幸せのありか

神室さち

文字の大きさ
上 下
241 / 326
OVER DAYS

しおりを挟む
 
 
 
 これまでの更生計画の進捗状況の報告会で、それは起こった。まず、哉が決断を翻して残した会社が槍玉に挙がり、そこをついてきた同業の社長を哉が言いくるめた。ここまではいつもの流れで、哉はその一身に彼らの非難を受けて立っている。



 どれだけマイナスの感情ばかりを投げかけられても、それでもその感情を買って、同じく感情で返すことを哉は一度もしたことがない。怖いくらい冷静な態度で理路整然と相手を袋小路に追い詰めると言う、どちらかと言うともっと酷い手法で攻めて行く。

 そこまではいつもの流れだった。しかし、いつも隅っこに居て、これまで一度たりとも発言をしたことのない、ここに集められたメンバーの中でも若い方の部類に入る男がぼそりと呟いた一言がいけなかった。



 どこかから流れる噂など、巡り巡って皆の耳に入っている。誰もが氷川の長男と次男の軋轢は聞き及んでいたはず。言った本人も、つい本音がポロリと零れただけだろうが、運悪く会議室内は哉の短いが辛らつな言葉が劣化ウラン弾のように、後々にまで禍根を残しそうなレベルの絨毯攻撃が繰り広げられ、相手社長の陣地が灰燼に帰した余韻で他の音が全くなかったのだ。



 誰もが哉と目をあわそうとせず、言った当人ももともと気の小さい人間なのだろう、真っ青になって俯いている。



「言いたいことはそれだけですか?」

 逆に、やさしい口調が更に冷え冷えと室内に広がった。



 会議室内は眠くならない程度にゆるく暖房が効いていたはずだが、いきなり氷点下になったかのような錯覚を起こすほど空気が冷える。

 口元は笑っているが、その瞳は蒼い氷点下の焔を上げている。その場にいた数名が武者震いをするように体を揺すらせていた。

 放っておくと錯覚の冷気を当てられている彼らの体が本当に凍りかねない様子なので、哉の隣で補佐していた篠田が音頭を取って次の報告会の日時を告げてお開きにした。

 コソコソと逃げるようにいい年をした大人が背を丸めて去っていくのを哉が睥睨するように見送った。誰もいなくなってから、下らないとでも言いた気に固いイスに背を預けてフンと鼻を鳴らしている。

 哉がこんなにも感情を顕わにする事は……これまでなかったことだ。少なくとも、今日集まった面子には哉が人並みに感情を持った人間だと言うことが理解できただろう。

 それでも五分ほども静かに座っていれば切り替えができたらしく、音を立てずに立ち上がってさっさと執務室に帰って他にも山とある仕事に取り掛かっていた。


 毎度変わらず午後八時を過ぎても腰を上げない哉を、それでも執務室から追い出したのは午後九時を少し回った頃。そのまま家まで送ろうと進路を決めた篠田に、哉が初めて家以外の目的地を指示した。


 こちらからの接待でよく使う、雰囲気のよいクラブに向かってくれと言われて、どうしたものかと考える。が、顔が知れている飲み屋であるのならと諒解して車を進め、一人でいいと篠田の同行を断った哉を置いて車を少し走らせ、クラブに連絡を入れておく。そうすれば、無茶な飲み方をする前に止めてくれるだろうと予測して。


 なので、その後、哉がどうやって家に帰ったのか篠田は知らない。さすがに後数年で三十になろうかと言う青年の動向を首に縄をかけて見張るほどではないだろうと思ったのだ。


 だが、翌日マンションへ迎えに行ってみれば、いつも定時にエントランスに姿を現すのに一向に出てくる気配がなかった。どうしたのかと自宅に電話を掛けてみれば、酷く慌てた様子で応答し、相手が篠田だと判って落胆したのか冷静さを取り戻したのか、十分待てと言って電話を切り、きっかり十分後にエントランスを出てきた。


 後部シートの哉をちらりとバックミラーで見ると、本人も気になるのか、しきりに左のこめかみに貼られた、ガーゼ部分にまだ色合いも鮮やかな赤いシミを滲ませた絆創膏を触っている。


「まだ出血もあるようですし、今日一日は剥がさずそのままのほうがいいと思いますが」


 篠田が、無意識なのか絆創膏の端に爪を引っ掛けている哉にそう言うと、ため息未満のような息を吐いておとなしく触らなくなった。



 これは、これから顔をあわせる秘書たちの反応が楽しみだと思っていたら、案の定三人とも朝の挨拶も曖昧になるくらい驚いていた。哉が執務室へ消えてたっぷり一分くらい経ってから鈴谷が『普通の人間っぽい……』と呟いたのをきっかけにやっと動けるようになったほどだ。


