やさしいキスの見つけ方

神室さち

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キス xxxx

5-4 想い 

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 学校という組織の中では厄介ごとばかり押し付けられていたけれど、うまく立ち回れば処理しきれない量でもなかった。適当に己の力をセーブして、決して自己主張せず、周りに合わせて。突出しない程度に優等生をやって、時折わざと間違えて。そうやってうまく生きていた。実冴に出会うまで。
「あの女、最初姉だともなんとも言わないで俺の前に現れたんだ。中二、十四のとき初めて逢ったんだけど聞いて驚けよ。教師だ教師。中学の地理の教師。しかも新任早々担任」
 とにかくめちゃくちゃだった。いい子の優等生な外側の井名里の限界に挑戦するかのような無理難題を吹っかけて引きずりまわす。
 授業の時間は世間話をして、変ななぞなぞを出して時間をつぶす。攻撃対象はいつも井名里で正解が分かっても誰かが答えるだろうと答えを言わなかったりするとすぐに殴られた。考えているフリをしてもなぜかばれて、分かったならすぐに答えろと手かモノが飛んでくるのだ。数秒で解いて答えを言うと、今度はもうちょっと考えなさいよとやっぱり殴られる。とてつもなく理不尽だったが、とりあえず一年我慢すれば、三年になれば社会科の教科は変わるのでとにかく耐えた。
「どんなにネコかぶって笑ってても、その頃裏側には今と同じ俺がいたから、内心本気で殺してやろうかと思ったけど、それでも一学期の間はわりかし耐えたと思う。我ながら」
 無個性な優等生を演じつづけていた井名里も、一学期の終わりにとうとうキレた。
「ったく。人の成績なんだと思ってんだか知らないけど、全部イチにされたんだ。全部。ゼロの付け忘れじゃなくて、全角のイチ」
 一年生のときオール十だった井名里の成績表。中間試験も期末試験も実冴の教科以外全て主席だったにもかかわらず。
「それって、先生が私にやってるのとあんまりかわんないと思う。この学期末も九付ける気でしょ?」
 おとなしく聞いていた夏清が、苦笑する。
「全然違うだろうがよ。いくら俺でも他の教科までいじるか。まあとにかくその時は、その頃の俺には学校でもらう評価しか自分の価値を出すもんがなかったから、あれはもう」
 場所が教室であることすら忘れて、怒鳴り散らした。
「………あの時は本気で。何の恨みがあってこんなことしやがるんだって思ったら、思わず素がでてた」
 温厚で人当たりがよく、誰にでも愛想が良くて笑顔を絶やさない優等生。頼まれたことはにっこり笑って引き受けて、誰の期待も裏切らない。誰かの悪口も陰口も叩かない聖人君子のような井名里礼良が景気良く、彼女の悪事を最初からついさっきのことまで古い方から順に一つも欠けることなく一気にまくし立てた。
 彼女が言った冗談の、一言一句さえ間違えずに。
 クラスメイトたちがその驚異的な記憶力に目を点にしていることさえ気付かずに、酸欠で肩で息をしながらナニサマのつもりだと聞いたら、あっさりと。
『実冴サマに決まってんじゃん。合格合格。やったらできるじゃない。言いたいことは言わないとダメよ。人の顔色ばっかり見てないで。別に私、あんたがどんなだろうが気に入ってるの。いつ爆発するかなと思ってたんだけど、大した忍耐力ねぇ。ハイ本物のあんたに本物の通知表』
 もう一つの通知表を差し出して呆然としていた中学生の井名里の頭を撫でて、うれしくて仕方ないといった顔で実冴が笑ったのだ。
『こっちのあんたのほうがいいと思うわよ。そのままで行ったら? どうせほら、みんな怯えてるし』
 しれっと言い放つ実冴に、苦い何かを噛み潰した気分で誰のせいだと言い返せば、心底楽しそうに笑われた。
『そりゃ今まで隠れてたあんたのせいでしょう。一回や二回裏切ったり裏切られたりしただけで離れていくような人間、こっちから蹴りだしなさいよ。あんたが立派な犯罪者になっても私は味方でいてあげるから』
 どうしてそんな風に無条件で、そんなことを言いえるのだろう。胡散臭そうな顔をした井名里に、実冴がニヤリと笑ってトドメを刺した。
『あんたホントに気付かないの? ホントに? 北條って聞いたことあるな、くらい思わなかった?』
 その邪悪ささえ漂うような笑みは記憶の中の北條響子とは、全く似ても似つかなかったけれど。まじまじと見詰めればやっぱり顔の造作はよく似通っていた。『あ』のカタチのまま動かせない唇と、条件反射のように実冴に向けて立てた人差し指が震えた。
『改めて初めまして。北條実冴です』
 それだけならよかったのだが。
『オネーサマって呼んでいいわよ』
 もちろん、返した言葉は『誰が呼ぶかクソババァ』で、更に付け加えるとその後殴る蹴るの暴行をうけた。
「すげぇだろ? あの女、俺に会うためだけに教師になって学校にもぐりこんだんだぜ?」
 思い出して笑いながらそう言って、井名里がまた口元を引き結ぶ。
「なんでそんなことするんだって聞いたらな、俺がそう言う風になったのは自分のせいだから、ってさ」
 無個性な微笑みで、集団の中に埋没しようとする表側と、それでも『個』の集まりの中で『孤』になってしまう裏側。
 表側の自分があがけばあがくほど、より広がる他人との距離。人は忘れることが普通なのだと頭でわかっていても、全てを覚えている自分と、都合の悪いことは都合よく忘れてしまう他人。
 それでも誰も気付いていないと思っていた。こいつら本当に脳に血が通ってるんだろうかと思いながら、完全な笑顔で問いには応じた。誰も知らない本当の自分と誰もが知っているにせものの自分。
 表側の自分があがけばあがくほど、より広がる裏側の自分との距離。
 固いけれどもろい仮面。いつか砕けたとき、周りだけではなくて自分さえ傷つける、分厚い仮面。
「何も知らなかった優希に、俺のことを教えたのは自分だからって。ありったけの悪意と一緒に。母親を、響子さんを取られておもしろくなかったのは優希だけじゃなかったんだよ。むしろ実冴のほうがひどかったらしい。北條の人間達は意図的に響子さんと実冴を引き離してたそうだから」
 将来、北條一族の看板になる子供に、分家の人間達は己たちの都合のいい大人になってもらおうとしていた。北條響子も気になっていたものの分家が一塊になれば逆に自分たちが潰される。首の挿げ替えはいくらでも可能なのだ。分家に逆らってまで実冴に執着するよりも、彼女には手近なところに、代用品があったのだから。仕事が忙しいことを言い訳にして、彼女は実冴と距離を置いていた。
 本来ならば自分に、あたりまえに注がれるはずの愛情は、別の人間がさらっていった。何も知らずに無邪気に笑っていた井名里が。
 顔も知らない弟を、実冴はずっと憎んでいた。絶対に自分より幸せになんてなって欲しくないと思っていた。
「ナニが実冴を変えたのか、俺は本当に知らない。なんでわざわざって聞いた俺にこう言ったんだよ」
 

