幸せのありか

神室さち

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第一章 幸せのありか

3 side哉

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 東京に戻って最初の二週間は、関係各所へのあいさつ回りで潰れた。その後も仕事の引継ぎや、取引先を覚えていくことでさらに二週間。哉が正式に仕事をはじめることが出来たのは、神戸をでてからひと月が経ってからだった。

 兄のこれまでの仕事を一瞥して、その甘さに哉は歎息する。

 哉がこれまでしていた仕事は、営業や企画と言ったもので、経営とは全く離れた場所にあった。その哉が見ても呆れるほどで、よく言えば人情味の溢れた、悪く言えば経営の基本すら踏まえない、行き当たりばったりの采配。とうの昔に切り捨てられていいような採算の取れていない企業や工場、営業所が、寄生するように本社にすがっていた。それらの救済はおそらく全て、副社長権限で兄が独断で行っていたことだろう。

 まずはこれから処理していかなくてはならない。いやな仕事ばかり押し付けられた気がするが、これでコケるようなことがあれば、哉も兄と同様に、あっさりと解任されるのだろう。その地位から。
 副社長と言う地位には、何の価値も見出せなかった。現社長の息子だからと与えられた地位は、世間が思うほどすばらしくも何ともない。けれど、ただ純粋に、面白そうだと思うからこそ、彼はここにやってきた。

 あがってきたリストをじっくりと読みながら、内線を取った。東京に帰ってきてすぐに社長である父が、役に立つからと与えてくれた秘書兼運転手の篠田を呼び出すために。

 引き合わされた瞬間、信じさせてくれるものがある男だった。無口だがきっちりと仕事をこなし、ひとかけらのソツもない。社内社外問わず初対面の相手と話をしなくてはならない時は、さりげないフォローも忘れない。今のところ、父の手の中のものだとしても、社内で哉の味方だと言えるのは彼だけかも知れなかった。




 リストから、再建、合理化の必要な子会社や関係企業へ、その計画の提出を命じて、〆切の翌日、哉のデスクの上には膨大な量の資料と計画書が積まれていた。ひとつずつ、時間をかけながら確認して、可不可をつけていく。
 哉の判断では半数以上が不可。つまり切り捨ての対象になる。それをさらに篠田に相談して、彼の意見を聞き、結局三分の二になるかという量の対象の取引中止を決定した。つまり、たったそれだけでこなせる仕事をだらだらと細かく分配して経費をかさませていただけなのだ。今まで。

 社長に連絡すべきかと問う哉に、篠田は『この件につきましては副社長一任とされております』と答えた。つまりは、何かあったらお前が全て責任を取れ、と言うことなのだろうが、分かったと答えて、社長へは結果の報告だけをすることを決めた。

 篠田を控え室に下げて、首を回しながら立ち上がる。デスクの後は、セオリーどおり大きなガラスで仕切られており、眼下にはごみごみとした都会の街並みが続く。社長室のある最上階の一つ下の階になるこの部屋からの景色は、おそらくこの会社に勤めるものなら見てみたい、見下ろしてみたい景色だろう。


 きれいでも、汚くもない。


 哉にとっては、ただそこにあるだけのもの。
 生きていくのは簡単だった。
 何も求めなければよかったのだから。

 そう言えば、中学、高校とずっとつるんでいて、なぜか現在もその関係が瓦解していない数少ない友人が珍しく真顔で言った言葉を思い出す。『生きているのと、死んでいないのは違う』どうしてそんな言葉を思い出したのだろうと、少し唇の端をあげてから、哉はデスクに戻った。

 彼に連絡を取ろうかと考えて受話器を取り、考える。わざわざ自分が言わなくても別ルートから今回のことは伝わっているだろう。いろいろ問われるのも煩わしくて、気が変わった。指は、取引中止の決まった相手先の番号を押していた。

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