 朝のコーヒーを運んだ時に見た、肌色の絆創膏がその白い肌に全くそぐわなくて浮いている。と言うのはまあ、感想として有りだとは思うが、その後の一言に篠田も笑ってしまった。



「だって、血が赤かったんです!!」


 では何か。緑か青かったら鈴谷は納得したのだろうか。


しおりを挟む
感想 7

あなたにおすすめの小説

社長室の蜜月

ゆる
恋愛
内容紹介: 若き社長・西園寺蓮の秘書に抜擢された相沢結衣は、突然の異動に戸惑いながらも、彼の完璧主義に応えるため懸命に働く日々を送る。冷徹で近寄りがたい蓮のもとで奮闘する中、結衣は彼の意外な一面や、秘められた孤独を知り、次第に特別な絆を築いていく。 一方で、同期の嫉妬や社内の噂、さらには会社を揺るがす陰謀に巻き込まれる結衣。それでも、蓮との信頼関係を深めながら、二人は困難を乗り越えようとする。 仕事のパートナーから始まる二人の関係は、やがて揺るぎない愛情へと発展していく――。オフィスラブならではの緊張感と温かさ、そして心揺さぶるロマンティックな展開が詰まった、大人の純愛ストーリー。

睡蓮

樫野 珠代
恋愛
入社して3か月、いきなり異動を命じられたなぎさ。 そこにいたのは、出来れば会いたくなかった、会うなんて二度とないはずだった人。 どうしてこんな形の再会なの?

Sランクの年下旦那様は如何でしょうか?

キミノ
恋愛
 職場と自宅を往復するだけの枯れた生活を送っていた白石亜子(27)は、 帰宅途中に見知らぬイケメンの大谷匠に求婚される。  二日酔いで目覚めた亜子は、記憶の無いまま彼の妻になっていた。  彼は日本でもトップの大企業の御曹司で・・・。  無邪気に笑ったと思えば、大人の色気で翻弄してくる匠。戸惑いながらもお互いを知り、仲を深める日々を過ごしていた。 このまま、私は彼と生きていくんだ。 そう思っていた。 彼の心に住み付いて離れない存在を知るまでは。 「どうしようもなく好きだった人がいたんだ」  報われない想いを隠し切れない背中を見て、私はどうしたらいいの?  代わりでもいい。  それでも一緒にいられるなら。  そう思っていたけれど、そう思っていたかったけれど。  Sランクの年下旦那様に本気で愛されたいの。 ――――――――――――――― ページを捲ってみてください。 貴女の心にズンとくる重い愛を届けます。 【Sランクの男は如何でしょうか?】シリーズの匠編です。

好きな男子と付き合えるなら罰ゲームの嘘告白だって嬉しいです。なのにネタばらしどころか、遠恋なんて嫌だ、結婚してくれと泣かれて困惑しています。

石河 翠
恋愛
ずっと好きだったクラスメイトに告白された、高校2年生の山本めぐみ。罰ゲームによる嘘告白だったが、それを承知の上で、彼女は告白にOKを出した。好きなひとと付き合えるなら、嘘告白でも幸せだと考えたからだ。 すぐにフラれて笑いものにされると思っていたが、失恋するどころか大切にされる毎日。ところがある日、めぐみが海外に引っ越すと勘違いした相手が、別れたくない、どうか結婚してくれと突然泣きついてきて……。 なんだかんだ今の関係を最大限楽しんでいる、意外と図太いヒロインと、くそ真面目なせいで盛大に空振りしてしまっている残念イケメンなヒーローの恋物語。ハッピーエンドです。 この作品は、他サイトにも投稿しております。 扉絵は、写真ACよりhimawariinさまの作品をお借りしております。

現在の政略結婚

詩織
恋愛
断れない政略結婚!?なんで私なの?そういう疑問も虚しくあっという間に結婚! 愛も何もないのに、こんな結婚生活続くんだろうか?

長い片思い

詩織
恋愛
大好きな上司が結婚。 もう私の想いは届かない。 だから私は…

エリート警察官の溺愛は甘く切ない

日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。 両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉

偽装夫婦

詩織
恋愛
付き合って5年になる彼は後輩に横取りされた。 会社も一緒だし行く気がない。 けど、横取りされたからって会社辞めるってアホすぎません?

処理中です...