことに思えるかもしれない。それに、普通に生きていたら忘れがちなことだと思う。でも、今みたいに謙虚な気持ちがあると、ふとそんなことを考えてしまう。川に生きる魚や、遠くでさえずる鳥も、時にはそう思うことがあるのかもしれない。
泡沫が一点の隙間からあっという間に破れていくように、僕は勢いよく布団から起き上がった。そこにはぐちゃぐちゃになった掛け布団が嵐の後を思わせるほどに物寂しく残されていた。
朝の家の中はとても寒く、空気がピンと張りつめていた。朝ごはんの匂いだけが緩衝材で、そして僕はそれを手掛かりにしてリビングへと向かう。あ、まだ顔を洗ってなかったっけ。回れ右、と号令をかけられたかの如く綺麗に方向転換をして、廊下の奥の洗面所へ向かう。
朝、と言っても早朝の廊下は特に思っていた以上に冷えていた。夢で暑かったのが一切嘘のように。とてもまともに歩くことなどできなかった。つま先立ちで、そして母を起こさないように音を立てずゆっくりと。つま先が冷たくなってきたら踵で。また踵が痛くなったらつま先で。こんな要領で寒い寒いと小声で文句を言いながら進んでいった。
あそこには鏡がある。僕が生まれた時からずっと。――そこに僕の姿は、果たして映るのだろうか。正直起きてからもずっと不安だった。僕は本当に生きているのか。今ももしかしたら夢の中なのかもしれない。映ったらいいな――。確信のない未来を描きながら、そして心のどこかで一抹の不安を抱えながら、恐る恐る洗面所の電気を点けた。
うっ、眩しい……。
思わず目を閉じてしまう。目を閉じたのになんだかまだ眩しくって、下を向かずにはいられなかった。早く鏡を見たいのに。鏡に映った自分の姿をこの目で見たいのに。目の前が真っ白で、頑張って開けようとしてみたものの、暫く文字通り何も見えなかった――。
意識が徐々にはっきりしてきたとはいえ、まだ眠気が僕にくっついて離れなかった。縛られるような緊張感から解き放たれたという安堵の気持ちと、その一方で当然疲れもあった。僕はまだ半透明の薄い膜を破り切れずに、ふわふわとして心地の良い、夢特有のあの状態から身を放てずにいた。それを擁護するかのようにして、温々とした布団は僕を眠りに誘って止まなかった。
そうぐずついていると、なにやら美味しそうな音が聞こえてきた。炒め物なのだろうか、小刻みに気持ちの良い音がする。
僕の父は早起きで、いつも4時には既に料理を始めている、と母から教えてもらったことがある。
……ということは、今はおおよそ5時くらいだろうか。いつもこんなに早く起きることもないから、やっぱり本気で焦っていたんだろう。敷布団が汗を吸って湿っぽい。つい先ほどまでを思い出すと、自分でもなんだか恥ずかしくなる。
一方の母はまだ下の部屋で寝ているはずだ。母はおしゃべり、悪く言えばいつもうるさくて、正直に言うと若干迷惑だなと思えてしまう。
今も父の存在はあるが家の中はどこか人気に欠け、炒め物の音はするものの、どこか静寂が漂っているように思えた。
心を落ち着かせて耳を澄ませてみると、家の前を流れる川のせせらぎが、そして遠くの方からは鳥のさえずりが聞こえてくる。のんびりとした朝の時間、朝のくつろぎを想起させるような優雅さがまた心地よかった。
ふと気がつけば、香ばしい匂いが僕の寝室にまで伝わってきていた。――やっぱり野菜炒めだ。そう思うのと同時に、今度は僕の空腹の音が野菜を炒める音を、そして室内にある音を、全て上書きしていった。
そういえば、昨日は夜ご飯を食べてなかったんだっけ。炎天下の長距離走で疲れ切った僕は、ご飯を食べる気力さえも出ず、倒れるようにして布団に飛び込んで、そのまま直ぐに眠ってしまったのかもしれない。そこにあの夢である。
――昨日は現実も、夢も、どちらも含めて厄日だった。
まだちょっと疲れてるし、あともう少しだけ……、あともう少しだけでいいからこのまま寝ていたかった。でも流石に空腹の衝動には抗えず、僕は渋々起きる覚悟を決めた。
覚悟――というのは少々大袈裟かもしれないが、朝が苦手な僕にとって起きるということはそれくらい億劫なことだった。ただ、今日は少し違う。今までもこんな夢を見ることはあったけれど、その都度謙虚な気持ちになれる。今日も例外ではなかった。
「夢でよかった。生きていて良かった。」
何気ないことで当たり前のことに思えるかもしれない。それに、普通に生きていたら忘れがちなことだと思う。でも、今みたいに謙虚な気持ちがあると、ふとそんなことを考えてしまう。川に生きる魚や、遠くでさえずる鳥も、時にはそう思うことがあるのかもしれない。
泡沫が一点の隙間からあっという間に破れていくように、僕は勢いよく布団から起き上がった。そこにはぐちゃぐちゃになった掛け布団が嵐の後を思わせるほどに物寂しく残されていた。
朝の家の中はとても寒く、空気がピンと張りつめていた。朝ごはんの匂いだけが緩衝材で、そして僕はそれを手掛かりにしてリビングへと向かう。あ、まだ顔を洗ってなかったっけ。回れ右、と号令をかけられたかの如く綺麗に方向転換をして、廊下の奥の洗面所へ向かう。
朝、と言っても早朝の廊下は特に思っていた以上に冷えていた。夢で暑かったのが一切嘘のように。とてもまともに歩くことなどできなかった。つま先立ちで、そして母を起こさないように音を立てずゆっくりと。つま先が冷たくなってきたら踵で。また踵が痛くなったらつま先で。こんな要領で寒い寒いと小声で文句を言いながら進んでいった。
あそこには鏡がある。僕が生まれた時からずっと。――そこに僕の姿は、果たして映るのだろうか。正直起きてからもずっと不安だった。僕は本当に生きているのか。今ももしかしたら夢の中なのかもしれない。映ったらいいな――。確信のない未来を描きながら、そして心のどこかで一抹の不安を抱えながら、恐る恐る洗面所の電気を点けた。
うっ、眩しい……。
思わず目を閉じてしまう。目を閉じたのになんだかまだ眩しくって、下を向かずにはいられなかった。早く鏡を見たいのに。鏡に映った自分の姿をこの目で見たいのに。目の前が真っ白で、頑張って開けようとしてみたものの、暫く文字通り何も見えなかった――。
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