64 / 326
第一章 幸せのありか
64 side哉
しおりを挟むいくら制動がいいとは言え、それでも止まればいくらかの重力がかかる。シートに寝ていれば余計それをよく感じる。最近は家で眠れない分を車の中で寝るようになった。心地よい揺れの中ならば、短くても熟睡することができる。
「……篠田?」
目を開けてさかさまに映ったのは自宅マンションだ。
視察先から本社に帰って、仕事をする予定だったのに。
「今日はもうお帰りください。ついでに明日からの連休中は本社ビルのメンテナンスがあるので五月七日まで誰も入ることはできません」
「それなら……」
なおのこと仕事にキリをつけておかなくてはならないではないか。大体なぜ誰もそのことを言わなかったのだ。
言い募ろうとした哉を車内において篠田が車から降り、ドアを開けた。
「あなたがいると終いが出来ないんですよ。他のもののことも考えてください」
樹理がいなくなって以後、哉はそれを埋めるものを求めるかのように仕事をしていた。明日の仕事も明後日の仕事も、手当たり次第に。
以前は人に任せていたことまで自分でやるようになった。ただひたすら、仕事をしつづけている。
しぶしぶと言った様子で哉が車から降りた。まだ日が高い。先方で昼食を済ませたので十四時を回ったくらいだろうか。
「では、五月七日にお迎えにあがります」
篠田にそう言いきられてしまった。今日から一週間以上、何をして過ごせと言うのだ?
がりがりと頭をかいて、まずは散髪からかと少し笑う。一度切ったが、また前髪が伸びすぎている。
エントランスのセキュリティを抜けた所で管理人に声をかけられた。
「氷川さん?」
エレベータのボタンを押そうとしていた哉に、通路側の窓から身を乗り出すようにして老人がちょっと待ってと言ったあと体を引っ込めてドアを開けて出てきた。
「これ、氷川さんとこで合ってたかね?」
そう言って、管理人が掲げたのは、女物のシャツと、長いスカート。
「聞こう聞こうと思ってても、氷川さんいつも帰り遅いから。玄関にかけといて、人のもんだったらいやだろうし、つい渡せなくてもうだいぶ経っちまったんだが」
「ええ、うちのです。すいません、手数かけて」
受けとって、哉がそう言うと管理人もほっとしたように、じゃあ費用は管理費を落させてもらってる口座からひいておくと、管理人室に帰っていった。
服を脇に抱えて、カードキーを通す。
家に帰るのは苦痛だった。できることなら副社長室に寝袋でも置いてそこで生活したかったが、それだけは止めてくれと回りに説得されて断念した。
週二回、プロのハウスキーパーを頼んでいるので家の中はおそろしく綺麗だ。
けれどこの部屋に、帰りたいと思わない。
ドアを開けると、奥からぱたぱたと軽い足音が近づいて。
『おかえりなさい』と心地よいソプラノで。
控えめな笑みを浮かべた少女の幻影が、陽光のせいで明るい玄関に映る。
抱きしめようと手を伸ばしたら、かき消えてしまう幻。
靴を脱ぎ捨てて、そのままリビングにある和室の障子を開けた。畳の上に、背広のまま転がって、ポケットから、もう何度見たのか知れない、端が少し柔らかくなった、淡い緑の紙を取りだし、開く。
しばらくそれを眺めて、またそっとしまった。
クリーニングから帰って来た服を、すがるように抱きしめて、目を閉じる。
綺麗に洗われて、月日の経ってしまったそれからは、樹理のあのやさしいにおいはしなかったけれど。
そうすれば、望む夢が見れるような気がした。
0
お気に入りに追加
181
あなたにおすすめの小説
心の声が聞こえる私は、婚約者から嫌われていることを知っている。
木山楽斗
恋愛
人の心の声が聞こえるカルミアは、婚約者が自分のことを嫌っていることを知っていた。
そんな婚約者といつまでも一緒にいるつもりはない。そう思っていたカルミアは、彼といつか婚約破棄すると決めていた。
ある時、カルミアは婚約者が浮気していることを心の声によって知った。
そこで、カルミアは、友人のロウィードに協力してもらい、浮気の証拠を集めて、婚約者に突きつけたのである。
こうして、カルミアは婚約破棄して、自分を嫌っている婚約者から解放されるのだった。
片想い婚〜今日、姉の婚約者と結婚します〜
橘しづき
恋愛
姉には幼い頃から婚約者がいた。両家が決めた相手だった。お互いの家の繁栄のための結婚だという。
私はその彼に、幼い頃からずっと恋心を抱いていた。叶わぬ恋に辟易し、秘めた想いは誰に言わず、二人の結婚式にのぞんだ。
だが当日、姉は結婚式に来なかった。 パニックに陥る両親たち、悲しげな愛しい人。そこで自分の口から声が出た。
「私が……蒼一さんと結婚します」
姉の身代わりに結婚した咲良。好きな人と夫婦になれるも、心も体も通じ合えない片想い。
完)嫁いだつもりでしたがメイドに間違われています
オリハルコン陸
恋愛
嫁いだはずなのに、格好のせいか本気でメイドと勘違いされた貧乏令嬢。そのままうっかりメイドとして馴染んで、その生活を楽しみ始めてしまいます。
◇◇◇◇◇◇◇
「オマケのようでオマケじゃない〜」では、本編の小話や後日談というかたちでまだ語られてない部分を補完しています。
14回恋愛大賞奨励賞受賞しました!
