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第二話 キャンバスの群青
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佐綿くんから受け取ったF8号のキャンバス。
確認しなくても私自身がよく知っている。
「描けたの?」
まれの声が聴こえる気がする。
心臓の弁膜が糊付けされたような息苦しさを感じ、濃い珈琲を流し込む。
碧湖……たった一度、まれとふたりで訪れたことがある。
どうしても本物のベルメールのデッサンが観たいと言うから、あの時後先考えずに行動してしまった。神に誓うが、私は藤見まれに指一本触れてはいない。
保護者の許可も取らずにふたりで出掛けたその事実が引き金となり、まれは転校を余儀なくされ、私は懲戒免職は免れたものの、他県で採用試験を受け直す羽目になった。
私はただ、放課後美術室で絵を描いたり物思いに耽ったりしているまれの姿を、純粋に求め素描していたかっただけなんだ。
まれの姿はそれ以来見ていないし、どんな人生を送っているのかも知らない……が、なぜ幻のように教え子たちの前に現れるのだろうか。
私の元にこそ現れてほしい。そう願った時、静寂な碧湖の底に渦巻く群青色の何かが、細い水の糸となって私の首筋にふわりと纏わりついたような錯覚に陥った。
どこまでも深く暗い碧色の湖に沈んでいきそうな、まれの白さと艶めく黒髪を瞼の裏に思い描く。それは、漆黒の瞳に吸い込まれる光のイメージとよく似ていた。
「やめてよ」
佐綿くんの気弱な声に目を開ける。
枝垣さんが、嫌がる佐綿くんに焼けたマシュマロを食べさせようとしている。
「ぼくが甘いもの苦手なの知ってるでしょ」
枝垣さんは悪戯っぽく笑って彼をいじめている。
平和なふたりだ。
私はカシューナッツの詰まったタッパーを開けて、佐綿くんに「良かったら」と勧めた。
枝垣さんはつまらなそうに、頬杖をついて横を向いた。枝垣さんの象が一瞬藤見まれに見えた。
けれど、まれの顔がはっきり思い出せない。
焚き火のぱちぱちっと弾ける音と同時に、何かが足元をしゅるしゅると素早く撫でるように移動した。
まれのような枝垣さんは、群青に塗られたキャンバスを指差して、
「約束、描けたの?」
と言った後、テーブルに突っ伏して眠ってしまった。
よく見ても、それはやはり枝垣さんだった。
カシューナッツを口に入れようか迷った状態で手を止めていた可哀想な佐綿くんが、その様子を見て、再び話を始めた。
*
開かずの物置からこのキャンバスを持ち出したあと、枝垣さんは時々奇妙な言動をとりました。
そのキャンバスを指差して「描けたの?」とか「約束なのに」とか、怒ったような寂しいような物言いをするのです。その時の漆黒めいた枝垣さんの瞳をまともに見てはいけないぞ、と本能が教えてくれました。
そもそも、なぜうちの大学に真野先生のキャンバスがあったのかが不思議で、サークル内の記録を探ってみました。
すると、確かに過去に隣町の美大生有志と保育園や介護施設などでボランティアをしたり、自治体のホール等でワークショップを試みていた時期があったようです。
その中に碧湖だと思われる場所のスナップ画像も数点あり、顔ははっきりしないけれど、彼女だと思われる人物が写っていました。全身の産毛が逆立ちました。
理由は分かりませんが、キャンバスを持ち込んだのは、彼女しか考えられない、と根拠なく確信しました。
頼りにしている枝垣さんまでもが、時々彼女が入り込んだように変貌してぼくを脅かすので、途方に暮れていたけれど、幸いにもここへ来ると言い出したのは枝垣さんでした。
「どうしてもキャンバスを真野先生に返さなくちゃならないの」と。
*
私は腰を上げると、小屋の中から一冊のスケッチブックと美島くんの描いたまれのデッサンを持って、佐綿くんに見せた。
「どうだい? 君の側に現れた女性に似てるかい?」
みるみる佐綿くんの目は落ちるかと思うほど大きくなり、
「そうです! 彼女です! わあ、まるで生きているようだ。顔の表情がない分、掴み難いのに強い魂を感じます」
そして、やはり佐綿くんもまれの顔を思い出せないと言ったのだ。
佐綿くんの興奮気味の声に枝垣さんが目を覚ました。
「やっぱり真野先生のデッサン最高、生きてるみたい。モデルが美少女だったのが雰囲気でわかります」
ついでに美島くんのデッサンも見せると、
「ぅわ、美島、上達したんですね。というか、真野先生のデッサンに似てきた。あいつ発想凄かったけど、デッサン下手くそでしたもんね。会いたいわ」
そして、佐綿くんの方を向くと、
「せっかく持ってきたんだから、先生に見せなさいよ、あのエロい絵」
そして消極的な佐綿くんの足元から、もう一枚のキャンバスを無理矢理取り出した。
私の碧が夜の群青なら、彼の碧は昼の瑠璃だった。
画面右下に重心を置いた、壊れそうなのに幸せそうな白い藤見まれ……いや、人形……絵画サークルのレベルではない。
私は激しく佐綿くんの絵に……佐綿くんに嫉妬した。
いつの間にか降っていた霧のような雨に焚き火は消えて、辺りは暗闇になった。
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