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第一章 幸せのありか
56 side哉
しおりを挟む仕事をしている時間より、待たされている時間のほうが多い。絶対気のせいではない。今日何回目に聞いたのか分からない『申し訳ありません今調べております』と言うセリフに飽き飽きしながら、哉は頬杖をついていた。この部屋に来てこんなに退屈なのは初めてだ。改めて篠田の重要さを認識させられる思いだった。今まで一人で突っ走ってきたなどとは言い切るつもりはないが、ほとんど猪突猛進状態で全力疾走をしていた。それも彼のサポートがあったからこそできたのだ。
余計な時間ができれば、余計なことを考えてしまうのが人間だろう。最初は空いた時間はほぼ無意識のまま樹理のことを考えていた。そしてそれが尽きたら、次は篠田という男を分析してみる。すぐに篠田がどうして来ないのか、嫌な予感と言うより確信に近いものへたどり着く。
「すいませんっ! 今……」
いきなり顔色を変えて副社長秘書室に現れた哉をみた瀬崎が、飛びあがるほど驚いて振り返った。
「もういい。帰るぞ」
「え? しかし……まだ五時を……」
回ったばかりですがと問い返した瀬崎に応えず、哉はさっさと秘書室を抜けてしまっている。そのあとを瀬崎が、社用車のカギを握り締めて、走って追った。
定時で帰ったのはこれが初めてだ。
出来るだけ急げと命令を受けた瀬崎が、危険な運転を繰り広げた結果は、それでも普段とあまり変わらなかった。
自分で車を降りて、自宅へ向かう。なにか聞きたそうにしていた瀬崎に、もう帰るように言って。
エレベータを降り、そこに立つ篠田を見る。ドアは開け放たれていて、いつもちゃんとそろえられている樹理の靴が、脱いだままそこにあった。
踵をふんで靴を脱ぎ、室内に入る。リビングにたどり着いた時、ちょうど制服姿の樹理が和室から出てくるところだった。スーツケースの上に他の荷物をのせて。
目があって。
樹理の瞳が見開かれた。
先に目を逸らしたのは、樹理だった。
「荷物を置け」
樹理が首を横に振る。
「帰るのか?」
今度は、縦に。
「父親の会社は?」
その質問には、曖昧に首を振って、やっと樹理が顔を上げた。
「それは……」
言いよどんで、また目を逸らされた。
「玄関に居た方に、聞きました。社長さんも父の会社との取引続行は、約束してくれるって……それからこれ、お返しします」
そう言って樹理が差し出したのは、水色の封筒。氷川系列の銀行のロゴが入ったそれは、少しくたびれていたものの、厚さはほとんど変っていないように見えた。
「やるよ」
「いりません」
「持って帰ればいい。そのくらい働いただろう」
「いりません! 私は、こんなもののためにここにいたわけじゃない!!」
差し出したままの手が振り上げられた。哉に向かって投げるように。拍子にコインがまず遠心力にしたがって出て、その次は紙幣が。帯封がかかったままの分はそのまま床に落ちたが、バラされていた分の紙幣が、二人の間に散らばった。
ならば、なぜここにいたのかと、問いかけて哉が唇をかんだ。
何度も何度も考えた。
何度も何度も同じ答えが出た。
樹理は、父親の会社のためにここにいるのだと。
「もう、帰ります。たくさん、ご迷惑おかけして、ごめんなさい。さようなら」
瞳を合わそうとはせずに、ぎりぎりの微笑みで言うと樹理は哉を迂回するように、リビングを大回りして玄関へ向かってしまった。それに合わせて哉が首をめぐらせた。小さな背中がさらに遠くなるのを止めようと腕を動かしかけたのに、思ったように動けなかった。ただ、ぎゅっと手を握り締めただけで。爪が食いこむほどに。
父親の会社さえよければどうでもいいのかと怒鳴りたかった。
自分のいうことは信じられなくても逢ったこともない、人づての社長の言葉なら……社長と言うだけで信用できるというのか。哉に言わせれば、あの男が世界で一番信用できない人間なのに。
哉は聞くことが出来ない。樹理は、答えることが出来ない。
ぱたん。
そんなささやかな音だけを残して。
幻のような日常は、幕を下ろした。
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