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第二章 恋におちたら
9 side樹理
しおりを挟む車が細い路地に折れて、道が石畳に変わり、伝わる振動も変わった。しばらくも経たないうちに立派な門構えの、一目で老舗とわかるような料亭の前で止まる。すぐに木戸が開けられ、中から作務衣姿の男性が現れ、降りた哉がキーを渡している。
さすがに、そのあたりの食堂で定食ではなかったかと哉の『一段上級』な行き先にきっと哉はそんなところに入ったことがないのだと妙に納得した。なるほど、こんなところにあの服ではみっともなかった。初めからここにつれてくるつもりの哉が、服を買ったのもそのためかと理解する。
初めて自力で車から降りた樹理も、哉に続いて敷居をまたぐ。玉砂利が敷き詰められ、両脇に背の低い笹が植えられている。人の歩幅ほどの間隔で地面に並んでいる、打ち水に濡れた御影石は踏むのを躊躇するほどぴかぴかだ。玄関を入れば磨かれて黒光りする柱、白く平らな漆喰の壁。玄関も廊下も畳が敷かれている。案内されるまま奥へ向かうと、都会の真ん中とは思えないほど静かで風情あふれる中庭があり、池には大きな錦鯉が優雅に泳ぎ、木々の間で小鳥がさえずっている。
そんな庭が眺められる座敷で、買い物をしたために遅めになった昼食をゆっくりと味わう。ここまできたら開き直っておいしいものをおいしくいただいたほうがいい。
このとき樹理が問えば、哉は学生時代によく行っていた、味があるといえばそうなのだが、暖簾の端が擦り切れていて、コンクリートの床が乾いた色をしていたためしがなく、座敷の畳がやけにしっとりしていた、老夫婦が営む焼きそばが当時大盛りで二百円だった店の名を言っただろう。今日この店を選んだ理由は、自分の好みを覚えてくれて、少々融通が利くからで、その条件さえクリアされていればどこでもよかったのだ。
さらに言えば、哉が今履いているジーンズは適度にひざの色が抜けていて、ビンテージと言えば聞こえがいいが、神戸にいたころ仕事の途中通りかかった店先のワゴンの中に積まれていた、三本二千円の古着で、もっと言えばぱっと目に付いたその一本しかいらないと定価払おうとした哉に、店員が『しゃーないなぁ マケとくわ』と勝手に七百円にしてくれた代物だ。
要するに、高かろうが安かろうが、お金だけではなく生活全般に全く頓着しない哉は、自分の金のことはこれっぽっちも気にしないのだ。
運ばれてくる料理はどれも哉が食べられる食材を、丁寧に調理したものだった。お昼のコースになっていて、品数も少なめだったが最後に出てきたわらび餅は、口に入れた瞬間溶けてなくなるような絶品だった。
「とってもおいしかったです。ごちそうさまでした」
店先に回された車に乗って幸せそうにそう言って樹理がにっこりしたあと、ナビが告げる行き先に、形容しがたいような短いうめき声を上げる。
すっかり忘れていた、実家だ。
音を立てて息を吸ったきり止まってしまった樹理に、哉がゆっくりと言い聞かせるように、静かに。
「心配するな。夕べ言ったことにうそはない」
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