 
 誰かの不幸を望んでるうちは、自分が幸せになれないもの。自分の不幸を人のせいにしてるうちは、出口は見つからないの。
 

 
「手始めに俺だったらしい。五年くらい計画練ってたっつーんだから相当だろ? でも俺の場合は本当に……どこにも出口なんかないんだよ」
 顔も見たことがない母親のせいにすればいいのだろうか?
 言葉も交わさなくなった父親のせいにしたら楽になれただろうか?
「誰のせいにしようが、俺はこうして生まれてきたし生きてる」
 そう言って、泣きそうな顔をしたまま黙って聞いていた夏清の髪を触って、井名里が起き上がる。
 長い髪の暖炉の側は、その熱で乾いてぱさついているのに、反対側の髪はもうすっかり冷たくなっていた。
「でも、夏清に逢って、一緒に暮らして、そんなこともうどうでもよくなってたんだ。全然思い出すこともなくなって、平気になったと思ってた」
 剥き出しの腕も肩も。片方は炎にあぶられて熱いのに、もう片方は体温を失って痛いほど冷たかった。
「………寒かっただろ?」
 その冷たい肩を抱いて聞くと、そんなことないよと小さな声がかえってくる。
 預けるように寄りかかる細い体を抱きなおして毛布をかける。
「こうしてれば明日の朝には、また何でもなくなるから」
 触れ合う肌と肌から、伝わる熱があれば。
「夏清とこうしてられるなら」
 何も言わなくても、ただ息をしているだけでも。
「何も要らない」
 他のものでは、絶対に合わない、対等な半分。
「だからできるだけ、このまま」
 


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