幸せのありか

神室さち

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第二章 恋におちたら

13 side哉

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 母娘が和やかに話しているその下で、男たちは黙ったままお茶を飲んでいる。

 娘の恋人が『お嬢さんを僕にください』とやってきた場合というのは、父親が圧倒的に優位に立てるはずなのに、この場はそうでもない。いや、逆にどう見ても優位に立っているのは哉のほうだ。

 その順位を決めているのが哉の余裕だ。やることはやりきったので開き直っているのかもしれないが、前回同様承諾は得たとばかりに、樹理に荷物をまとめるようにと言って座っている哉は、全く気後れしている様子がない。


「ああ、そうだ。仕事の件ですが」

 何もしていないと間が持たないため、樹理の父がわらび餅を口にした瞬間を狙ったように哉がある意味ここで先ほどの件よりも重要な話題をさらりと切り出す。

「三月に交わした契約が向こう三年有効ですから、氷川は行野を一方的に切り離すことはできないはずです。僕の一存でやったことなので破棄されてしまえばそれまでですが、まああれがなくても、すでに行野プラスティックは重要な工場になってきているのですぐには何もできないでしょう」

「……やっぱり……あの契約はおかしいと思ってたんだ」

 おかしいどころか、普通は親会社とも言うべき甲が、被契約者である子会社の乙に対して難解な日本語と言う名のオブラートに包みながらも一方的とも取れる条件を提示するのが契約書というものだ。乙には契約の内容を選ぶ権利すら与えられていないことが多い。


 それが、何度読んでも乙である行野プラスティックに有利な条件ばかりが提示されていたのだ。

 そのひとつに、四月から始めている大学の研究室との提携開発事業がある。基本的に氷川の仕事しかできないこの会社が、ほかのものを受け入れることができたのは、契約による例外が認められたからだ。大学とはまだひと月ほどしか交流していないが、彼らの貪欲なまでの研究熱心さは未来のプラスティック業界で先んじる為の要素が多分にある。

 新素材の安定供給までのプロセスを確立させ、それにかかわる特許を取得すれば、行野プラスティックは氷川ともっと対等に取引ができるようになるはずだ。

 そのノウハウは戦後間もない頃からこの作業に従事してきた老兵とも呼べる職人が持つ感性だが、数値化できないそれらを後継させればより発展できると樹理の父は考えている。

 三年でどこまでやれるかわからないが、目の前の若者によって見る間に会社は持ち直してきている。会社の細部まで(台車の大きさから棚に置く工具の位置までだ)重箱の隅をつつくような改革案には最初はありえないと思ったことも、実践してみれば無駄が省けた動線がすっきりとして効率がいい。そう動くことが今は当たり前になっている。


「……樹理はあなたのところから帰ってきて、それ以前とは違っていた。……父親としては認めたくはなかったが、安っぽく言えば見違えるほどきれいになって帰ってきた」

 ため息をひとつついて、樹理の父が続ける。


「樹理は遅くなってからやっとできた娘で、本当に大事に大事にかわいがって育てたんだ。親ばかだと思われるかも知れんがあなたに言われるまでもない、あんないい子はほかにはいない。まだまだ惜しいんだがね……樹理はあなたを選んだ。多分これから想像もつかないような大変な思いもするだろう。それをわかっていても、やっぱりあの子のしたいようにさせてやりたいとも思うんだ」

 すでに空になった湯飲みを見つめて、またため息をひとつ。何かを断ち切って諦めようとするかのように。



「娘をどうか、よろしく」



 こちらこそと言うべきか、もちろんとうなずくべきか、言われるまでもないと微笑むか。

 珍しく逡巡したのち、哉はただ黙って頭を下げた。



「お茶を淹れなおしてこよう」

 よっこいしょとおそらく無意識に小さくつぶやいて樹理の父が立ち上がり、キッチンに消えてすぐ急須を持って現れた。再び席について、哉の茶碗に注ぐ。

「ありがとうございます」

 自分の茶碗にお茶を注ごうとしていた樹理の父が、びっくりしたような顔で哉をみた。

 礼を言われたことに驚いている様子に、哉は笑って言う。

「礼を尽くすべき相手には惜しみません」

 相手にどう伝わっているのかは別にして、哉は自分がそれなりに礼儀正しいと自負している。ただし、言葉どおり尽くすべきでない相手には惜しむのだ。それも極端に少なめに。


「ああ、そういえば初対面は最悪でしたよ……」

 哉の言葉の裏側を察したのか、苦笑しながら樹理の父がそう言う。

「あの時は到底……失礼。でも今は違う。樹理さんに対する僕の気持ちではないですよ。あなたはたった半年で会社を立て直して、新規の事業を引っ張ってらっしゃる。正直ここまで何とかなるとは思っていませんでした」


 あっさりと言い放つ哉に、苦笑が本物の笑いになった。なるほど、昇格したらしいと。


「私には協力者も大勢いた。私の父の代から働いてくれていた人たちがね。彼らの協力がなかったら到底無理だったでしょう。
 それにやっぱり樹理のおかげでしょう。あなたから取り返さなくてはとそれはもう死に物狂いでしたからね。
 樹理が帰ってきてからも、いつあなたの気が変わって掻っ攫いに……いや連れ戻しに来るだろうかって、それはもう、気が気じゃなかった」


 確かにそうだ。仕事は一人でするものではない。仕事には協力者が必要で、さらに打ち込む為の口実も必要だ。家庭であったり、お金であったりとそれは様々だが、あるのとないのとではモチベーションが違ってくる。


 帰ってきた樹理を見れば、なにかあったことなどどんなに鈍感な親でも気づけただろう。そのくらい、家を出る前と帰ってきた後で、樹理は変わっていた。それは当然、その相手である哉にもなにか変化があったということは想像に難くない。


 淹れなおしたお茶を一口飲んで、樹理の父がしみじみと言った。



「まさかこうも正攻法で攻められるとは思ってもいなかったですよ」


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