やさしいキスの見つけ方

神室さち

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アンバランスなキスをして

6-3 夢

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「夏清?」
 優しい声が、冷たい世界にぱぁっと広がった。
 澱んだ水の中みたいな息苦しい場所から、一瞬でなにもない清涼な、けれどとても暖かい場所へ引き上げられる感覚。
 何もない、空色。体が、どんどん軽くなって。
 目を開けると、知らない天井。
「……?」
 瞬きで、生ぬるい涙が伝う感触。それよりも暖かい、手。
「先生?」
 びっくりしたような顔で、夏清が井名里を見つめている。
「大丈夫……じゃないよな?」
「なん……で? 先生が、ここ、いるの?」
 質問が重なった。
「悪い。寝てたけど、うなされてたから起こした。まだ寝てていい。もう外に出るから」
 夏清の言葉を拒絶と受け取った井名里が頬をなでたあと体を離そうとするのを夏清が小さな声でいかないで、と止める。
「違う……の、びっくりしたの……あの夢、途中で終わったの……はじめてだったから」
「夢?」
 井名里の腰のあたりのシャツを掴んでいる夏清の小さな手が、振動が伝わるほどがたがたと震えている。そっと手を取って、自分の手の中でなでながら、井名里が聞き返した。
「ちっちゃい時とか……中学の修学旅行、行けなかったこととか……あの時のこととか……つらかったこととか、怖いことばっかり……たくさん、でてきて、終わらなくて……いつも……でも、最近は全然見てなかったの。先生といたら、全然、見てなかったの」
 言いながら、ぼろぼろ夏清が泣く。止まらない涙が伝う頬を井名里の手がなでる。夏清が目を閉じて、ほぅっと息をついて、言葉を続ける。
「怖くて、助けてほしかった。でも私、先生にひどいこと言った……から、呼べなくて……でも先生に、来てほしくて、自分が苦しい時だけ、頼ろうとして……名前、呼ぼうとしたけど……声、出なくて……なのに……先生が居たから」
 思いつくように言葉にする。思いを伝えたいのに、どうして言葉はこんなにまどろっこしいのだろう。
「ひどいことしたのは、俺のほうだろう?」
 夏清が首を横に振る。
「今、ここにいてくれるだけで、いい」
 懸命に微笑もうとしている夏清を見ていると、井名里はどうしようもなく情けなくなる。無意識で無理をしようとする夏清に、自分はなにをすることができるんだろうか、と。
「先生、手……どうしたの? ケガ、したの?」
 つないだ手の違和感に気付いて、夏清が問う。
「ん? 何でもない。大したもんじゃないよ。夏清のほうがつらいだろう? こんなもんの心配、しなくていいから」
 夏清の痛みに比べたら。こんなもの、ケガのうちにもはいらない。
「だって、私のせいじゃないの?」
「そうやってなんでも自分のせいにするな。ちょっと切っただけだから」
 ベッドの脇に座って、汗で張りついた前髪を払ってやる。冷たかった額に熱が戻っていて、井名里がほっとした顔をする。
 程よく冷たい井名里の手が気持ちよかった。やさしく触れる指先が、心地よかった。
「ごめんなさい」
「?」
「ほんとはずっといっしょに居たいの。いっしょに居て、先生と暮らして、全然知らなかった先生が居て、みんな好きになったの。手も声も腕も胸も、笑った顔も意地悪なところも、みんな好き。どんどん好きが大きくなったの。私の中の先生が、どんどん、大きくなったの」
 一度言葉を切って、深呼吸するように息を吸う。
「でも、先生は変わらなくて、ずっとおんなじで……だんだんわからなくなって……先生が私のことどう思ってるかって考えたら、怖くて。私だけどうしてこんなに先生のこと好きなんだろうって。私だけどうしてこんなに先生に頼っちゃうんだろうって……今だって、先生引きとめて……ケガ、してるのに、私だけやさしくしてもらってる」
「それは……」
 違うだろう、と言おうとした井名里の言葉をさえぎって、夏清が言う。
「先生がそばに居てくれるだけで、幸せな気持ちになれるの。優しくしてもらえたら、他になんにもいらないって思うのに、すぐにそれだけじゃ足らなくなるの」