これも読んでくださったり投票してくださった皆様のおかげです。
ありがとうございました!
ざっくりと見直し終わりました。完璧じゃないけど、とりあえずこれで。
この後本格的に手直し予定。(多分時間がかかります)
夫の不貞現場を目撃してしまいました
秋月乃衣
恋愛
伯爵夫人ミレーユは、夫との間に子供が授からないまま、閨を共にしなくなって一年。
何故か夫から閨を拒否されてしまっているが、理由が分からない。
そんな時に夜会中の庭園で、夫と未亡人のマデリーンが、情事に耽っている場面を目撃してしまう。
なろう様でも掲載しております。
【完結】聖女の手を取り婚約者が消えて二年。私は別の人の妻になっていた。
文月ゆうり
恋愛
レティシアナは姫だ。
父王に一番愛される姫。
ゆえに妬まれることが多く、それを憂いた父王により早くに婚約を結ぶことになった。
優しく、頼れる婚約者はレティシアナの英雄だ。
しかし、彼は居なくなった。
聖女と呼ばれる少女と一緒に、行方を眩ませたのだ。
そして、二年後。
レティシアナは、大国の王の妻となっていた。
※主人公は、戦えるような存在ではありません。戦えて、強い主人公が好きな方には合わない可能性があります。
小説家になろうにも投稿しています。
エールありがとうございます!
「お前を妻だと思ったことはない」と言ってくる旦那様と離婚した私は、幼馴染の侯爵から溺愛されています。
木山楽斗
恋愛
第二王女のエリームは、かつて王家と敵対していたオルバディオン公爵家に嫁がされた。
因縁を解消するための結婚であったが、現当主であるジグールは彼女のことを冷遇した。長きに渡る因縁は、簡単に解消できるものではなかったのである。
そんな暮らしは、エリームにとって息苦しいものだった。それを重く見た彼女の兄アルベルドと幼馴染カルディアスは、二人の結婚を解消させることを決意する。
彼らの働きかけによって、エリームは苦しい生活から解放されるのだった。
晴れて自由の身になったエリームに、一人の男性が婚約を申し込んできた。
それは、彼女の幼馴染であるカルディアスである。彼は以前からエリームに好意を寄せていたようなのだ。
幼い頃から彼の人となりを知っているエリームは、喜んでその婚約を受け入れた。二人は、晴れて夫婦となったのである。
二度目の結婚を果たしたエリームは、以前とは異なる生活を送っていた。
カルディアスは以前の夫とは違い、彼女のことを愛して尊重してくれたのである。
こうして、エリームは幸せな生活を送るのだった。
探さないでください。旦那様は私がお嫌いでしょう?
雪塚 ゆず
恋愛
結婚してから早一年。
最強の魔術師と呼ばれる旦那様と結婚しましたが、まったく私を愛してくれません。
ある日、女性とのやりとりであろう手紙まで見つけてしまいました。
もう限界です。
探さないでください、と書いて、私は家を飛び出しました。
大嫌いな幼馴染の皇太子殿下と婚姻させられたので、白い結婚をお願いいたしました
柴野
恋愛
「これは白い結婚ということにいたしましょう」
結婚初夜、そうお願いしたジェシカに、夫となる人は眉を顰めて答えた。
「……ああ、お前の好きにしろ」
婚約者だった隣国の王弟に別れを切り出され嫁ぎ先を失った公爵令嬢ジェシカ・スタンナードは、幼馴染でありながら、たいへん仲の悪かった皇太子ヒューパートと王命で婚姻させられた。
ヒューパート皇太子には陰ながら想っていた令嬢がいたのに、彼女は第二王子の婚約者になってしまったので長年婚約者を作っていなかったという噂がある。それだというのに王命で大嫌いなジェシカを娶ることになったのだ。
いくら政略結婚とはいえ、ヒューパートに抱かれるのは嫌だ。子供ができないという理由があれば離縁できると考えたジェシカは白い結婚を望み、ヒューパートもそれを受け入れた。
そのはず、だったのだが……?
離縁を望みながらも徐々に絆されていく公爵令嬢と、実は彼女のことが大好きで仕方ないツンデレ皇太子によるじれじれラブストーリー。
※こちらの作品は小説家になろうにも重複投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる