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第一章 幸せのありか
67 side樹理
しおりを挟む目の前のスピーカから、懐かしい声が聞こえた。用意していた言葉『カードキーを返しにきました』それだけ言えたらよかった。息をすって、言おうとした時、叩きつけるような、受話器を置く音が聞こえて、通話が途切れた。
何も応答しなくなったスピーカを見つめて、しばらく動けなかった。
雨に濡れて冷たくなった頬に、それとは別の暖かい流れに、樹理は自分が泣いていることにやっと気づく。どうして、自分では泣こうなんて思っていないのに、涙が溢れてくるのだろう。
分かっていたのに。
ここを去ったのは自分の意志だったのに。
そんな自分を、哉が許すはずはないのに。
カードキーなど、ポストに入れておけばよかったのだ。ここのポストは、ちゃんと電子ロックされているのだから。
でも、直に渡したかった。
哉に逢いたかった。声が聞きたかった。
ふらふらとポストに向かって、キーをいれようとした時、派手に何かを蹴飛ばすような音が奥から聞こえて、樹理はそちらを見た。
そこに、もどかしそうにセキュリティを解除して、開きかけた自動ドアを無理やり体で開けている哉がいた。
長い前髪が、顔に落ちてかかっている。
これが永遠というのかもしれない。そう思えるくらいとても長い沈黙。
「カードキーを、返しにきました。今日まで気付かなくて。ごめんなさい」
ずっと握り締めていたカードを差し出す。
「それを、返しに来ただけなのか?」
「……はい」
小さなカードの、端と端。
やっぱり、哉の指の爪は綺麗だなと、思った。
その指は触れることなく。離れて行く。
「わざわざ、すいませんでした」
ぽたぽたと長い髪から雫を落しながらお辞儀をして、背を向けた樹理の腕を、哉が掴んだ。
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