 好きになればなるほど、心が貪欲になっていく。それは、井名里にとっても同じことが言える。見捨てられてもしょうがないようなことをしたのに、まだ自分のことを求めてくれる夏清が、どうしようもなくいとおしかった。
「先生、だって、一回も、スキとか、いってくれなくて、どんどん、不安になったの」
 言われて気付く。そう言えば、はっきり言葉にした事はないかもしれない。
 夏清は『私のこと好き?』と無邪気に聞けるほど子供でもなければ、なにも言われなくても『あなたのことを信じているわ』と無責任になれるほど、大人でもない。聞き分けがよくて、いつも笑って許してくれるから、井名里は夏清がまだ十六だと言うことを、忘れていた。
「ごめん、なさい……大嫌いなんて嘘。もうどうしようもないくらい好き。大好き。だからお願い。キライにならないで。私のこと、いらなくならないで」
「なるわけないだろう……」
 また、止まっていた涙が流れ出す。泣き出した夏清の顔を覗きこんで、井名里が笑った。近づく井名里の顔に、夏清が瞳を閉じた。
「嫌いになんか、なれるわけないだろう? なってくれって言われても、無理だ」
 目じりの涙を唇でぬぐう。額に頬にまぶたに、触れるだけのキスをしながら、井名里が続ける。
「悪かった。ごめん。謝るのは俺のほうだ。こんなに傷つけて苦しめて悲しませて。嫌われてもしょうがない。夏清がなんでもしてくれるから、甘えてたのは俺のほうだ」
 唇と唇が触れ合って、離れる。
「だからもう、我慢するなよ。嫌なら蹴り飛ばしていいから。一人で全部抱え込む前に、大声で怒鳴っていいから。そのくらいでひっくり返るような俺じゃない」
「うん」
「してほしいことがあったら言えばいい。文句があるなら言えばいい」
「うん」
「もっとわがままになれよ」
「うん」
「いい子じゃなくても、夏清は夏清だろう? どんな夏清も、俺は好きだよ」
「うん」
「これから出てくる新しい夏清も、今まで居た夏清も、全部」
「全部?」
「全部、愛してるよ」
 ふわり、と夏清が破顔する。これまで見た中で一番きれいな顔で、微笑むのを見て、つられるように井名里が笑った。
「私も、世界で一番、先生のこと愛してる」
 笑いながら、キスを交わす。何度もついばむように重ねて、そのあと深く繋がるように、ゆっくりと深く。
「意地悪な先生と、今のやさしい先生、どっちが本物?」
 赤みがさした頬に、井名里の指がすべる。
「どっちも本当の俺だよ」
 そうだ。どちらも同じ井名里。けれど、違う井名里。
「やさしいほうがいいか?」
 問われて、夏清が頷く。
「やさしいだけでいいか?」
 問われて、夏清が少し考える。
 優しくされた方がいい。けれど、それだけだったら、きっと優しくされてもそうと気付かないかもしれない。それに、ものすごく、気持ち悪い気がする。優しいだけの井名里は。
 想像してしまって、フッと笑って夏清が首を横に振る。
 好き、大好き、愛してる。
 何度言っても足らないくらい。
 そんな思いを全部。
 いとおしいものに。
「好きだ」
 見上げた井名里の瞳にごまかすような色がどこにもなくて、夏清の心臓がはねるように高鳴る。
「夏清が好きだ。俺のココ、夏清しか住んでない」
 井名里が、包帯を巻いた手で夏清の手を取って自分の胸に当てる。
 伝わる、心臓の音。
「夏清しかいらない。だからもう嫌いなんて言わせない」
 キスを繰り返しながら。触れ合う場所からこの思いが伝わるように。言葉ではなくて、心が。
「うん。私も、先生しかいらない。私の全部、先生がいい」
 夏清の手がシャツの上から井名里の胸を探るように動く。
「全部先生だったら、悲しいことなんかないもの。嫌いなんて、もう言わない」
 頬にキスが降りてくる。
「なんかね、ほっとしたら、ちょっとねむくなっちゃった」
「ああ、ここにいてやるから、もう寝ろ」
「先生」
「なんだ?」
「助けてくれて、ありがとう」
 笑って、そう言って、夏清が目を閉じた。
「いつでも呼べよ」
 優しい言葉が、そのまま夏清の中に響いた。

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