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第一話 スケッチブック
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しおりを挟む美島くんは、窓の外をぼんやり見ながら、
「山では雨の音は錫杖の音色みたいに聴こえるんですね」と言い、ぽつぽつと話を続けた。
*
ぼくが橋場先生の所にデッサンを習いに行くようになったのは、美大が諦めきれずに自力で浪人しようと決心したからでした。
あ、橋場先生というのはデッサンの先生の名前です。
予備校には通えないから、せめてデッサンだけでもと検索していると、意外にも自転車で通えそうな場所に「クロッキー会」というグループを主宰している素描専門の先生がいることがわかりました。
思い切って訪ねてみると、クロッキー会というのは、週に一度、参加者がお金を出し合ってモデルを雇い、二時間ばかりクロッキー、もしくはデッサンするという会で、受験生のデッサン云々というのとは様子が違いました。
おそらく七十に手が届くかなと思われるくらいの、穏やかな紳士然としているその人が橋場先生でした。若い頃は予備校でデッサン指導に就いていたようです。しかも、ぼくの志望大学を卒業していたのでした。
「デッサンなら見てあげよう。私はたいていここにいるから、いつでも来て、アトリエにある物、石膏でも何でもデッサンするといい。もちろん会費を払えばクロッキー会に参加しても構わないよ、ヌードモデルの時もある」と、爽やかに誘ってくれました。
ぼくは、その、ヌードも描いてみたかったのですが、バイト代で会費も支払うことを考えると、先生にデッサンを見てもらうだけで充分だと思ったので、未だにクロッキー会には参加していません。
そんなわけで、橋場先生のアトリエ近くのコンビニでバイトをしながら、ぼくの浪人生活は今に至っているのです。
梅雨に入った頃でした。
アトリエは開いているけれど、先生不在の時がありました。
ぼくは、今日は何をデッサンしようかとアトリエを物色していたんです。
すると窓際の丸椅子に、制服姿らしき黒髪の女子高生が剥き出しの脚を組んで座っているのにハッとしました。
「……いつからそこに?」
誰も居ないと思っていたから心底驚いてしまって、声がひっくり返ってしまったくらいです。
「石膏や静物だけじゃなくて、人物も描いたほうがいいと思うんだけど」
女子高生は言います。
「あ、うん、そうだね。でも……」
女子高生は灰色の重たい空を眺めたまま、窓辺に頬杖を突いて、
「あたしを描いてもいいよ」と言ったのです。
「え、でも……」
「描く? 描かない? どっち」
「か、描きます、描かせてください」
ぼくは、何だかよくわからないまま、窓辺で頬杖を突く女子高生を描くことにしました。
制服のブラウスにサイズオーバーのアイボリーのベストをダボッと重ねていて、真っ直ぐな黒髪が艶々と綺麗でした。
なぜか、名前すら訊くことも出来なかったのです。
三十分ほど経った頃、先生が帰ってきた気配があり、緊張していたぼくは少しほっとしました。
その時です。木炭紙がカルトンから捲れて天井を舞い、床にばら撒かれました。と同時に、木炭で汚れたスケッチブックがバサッと目の前に落ちてきました。
ポルターガイスト的な不可解な現象に、恐怖と呆気に取られながらも、一枚五百円もする木炭紙を夢中で回収していると、濃紺のソックスにローファーの足元が、唐突にぼくの視界に入り込んだのです。
恐る恐る視線を上に這わせて行くと、ソックスから伸びた真っ直ぐな白い脚。それが途切れたと思うと、嘘みたいにマイクロな丈のグレーのスカート、サイズオーバーの白いベストを着たその女子高生が、ぼくの鼻先十センチに立っていました。
純真無垢なぼくは、こんなに近くで女子の脚など見たこともないから卒倒しかかりましたが、不可思議な現象への思考の方が勝ったようで、全身の毛が逆立ったのを覚えています。
彼女は木炭で汚れた古いスケッチブックを無表情のままいきなりぼくに渡すと、そのまま入り口からスルリと出て行きました。
ぼくは意味不明の不安と怖さと悲しさで泣きたくなりました。なぜ悲しさを感じたのかはわかりません。
そこへ橋場先生が戻って来られたのでした。
たった今目の前で起きていたことを、しどろもどろだけど興奮気味に話すと、先生はこう言ったんです。
「ああ、あの娘は一年くらい前からたまに来るんだよ、あの頃と同じ姿のままでね」
いつしかアトリエの外は雨が降っていて、庭の葉がその雫に揺れていました。
橋場先生は、ぼくが手にしている古いスケッチブックを裏返し、そのサインを指差すと、ぼくに問いかけるように首を傾げて言いました。
「知ってる?」
そこには、真野先生、あなたのサインがありました。
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