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キス xxxx
4-6 過去
しおりを挟むひと気のない、ひっそりとした長い廊下の最奥のドア。大量に下がった鍵の束から、井名里は迷うことなく一本を取り出して差し込む。開錠される乾いた音がドアの向こうで響いた。
ゆっくりと向こう側へ木製のドアが開いていく。換気が良くないのか、少し空気の匂いが違う。狭いわけではなく、けれど無駄に広くもないそのスペースには、上に昇る階段と、いつから動いていないのか分からない、見たこともないくらい古い、アンティークなほどこしのあるエレベータのドア。
「井名里真礼は、この病気にかかってたんだ。この施設も病院も、もともと彼女のためだけに造られた。死んだあともこの病気の、国内唯一の専門機関として井名里家の遠縁が財団を作って出資をしてる。金の出所は井名里家だけど一応政治家だからな、表立ってはやってない。経営してるのは北條の家。響子さんってやたらと忙しい人だろう?」
うっすらと埃の積もった階段を一歩ずつ上がる。狭い踊場につけられた位置の高い窓から差し込む光に、舞い上がる埃がキラキラと反射する。
「普通に塾の講師だけしてるんなら、あんなに忙しくはない。北條の家は幾つも学校や病院やこういう研究施設を持ってるんだ。
響子さんとウチの親父が出会ったのも、これがあったかららしい。北條の家は響子さんの兄が継ぐことになってたし、もともとビジネスで繋がってたから、今後より強く繋がれるようにって両家の親族同士が結婚を進めたんだ」
勧めたのではなく。
実冴たちが三つのとき、北條の家を継ぐはずだった諒一(りょういち)が事故で亡くなった。結婚したときと同じように、家同士の話し合いで二人は別れた。井名里には優希が、北條は実冴が。
「北條の家で実冴がどう暮らしたのか、俺も良くは知らない。俺が初めて逢った時、もう今と変わらない調子だったからな。昔はホントにすごかったらしい。殺しても治らないだろうってくらい、性格歪んでたそうだ。でも、実冴は変わった」
ある日突然。変わるきっかけにつまづいたのだと実冴は笑っていた。だからあなたもつまづきなさいと。
高校生になった実冴が、北條の家を継がないと言った事がきっかけで、北條響子は家を捨てた。とはいえ簡単に行くわけはなく、居を現在のビルに移し、少しずつ係わり合いを絶とうとした。
「実冴が公と……氷川の長男と結婚して、北條の家の連中もやっと実冴が本気で北條の家を継がないって事が分かって、今じゃかなり分家に振ったり分裂させたりしてるから、響子さんの方にかかる負担は減ってるんだろうけど、もともとあの人がやってる塾はアンテナショップみたいなもんで、代表者は違う人間だけどあの学習塾を実質統括してるのは北條の家で、仕切ってるのは響子さんだ。現場に携わらないと分からないことが多いからって無理してやってんだよ。他にもこことか、手放せない部分があるからあの人はまだバカみたいに忙しいんだ」
三階分の階段を上る途中には、一度もどこかへ通じるドアはなかった。だた一箇所、三階の、今目の前にあるドアの向こうに行くためだけの通路。階段。エレベータ。
鍵の束から、井名里が細いおもちゃのような鍵を選んで、鍵穴に差し込む。やっぱり内向きに開いたドアに井名里が背をつけて、夏清の手をひく。
室内は、少しだけ色あせていたけれど、壁もドアも何もかも、おそらくもとはピンク色だったのだろう。夏清が知っている、病院の普通のものとは違う、御伽噺に出てきそうな天蓋をかけることができる広いベッド。そこにあったはずの布は、もうすでにないけれど。
少し擦り切れたようなカーテンをそっとひいて、井名里がその向こうの窓を開ける。北向で、直射日光は入らないけれどその向こうにはとてもきれいな景色が広がっている。窓と向かいになった壁に飾られた、やっぱりすこし色の落ちた風景画と同じ景色が。
「今でこそ、病名さえ分かればこうやって専門の機関があって、金持ちが出資してくれるおかげで親も大した負担もせずに子供に適切な治療をしてやることができる。薬漬けで生活に一定の節制は必要だけど、それでも第二次成長期さえ乗り切ったら、大抵の人間はそれなりに生きつづけることができる」
窓から離れて、井名里が分厚いマットレスの上に座る。反動で、廊下で見たものよりも可視的には少ないけれど白い埃がふわりと空気の中に浮く。
「でも井名里真礼は違った。八歳の時まで片田舎の小さな施設で、病名は分かってもほとんど認知されてなかったから大した治療も投薬も受けられずに成長して、医者からは最初十歳まで生きられないだろうって言われてたらしい。その頃だって、この病気に効く薬はあったんだ。ただまだ難病指定にもなってなくて、使う薬は保険の適用がなかった」
容態が悪くなったら入院して、落ち着いたら退院をする。医者にかかること自体には孤児の彼女は無料だったはずだが、それも保険の適用内の話である。
「井名里真礼の、井名里の家に引き取られてからの十年近く、そのほとんど全部の時間が、ここでの投薬と試行錯誤の治療で終わったんだ」
その甲斐があってか、真礼の病状は持ち直し、その命の期限も少しずつ延びていった。
井名里数威が、二十歳以上年の離れた妹の真礼を溺愛していたことは、当時彼の周りにいたもので知らないものはいないくらい有名な話だった。確かに彼女がいなければ五男だった井名里数威が父の跡を継ぐことはなかったし、彼女の境遇は同情を誘う。
けれど。
「井名里真礼は、ここで死んだんだ」
俯いたまま、埃がつくのも構わずに井名里がその手でマットレスの上を撫でる。
何も言えないまま、夏清がそっと井名里の頭を胸の中に抱き寄せる。いつものようにふざけたようなしぐさは一つもなくて、ただすがるように、しがみつくように彼の両手が夏清の腰に回る。
「実の兄の子供を。俺を、産むのと引換に」
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